文化部次長鵜飼哲夫氏による『「ウ」の目 鷹の目』というコラムで、見出しは『やがてむなしき「便利」』である。
常々感じていることを、氏が軽妙なタッチで鋭く指摘している。
全国紙でもあり、読まれた方も多いと思うが、ポイントとなる点を一部抜粋し引用にて紹介したい。
1.夏目漱石の講演紹介の部分
⇨ 夏目漱石は明治44年の講演『現代日本の開花』の中で、〈面倒を避けたい横着心〉、良く言えば〈出来るだけ労働を少なくしてなるべく僅かな時間に多くの働きをしようとする工夫〉は、開化の自然ななりゆきという。しかし、日本の場合、追いつけ追い越せの外発的な開化で、西洋が時間をかけて作った便利なものの長所、短所を吟味するゆとりもないまま、すぐに新しいものに手を出すから、神経は衰弱する。日本の開化は〈皮相上滑り〉と語った。
結論は悲観的だ。上滑りは悪いことだからといって合理化の流れを止めるわけにはいかない。〈事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かねばならない〉
そうして便利を求め、歩かず、階段を上らず、車やエスカレーターやエアコンに頼り、エネルギーを大量消費。今日、エネルギー政策の見直しが迫られている。
2.養老孟司氏の著書『ほんとうの復興』(新潮社)中にある氏の言葉の紹介部分
⇨ 新緑の葉は、太陽が東から昇り、西に沈むまでに最大限日照を受けるために、夥しい数の葉が枝につき、独特の配列をしているから美しい。
〈それといわゆる太陽電池の並べ方を比べてみたらいかが。人知とはなにほどのものであろうか。ひたすら、同じ角度で、同じ板を並べているだけではないか〉
目を凝らし、耳を澄ませば、自然は、賢しらな人間の知恵をはるかに超えた英知を授けてくれる。
「必要は発明の母」であり、不便に耐えられず、便利を求める精神は進歩をもたらしたが、人知には限界がある。便利になると、ゆとりが増えるはずなのに、ネットチェックに負われる人もいる。私たちの生活は、本当に便利になったのだろうか。「心」を「亡くす」と書いて「忙しい」。忙しいは、むなしい。
いかがであろうか。
本当に便利になって、幸せを実感しているだろうか。なにかしらおかしいと感じてはいないだろうか。
便利さは確かに社会生活を快適にしてきたが、その真の価値を理解しているのは不便だった時分を体験してきたひとである。その人たちであっても、便利さで豊かになったはずなのに、逆に流されて精神的に貧しくなってしまった人も多いのではないか。
ましてや、生まれたとき・物心ついたときから既にその便利なものが当たり前に存在してた世代にとっては、なにをかいわんやである。
最近発売されたiPhone4Sが話題をさらっているが、携帯電話や携帯端末などの情報機器の進化が著しい。
個人が携帯電話を持つことが当たり前になって、機能が格段に充実し、一見それを使っているひとの生活は便利になったように見える。はたしてそうなのだろうか。
便利さの恩恵を新に受けている人も確かに多いだろうが、それ以上に、便利さの享受の裏で、崩壊し始めた人間本来の大切なものがある気がして止まない。
電車の中ではいつも憂鬱になる。
■座席に座る全員が皆同じように、ひたすら小さな画面に見入り、指先をせわしなく動かしている。
他人との関わりを一切断ち、沈黙しひたすら自分だけの世界に潜り込む。
多くの若者はイヤホーンを付けたまま。異様な光景だ。
■幼い子供連れの母親も、子供そっちのけでひたすら携帯画面を見続ける。子供が車窓から外を見て何かを母親に話しかけているのだが、生返事ばかり。メールチェックであろうか、一種のネット中毒である。
■サラリーマンとおぼしき30代男性も、S社かN社のゲーム端末を両手で抱えて(当然イヤホーンをつけて)、ひたすら指を動かして画面の怪獣と戦っている。
カチカチとキーを激しく叩く音が煩いが、本人は気づかない。
きっと中学生時分からこのゲーム機とともに大人になったのだろう。
タイミング良い案内に頼り切り、右や左に道を進んでいると、道はまず覚えない。
事前に地図を頭に叩き込むことなどは、当然しない。
地図帳のイメージを頭の中に展開し、動物的な勘で、車がいまどちらの方角を向いて走っているのかを常に頭に置いて、どれくらい走ったから交差点があるはずだ、などという感覚が育たない。
便利さはこの本能的な感覚を鈍らせる。
終いには、全く無いものとしてしまうだろう。
考えることさえ止めてしまう可能性も多分にある。
携帯電話が、ゲーム機が、カーナビが悪いというのではない。
それを使うことで得られる効用は確かにある。
ただ、その便利さの裏に潜む悪魔に、心身ともに支配されてはいないかということだ。
道具を持つことで便利になると、それに頼り切りになる。
人間は弱いので致し方ない。
意識しないと、どんどん退化してしまう。
頼り切りになると、考える力・判断する力がどんどん衰弱してしまう。
脳のごくごく薄い部分でしかモノを考えなくなり、なんでも面倒になる。
悪魔が奥深く入り込んで蝕む。
敢えて意識して、自らの意思でそうならないように抗うことも出来るはずだ。
まだ遅くはない。
あえて不便を受け入れることだ。
労を厭わず、時間をかけることだ。
面倒がらずに手を、足を使うこと、アタマを使うことだ。
そこから本当の人間らしい精神が取り戻せる。
幸いに農的生活には、生物の成育に合わせたゆったりとした時間と、みごとなまでの不便さとがある。
大いなる存在である自然を相手にしていると、人間が作り出した機械等はちっぽけなもので、それにココロを占有されているのが馬鹿らしくなる。
何も語らない自然だが、街の喧噪や、仕事・人間関係に疲れたココロも、ゆっくりゆっくりと癒してくれるはずだ。
PCの前から離れよう。携帯電話は横に置こう。
それが無理ならば最低限にして、野に、山に出て、空を見上げよう。
ただ見上げるだけで良い。ボーっとするだけで良い。
毎日見入っているPCや携帯の小さな画面とは比較にならないほど広くて、大きくて、青い空がそこにはある。
何もないJR玉川村駅とその周辺だが、空は広く大きく青い 都市生活者が便利さと引き換えに失ったものがここにはある |
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