2011年10月31日月曜日

要害山 山入城

世に戦国大名・佐竹氏のファンは多い。
かくいうワタシもその一人である。
何度も秋田各地の佐竹関連の場所を訪問もしている。
佐竹氏に入れ込んでいるファンなのであるが、この分野に興味の無い人には到底理解してもらえないのが少々寂しい。
(以下、少々マニアックな内容となるが容赦願いたい。)


         

佐竹氏は、言わずと知れた常陸国の大名だ。
江戸時代の始めに出羽秋田に移封(国替え)させられたものの、茨城北部を拠点にして470年間も勢力を誇った、源氏の流れを汲む名門中の名門の大大名である。

佐竹氏が本拠地を置いたのが、常陸太田市の舞鶴城。
現在では目立った城郭遺構は残っておらず、太田小学校の敷地内に碑が建つ程度である。
城があった旧市街地が丘であり、周りが崖になっている要塞であったことと、何よりも江戸時代以前の中世の城であることとから、以降の城(大阪城や姫路城、江戸城など)によくある立派な整然とした石垣はこの城にはない。

通った高校が、この常陸太田市内の城跡近くにあったこともあって、この街中はかなりディープな場所まで歩き回って知っている。
町名にも、中城町、内堀町、馬場町など城下町としての名残がある。
先の地震で大鳥居が崩落したが、若宮八幡宮などは往時の面影を残す場所として気に入っている。
堀跡も随所に確認できるが、全く整備はされていないし、説明板も皆無だ。
一般の人がここを訪れても、城があったことさえ想像できず、ましてや当時のイメージを膨らませることなどは困難かもしれない。

たとえば小田原城のように立派に復元された建物としての城を見るのも、イメージとしてそれはそれで良いのであるが、この佐竹氏の本拠地舞鶴城跡のように建物など何もない場所から往時の隆盛を極めた姿を偲ぶのも、歴史ファンとしてはまた楽しいものである。


         

470年間もの長い間、佐竹氏はこの地で勢力を誇ったのではあるが、その間には内紛もあって、佐竹一族同士が近隣で対立しあう状態が続いたこともある。
代表的なものが、庶家(分家)の山入氏との対立であり約100年にわたった内紛である。
佐竹宗家(本家)に跡継ぎの男子がおらず、時の関東管領である上杉家から養子をとることになった時があった。これを良しとしない時の城主・山入与義(ともよし)が宗家に反旗を翻し、太田の宗家の城を占拠するといった事態にまでなった(1407年の山入一揆)。
山入氏は当時の室町幕府と直接つながり、その支援もあってかなりの勢力を維持していた一族である.
その山入氏の本拠地が、山入城である。
この山入城を訪ねた。

宗家の舞鶴城跡は遺構がほとんどが消滅してしまっているのに比べて、山入城は奥まった山間にある山城のため遺構の保存状態は極めて良好である。
そのためか、佐竹ファンとしては訪れておきたい城のひとつであり、ちょっとした聖地になっている(宗家は養子を取り系統には血筋の断絶があるのに対し、山入氏は純粋に一族の血筋が続いたため、佐竹ファンとしてはこちらに気持ちが傾くのかもしれない)。


         

常陸太田市の舞鶴城から北西に約8km。
今は合併で同じ常陸太田市になっているが旧水府村地区の国安にある。
山田川を眼下にした天然の要塞、その名も『要害山』一帯が城である。
要害山の麓に立つ案内板
舗装道路が整備されているため、車で山頂近くまで行ける。
九十九折の山道を1kmほど車で進む。
この案内板で下車し、林の中を歩く
山頂の城跡まで10分ほど
ここからが、中世の山城探訪の醍醐味の場所だ。

(写真ではなかなかその雰囲気が表現できないが、急峻な山道の通路、掘込み、土盛りなどの遺構が次々に目の前に広がると堪らなく興奮してしまう)

山の尾根筋を掘込んで作った竪堀や土橋がある。
土橋と竪堀の遺構
明らかに人為的に作られたものだ
このような狭い道をさらに5分ほど進んで、やっと主郭に到着する。
頂上の主郭跡
20m四方程度の狭い平らな場所だ
奥には一段高い櫓台の跡がある
山入城跡の説明板
頂上の主郭は発掘調査して整備されているとはいえ、草ぼうぼうであるし、周囲は木々に覆われている。
こんな急峻な山道を徒歩で登るだけでも大変なことだ。
とても人が日常生活をまともに送れるとは思えない。
普段は、山腹の段郭あるいは山裾の一帯に居住していたのであろう。
(と思っているのだが、発掘調査ではこの山頂付近からも遺物が多数確認されているようだ)

この城は、山入氏が宗家に滅ぼされた1504年以降も、北部の脅威(福島の岩城氏や仙台の伊達氏など)に対する最前線の砦として存続した。

山頂からの眺めは、周囲の木々が邪魔であまり良くない。
ために、見晴らしの良い場所から眼下に広がる常陸太田方面の写真を撮影してみた。
間違いなく、この風景は600年前に山入与義が目にしたものと同じである。
車を降りた場所から常陸太田市内方向を眺める
         

戦国末期、この地には遥かに遠い京の室町幕府と直接繋がり、勢力を誇った一族がいて、何千人もの一族郎党がこの山を囲み生活し、歴史にその名を残した。
今はただ薮の中に佇む遺構群であるが、往時の武士(もののふ)たちのザワメキが聞こえてきそうである。
まさに『兵どもが夢の跡』である。

ここにはかつて彼らが生きた確かな痕跡が残されている。
必死に時代を生き抜いた彼らの、生身の人間としての息づかいが聞こえる。
怨嗟も、歓喜も、絶望もあったはずだ。
幾多の血がここに流れたはずだ。

彼らが眼にしたであろう同じ風景がいま眼前に広がる。
その場所に佇み、じっと眼を閉じて聞こえるはずのない彼らの悲喜交々の声に耳を傾ける。
このときに我が精神は、しばし時空を超えてかの時代にワープする。
このひと時が堪らないのである。

★★このような一連の行動は、一般の人にはとても理解できぬ怪しい挙動であろう。林の中をうろうろするかなり怪しい人物に見えるはずだ。でも立入り禁止区域にでも立ち入らない限り、温かい眼で見てほしい。お願いである。★★


         

一度訪れたいと思いつつなかなか果たせなかった山入城である。
やっとまたひとつ、登頂し遺構を自分の眼で確認できた山城が増えた。
実にササやかであるが、佐竹氏ファン・中世山城ファンとしては大変満足な1日であった。

500年以上経った今でも、この山城に吹き抜ける秋風は同じである。
秋の柔らかな光もまた同じである。
山の中腹の段郭と思われる平坦部は柿や柚子が栽培されている
実にのんびりとして穏やかな風景が広がる

2011年10月30日日曜日

富山の置き薬

ここに古い木製の、抽斗付きの箱がある。
倉庫を整理していて見つけたものだ。
墨書のある木箱
抽斗には鉄の取っ手が付いており、正面にはシールが貼られているが薄くなり読めない部分もある。
箱にはいくつもの墨書がある。
・上部には『越中富山 御薬品々入 蓮野薬房』。
・右側面には『富山県富山市 東岩瀬町新川町 蓮野▲▲郎』(▲は個人名)。
・左側面には『昭和参拾年度』   とある。
箱の上部
箱の右側面
(個人情報である可能性が高いため一部画像修正してある)
箱の左側面
そう、これはまぎれも無い富山の薬売り用の置き薬箱である。
富山市の蓮野薬房の蓮野▲▲郎さんが、はるばる我が家にやって来て薬を置いていった、専用の薬箱である。
小さい頃、この薬箱から薬を取り出して飲んだ(飲まされた)記憶が蘇った。

         

昭和40年代ごろまではどこの家庭でも当たり前であった売薬システム。
遠く越中富山から、薬を担いでこのような茨城の田舎にまで来るという、一種の訪問販売、行商である。
今のように、ドラッグストアなど無論無い時代である。
薬屋とて近くにない当時の農村としては、非常に有り難いシステムであったに違いない。
薬の種類等は満足になくとも、置き薬としてある程度のものが常備してあるということで、とくに子供が多かったこの時代で、お腹をこわしたとか風邪を引いた程度ではそう簡単には病院には連れて行けなかった時代には、この安心感は大変大きかったと思う。
ある程度の年代の方(現在50歳以上か?)であれば、この売薬システムやら薬のパッケージにはノスタルジーを覚えるのではないだろうか。

         

大きな柳行李を担いだ富山の薬売りの男性が、毎年決まった時期に家にやってくる。
この一年間で使った薬の代金を払う、新たに薬を補充する。
一通りの手続きが済んだ頃に、必ずと言っていいほど子供たちに紙風船やゴム風船(→ガサ張らず軽いというのが選ばれた理由であろう。)をくれたものだ。
当時はこんな紙風船やらゴム風船であっても、もらうと大変嬉しかったものだ。
今考えるとなんとまあ素朴で純真な子供たちであったものか。
(その子供たちの40〜50年後の姿が、今の我々だが。。)

         

この箱の底には、その年に置いていった薬の明細書が貼付けてある。
引き出し底部
(画像クリックで拡大)
かろうじて日付は昭和34年(=1959年)10月20日と読み取れる。
薬の明細部分も破損して判読不能のものも多いが、幾つかは読み取れる。
(加えて、蓮野さんの手書き文字は癖がありかなり読み難い字である)
六神丸、ケロリン、アカチンキ、メンタームなどいまもその名に触れることができる製品もあるが、既に販売していないものもあると思われる。

この日に蓮野薬房の蓮野さんが置いていった種類は23種類のようだ。
風邪・熱の薬、小児用薬、腹薬などが多いことがわかる。

         

かつて家人は、家族の健康を考えながら、あれこれ思いを巡らし、迷いつつこれらの製品を選んだに違いない。
ごく限られた種類の薬であり、購入・補充は年に一度しかないのである。
当然、費用も考えないといけなかったであろう。
今の時代の感覚からしてみたら、不自由きわまりないシステムである。
だからこそ、この富山の薬売りが持参する薬の選択にかける父母の思いが尊い。
だが当時はそのようなことは知る由もなく、あまりにも我々は幼すぎた。

果たして、我々子供たちは特段の病気もせずに育ち、皆今も健康体でいる。
何よりも、丈夫に生んでもらい、このように大きくしてもらったことに感謝である。
自分でも子供を育て、この齢になってやっと気づく親の思いである。

容易に薬が購入でき、病院へもすぐにかかれるような現代の社会になって、良かった反面、何か喪失したものがある気がしてやまない。
単なる昭和の良き時代への郷愁ではなく。

         

富山の置き薬についてネットサーフィンしていて、薬箱の前面に貼ってある獅子頭のラベルが判明した。
この赤い獅子頭の図柄は「かぜピラ」であった。
いまでも販売しているようだ。⇨ かぜピラ

遠い記憶であるが、この薬、飲んだ(飲まされた)気がしないでもない。
ついでながら、他の薬のパッケージもここを参照してみてはいかがであろうか?
ああ、そうそう、こんなものがあった、と懐かしい当時の記憶が、薬の味とともに蘇るかもしれない。
・      富山市電子図書館

         

かつてよく利用したことがある『大衆食堂半田屋』という、まさに大衆食堂のチェーン店がある。
その店内には必ずこのポスターが貼ってあったものだ。
(今もあるかどうかは知らない)
おそらく多くの方が目にしているはずだ。
大衆食堂半田屋のポスター
この飯を頬張る無垢な子供の、なんとも言えない表情とキャッチコピーが好きだ。
富山の薬売りが来ていたあの頃、かぜピラを飲まされていた頃の自分は、きっとこんな顔で飯を頬張っていたのだろう。
・・・・・なんとなくノスタルジック。

この引き出しを開けたとき、不思議とこのポスターを思い出した。
かつてこの家で、家族が揃って食卓を囲んでいた時の賑やかな声が聞こえた気がした。
そっと閉めたときには、ほろ苦いかぜ薬の味が口の中にスーッと広がった。

壊れそうな箱であるが、昔にタイムスリップさせてくれる魔法箱でもあり、思い出の詰まったタイムカプセルでもある。


いま、薬売りの人が来たあの時の細かな記憶が蘇った。
富山から我が家に来ていた薬売りの男性(・・・あの方が蓮野さんであろうと思う)は、ピカピカのハゲ頭の男性であった。

秋の陽差しが西から差し込む囲炉裏脇の上がり口。
黒い大きな風呂敷で包んだ柳桑折を背負い、蓮野さんは訪れた。
何段もの柳桑折を開け、家人とよもやま話をしながら薬の入れ替えをしていた。
ほどなくして手続きが終わると、我々子供が呼ばれた。
蓮野さんはニコニコしながら、我々に細いゴム風船で器用に動物の姿を作ってくれたりした。
確か、金歯が何本かあった方だったやに思う。
妙にニコニコした顔に、ピカッと光る金歯(・・とツルツルの頭)。
なぜかそれだけが深く印象に残っている。

2011年10月29日土曜日

赤坂サカス・金スマひとり農業ブース

『赤坂サカスの「サカス」は、桜を咲かすという意味であると同時に、赤坂にたくさんある坂=坂s=「サカス」の意味もある。また「赤坂サカス」のローマ字表記「akasaka Sacas」を後ろから読むと「SACA・SAKA・SAKA」=「坂・坂・坂」となる。』
(Wikipediaより)
ほとんどがア(a)の言葉で構成され、口を開き放した状態になる。
早口言葉のようで、なんとまあ言いにくい、わかりにくい名称をつけたものかと思う。
きっとこれが都会的でオシャレな街の語感・センスというものなのだろう。


         

TBSテレビの本丸である赤坂。その赤坂サカスに行って来た。
東京メトロ千代田線の赤坂駅を降り改札を抜けると、サカスだ
入り口にあるプレート
ひとり農業の新米ブースの案内が貼ってある
山と畑と田んぼに囲まれ、静かに田舎暮らしをしているお上りさんには、どうにも落ち着かない場所だ。
高層ビルばかりで見上げていると首と肩が凝る。
緊張してしまう。
聳え立つTBS放送センター
10月30日まで行われている「赤坂・サカスマルシェ」で、「金スマ『ひとり農業』ブース」がオープンしている。
昨日(10/28)放映の金スマでも紹介されたとおり、そのブースで渡辺氏の栽培した新米の試食頒布があるというので、(新米が試食したい訳ではないのだが)ミーハーと思われるが行ってみることにした。
ひとり農業米は12時からの頒布だ
         

赤坂サカスに到着したのが10時過ぎ。
金スマひとり農業ブース前では(トレードマークになっているとおり、帽子を逆にかぶり、作業着姿で)渡辺ヘルムート直道氏のビデオ撮りが行われていた。
「農家の皆さん、おいしいお米をありがとうございます」
という台詞を何回も繰り返しさせられていた
某炊飯器メーカーの製品を手にして写真撮影
「もっと笑顔でお願いします!」という注文が何度も飛んでいた
撮影現場の周囲には黒山の人だかりができている。
心なしか女性が多いようだ。
携帯電話やデジカメで撮影する人は実に多い。
当たり前だが、渡辺氏は有名人だ。

何度も繰り返し同じポーズやら、台詞を繰り返させられている。
渡辺氏はもともとこの業界の人である。さすがに嫌な顔ひとつ見せずに応じている。

常陸大宮のひとり農業現場においても、同じような光景が毎度繰り広げられているのだろうと思う。
やらされ感もきっと有るに違いない。
やれやれ、ご苦労様なことだ。
このような舞台裏を見て思うのは、演出は大事であるものの、過ぎるとやらせとなり、興味は失われる。塩梅が難しいところだ。
ただ、渡辺氏が身体を張ってやっていることは、局側の意思による演出はあるとしても間違いなく重労働だ。生半可な体力では続かない。

         

ひとり農業ブースと言っても、ご覧の通りの新米ブースで試食のおにぎりを配る窓口、渡辺氏の活動を紹介するパネル数枚が掲示されている右の僅かなスペース、いままで放送された番組内容を短く編集して流している脇のスクリーンのみだった。
せっかくの機会とスペースである。
もっとPRするパンフ等を揃えておいても良いかったのではなかったか。

撮影の合間に、短時間ではあったが渡辺氏に挨拶できる機会を持てたのは幸いであった。

11時過ぎ、この窓口でラップに包んだ炊きたてご飯の頒布(福島・喜多方米)が始まった。
残念ながら12時から頒布予定のひとり農業米までは滞在できなかったため、渡辺氏の生産した新米は食せていない。
すぐに行列が発生
ラップに包まれた新米のおにぎり。温かい。
後ろは升に入った各地の精米された新米
         

この金スマブースの前の広場では、サカスマルシェが開かれていて(むしろこちらがメインイベントである)、幾つものテントが並び各地の産直品が販売されていた。
東北を中心とした各地から出店されている
茨城からは、今日は久慈郡大子町の店が出ておりリンゴや柿、ショウガ、地ビール等が並べられていた。
大子町からの出店にも多数のお客さまが集まっている
         

TBSという巨大マスメディアが主導する「ひとり農業」を、仕事として続けるのはさぞ大変であろうと思う。
自分の意志の反映を含めて、自由や裁量があるようにみえて、おそらくは無いに違いない。
一種のサラリーマン的なものかもしれないと思う。
そして、所詮バラエティーといってしまえばそれまでだが、テレビ局の意思で踊らされるタレントという感じがしてしまう。
撮影現場で何十人ものスタッフに囲まれ、指示され、動き回る渡辺氏を遠くから眺めつつ、そんなこんな、あれこれを考えてしまった。

視聴者から見えないバックヤードの事情はともかく、渡辺氏の「農業」はまぎれもない生産活動としての農業であり、苦労することの意義を正しく伝えている番組である。
このように表現すると失礼かもしれないが、農業にとっては良い広告塔である。


         

渡辺氏も常陸大宮市での生活は4年目になる。
かつてディレクターとして闊歩したであろうこの都心のビル街より、いまや常陸大宮市内の山々の風景の方が心落ち着くのではあるまいか。

スーツよりも作業着。
パソコン・スマホよりもトラクター・鍬・鎌。
イタリアン・パスタ料理よりもマイタケの炭火炙り焼きと自家栽培手打ち蕎麦。
スーパーで買うオシャレ果物よりも裏山で穫る柿、栗、胡桃。
スポーツジム通いより野良仕事。

人間として生存して行くための力は、都会生活より田舎生活の方が間違いなく鍛えられる。

かく言うワタシは、別に都会が嫌いなわけではないし、都会忌避をしているのでもない。
ではないが、やっぱり常陸大宮市のような地方小都市での田舎生活が断然いいのである。
その田舎暮らしをしているとなかなか気付かないであるが、のびのびと人間らしく生活できる場所なのだ。
都会暮らしをしている方で、そのように理解していて、田舎に住みたいと願いつつなかなか実際には(現実的な問題が多く)実行に移せないでおられる方も多いことだろう。
だからワタシなどは本当に恵まれているのだと思う。


         

確かに便利で刺激的でオシャレな大都会ではある。
が、いまさら住みたいと思わない。住めない、無理だ。
我が先祖から引き継いだDNAにはそう刷り込まれているらしい。
赤坂から帰りの地下鉄車内で、窓ガラスに写った自分の疲れた顔を見ながら、つくづくそう思った。
都会の雰囲気に疲れつつ、サカスマルシェを後にした
サカスから赤坂駅に降りる光る階段
ここ赤坂には似合っても、やはり茨城・玉川村駅にはいらない