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2016年3月14日月曜日

内田義信さん

内田義信さんをご存知だろうか。
小瀬の人で常陸大宮市のHPでも紹介されている(p.28)人なのだが、意外と知らない人が多い。ちょっと寂しい。
3月14日(旧暦)は内田義信さんの命日。訳あって自ら命を絶ったのだが、その死は人々にいたく感動を与え、深く心に刻まれた。彼のお墓とされる場所には立派な石碑が建てられている。傍らにはヤマザクラの大木があり、季節には美しい風景となる。
                                           
内田さんの正式な名前は『内田弾正左衛門義信』(うちだだんじょうざえもんよしのぶ)という。なんといかめしい前時代的な名前だろうか。それもそのはず、天文9年に亡くなっている大昔のお武家様だ。西暦でいうと1540年なのでいまから574年前である。内田弾正さんは自刃(つまり切腹)して果てたとされる。

内田さんの話とは、おおよそ次のようなものだ(『佐竹読本』高橋茂著 による)。

時は1540年(天文9年)。いまの大宮小学校の場所にあった部垂城とそこの城主だった佐竹義元。太田にいる佐竹宗家の当主義篤は義元の実兄である。いろいろあって義元は義篤からかねてよりにらまれていた。
ある事件をきっかけに、謀反の企てありとして兄・義篤は部垂城を急襲した。不意を突かれた義元、果敢に応戦したが、いかんせん闘う態勢が整っておらず極めて劣勢である。
義元は、同族筋の盟友である小場城と小瀬城に急ぎ使者を送り、援軍の派遣を要請した。
知らせを受けた小場城では『援軍を送ることは、佐竹宗家に対する謀反となる』として援軍要請を黙殺。一方の小瀬城は『援軍を送れば宗家に弓引くことになるが、さりとて見殺しにするは盟友の信義に背く』として城主は迷いに迷った。その時、上席家老・内田弾正左衛門義信は『部垂城に対する援軍の事、臣に一任願いたい。我に考えあり』と言上した。
一任を受けた内田弾正は、我が子の義直を含む13騎を率いて部垂城を目指し急いだ。八田境の部垂逆川まで来たときに、はるか彼方の部垂城の方を望めば炎は天を焦がし落城疑いなしと見えた。内田弾正は従者に向かって『部垂城はもはや落城せり。我らの任務は今ここに終われり。汝ら速やかに城に帰えられよ。予は義のために自害せん』と告げた。しかし帰る従者は一人もなく全員が田子内原の丘に登り、従容として自刃して果てた。その場所がいまの弾正塚であるという。
ちなみに義元は討たれて死亡。部垂城も落城した。
                                           
小瀬城主としては援軍を送ること=宗家に反逆することになってしまうところだったが、内田弾正の自刃という形によりお咎め無く決着を付けられた。盟友・義元への義も果たした。内田彈正は家臣としての大義に殉じた訳だ。
(→ 急襲された義元から使者が大宮町内から小瀬まで走り、小瀬城内の軍議を経て、内田弾正が支度を整え八田坂までくるまでには相当の時間が経過している。すでに戦の決着はついていたはずだ。内田弾正はそのあたりことは承知で、当初から自刃する覚悟で出陣したのであろう。小瀬一族存続のために)

現代のわれわれの感覚をもってしては、義を果たすための14人の自刃の意義は到底理解することはできない。内田弾正の自刃はまだわかるとしても、従者の13人の死の覚悟は理解できない。それくらい、戦国時代における宗家と一族諸家との主従関係は厳格で、当時としては当たり前の主君に対する臣下の義だったのだろう。仕えるということは主君のためにいつでも命を投げ出す覚悟であるということ。それくらい義というのは大切にされた重みのあるものだったのである。
『屍は田子内原の草苔に朽ちぬとも義は高々と万天に輝けり』と弾正塚由来記にあるそうだ。
ただし、この内田弾正の話、史実であるか断定できないとされていることだけは記しておく。
                                           
旧暦3月14日は新暦4月20日にあたり(旧暦→新暦変換プログラム)、まさに当地ではヤマザクラが葉桜に変わりつつある時分である。
弾正塚の石碑は地元の有志の手で昭和26年に建てられたもの。脇にはヤマザクラの大木。最近のことだが、塚の周辺の藪が大規模に伐採され大変キレイになった。
ヤマザクラのキレイナ時期にでも是非お立ち寄りを。場所はここ。
泉下の内田弾正ら14人もきっと喜ぶに違いない。

ちなみに義元の家臣たちは主君亡き後は、小場城の衆騎(よりき)として預けられ、部垂衆(へたれしゅう)と呼ばれた。佐竹氏の秋田国替えに伴い城主の小場義成とともに秋田に移ったのだが、彼ら部垂衆がまとまって住んだ場所が大館市の部垂町である。ここには義元を神として祀る神社もある。これが縁となって常陸大宮市と大館市は友好都市協定を結んだ(2015/11)。

2016年2月14日日曜日

常陸佐竹氏の軌跡 パネル展

佐竹氏関連のパネル展が開催されているので覗いてきた。
先日の講演会に続き、常陸佐竹氏の理解を深めるには実に良い催しだ。

一昨年35回にわたって茨城新聞に掲載された『奥七郡からの出発 常陸佐竹氏の軌跡』という連載記事を中心に、関連資料を展示した写真パネル展だ。
内容的にはかなり充実したものだろうと思う。なかなか訪ねることができない関連遺跡の写真がふんだんに掲示され、説明も良くなされている(と思う。さすが新聞社だ)。

 パネル展
 ■日時     2月5日~28日  10:00~16:00   月曜日休館   
 ■場所     ふれあいギャラリー 
                           (常陸大宮市北町15   高速バス停となり)
         入場は無料   


掲示されている写真をじっくりと見つつ説明文を読むと、いまでは何ということもない当地の風景となっている寺社や山、道、川、館跡のそれぞれに、佐竹470年の軌跡が色濃く染み込んでいるのだということを改めて実感する。470年もの間、源氏の名門一族が常陸国北部で存続してきた歴史的事実はわれらの誇りである。
                                           
余談だが、徳川家康は佐竹という他の武門を圧倒する家格と勢力を誇った有力大名が関東北部に留まることを極度に恐れた。つまり佐竹氏は由緒正しい名門故に国替えをさせられた一面もある。徳川家康は己の出自に後ろめたさ・引け目があったのである。
うらやましいほどの家格に加えて実力(武力)も人気(領民の信頼)も基盤(豊かな領地・財政基盤)もある、そんな勢力が江戸近辺に居られてはなんとも都合が悪い。どうにか理由を付けて取り除きたかったのだろう。江戸近辺から強大な勢力を持った佐竹を遠ざけることで、(江戸の鬼門に位置した常陸から)寝首を掻かれる懸念を排除したわけだ。
徳川は清和源氏・新田の支流(つまりは源氏の血を引く)という伝えになっているが、これとてどこまで正しいかは分からぬ。とにかく征夷大将軍を称するためには作ってでも家柄と格式が必要だったのだろう。彼らは氏素性のはっきりしない、狡猾で知略と武力に長けた単なる三河の田舎侍だったかもしれない。あるいは源氏本流からしたら傍系の傍系の傍系のそのまた傍系かもしれない。とすれば成り上がりの秀吉と似たり寄ったりではないか。・・・というのが小生の考える説である。
(だからダメ、悪い、というのではない。徳川は天下泰平の世を作り、後の日本の基礎を作ったのだから功績は極めて大である)

ついでに言うと、徳川水戸藩は佐竹氏と違って常陸国全域を支配下に置けたわけではない。
あたかも現在の茨城県の範囲=水戸藩領のイメージがあるが誤りである。実はもっと狭くて限られた地域でしかなかった。
水戸周辺、那珂川以北の福島との県境までの地域、潮来市・行方市周辺、茨城空港あたり。
これだけしか領地ではなかった。土浦や常総など県南県西地域の大部分は他藩なのである。
 歴史館所蔵の水戸藩領の地図(→これ。茨城県が横倒しになった地図で北が右、南は左の地図。茨城県民であればすぐにイメージ変換できるはずだ)があるので見て欲しい。色が付いた部分は驚くほど少ないであろう。

県南・県西地域のひとたちには、自分たちは徳川水戸藩の領地ではないとの自負があるはずで、いまも意識の奥底に潜んでいるのではないだろうか。そこを無視して水戸=徳川=茨城の中心、との単純な図式だけで物事を推し進めてもダメだろうと思う。この点については先だっての講演会で講師の常陸佐竹研究会会長の冨山氏も指摘していた。

水戸藩というのは御三家の一つではあるが、実はこれだけしか領地はなくてそれはそれは貧乏だった。それに比して佐竹氏の領国経営、財政は素晴らしかったわけだ。
つまり、常陸国の名実とも統一者は佐竹氏であり、今も慕われる存在なのである。

閑話休題。
佐竹マニアではなくとも、地元の輝かしい歴史と、佐竹氏のすごさを認識する良い機会であろうとおもう。ぜひ足を運ばれたし。

2016年2月7日日曜日

常陸佐竹氏についての講演会

今日は、大宮郷土研究会・常陸佐竹研究会・常陸大宮市教育委員会の主催で、常陸佐竹氏についての講演会が催されたので行ってみた。
自称・佐竹マニアのはしくれとしては、やはりこの類のものは聞いておかねばなるまい。
書物を当たる・史跡現場を訪ねるのはマニアとして当然だが、やはりその道の専門の方の話を直接聞くというのは違った視点からの調査研究の成果を知れる貴重なチャンス。独りよがりの自己満足の世界に安住しないように心がけねばと思う。

今回のテーマは『今、なぜ佐竹氏なのか』。講師は常陸佐竹研究会会長 冨山章一氏。
副題は『地域歴史遺産活用へのアプローチ』。一時間半の講演である。

会場ホールは150人分椅子が用意されていたが、満席で追加設置したほどの盛況であった。
やはり当地の佐竹人気には根強いものがある。さすがである。
今日は別会場では、あの東国原氏の講演会が開かれたのだがさてそちらの状況はどうだったのだろうか。常陸佐竹の話と比べるのはそもそも無理なのだが。


冨山氏が熱く語った思いのなかで印象的な話のひとつは、茨城北部における人々の精神文化の底流には『常陸佐竹』が領国支配した470年の歴史が厳然としてあり、いきなり他所から入ってきた水戸徳川家ではない、との指摘だ。しかるに茨城県の地域振興においては、常陸佐竹氏の地域歴史遺産を如何に活用してゆくかがポイントであるとも。
まさに小生も思いは同じである。中身の濃い90分だった。

・・・・非常にアカデミックな1日。たまにこんな(普段使用していない脳の部分を使う)日があっても良い。

2016年1月26日火曜日

佐竹氏と雪

常陸大宮市と秋田県大館市は友好都市協定を結んでいる。
いわずもがなだが、その昔に佐竹氏の国替えで一族が秋田に移ったそのご縁による。常陸大宮市から一族の小場氏が大館に移り住んだ。

秋田と言っても南北に相当広い。茨城県に例えれば県庁のある秋田市が水戸とすれば、大館市は高萩か北茨城あたり。北に10キロも行けば青森県境だ。内陸部で冬は雪深い所である。かの忠犬ハチ公が生まれたのはここで、JR大館駅前にハチ公の立派な像がある。
大館市は何度か訪ねた。今、城跡は桂城公園になっているが見事に何もない。堀と桜の古木があるだけである(建物類は幕末の動乱時に焼失)。
                                           
先日、茨城にも雪が降った。
毎年、降る雪を見ては、国替えに従って秋田に移住した人々のことを想う。
出羽の冬の雪の多さ、寒さは、常陸では経験したことが無いはず。初めて迎えた冬の驚き。雪国に生きる術を持たない彼らの困惑ぶりはいかほどであったろうかと。

⇒ 少々こまかいがデータは次の通りだ(新編問答式 佐竹読本 高橋茂著 による)。
  秋田移封の発令は慶長7年5月8日(新暦ではでは6月27日)。
  京都伏見にいた佐竹義宣は家康に領地安堵の謝礼を言上し、江戸に上った。
  秀忠に謁見し謝礼と赴任の挨拶を言上。
  その後は、水戸に立ち寄ることなく一路出羽・秋田を目指し旅立った。
  奥州街道を北上し宮城県まで。いまの宮城蔵王の東山麓あたりだ。
  現国道286号線の山形県への山道を進み最難所・笹谷峠を越えた。
  ※ 是非この峠の山道(国道286号)をストリートビューで見て欲しい。
  今は高速道で容易に通り抜け可能だが、昔はこの九十九折の峠越えの細道のみ。

  峠を下り山形に出て、羽州街道を北上。
  現国道13号線を進んで雄勝の峠を越え秋田入り。
      現在の秋田市への到着は9月17日(同10月31日)だった。

  付き従う家臣一族の移動も、時を経ずになされたはずである。
  水戸や太田の一族はというと、久慈川・里川沿いに北上した。
  棚倉町に出たのち北に進み、須賀川から奥州街道へ出た。あとは前述の通り。
  大混乱の中での慌ただしい引っ越しである。馬や荷車が列をなした。
  遠路かつ険しい峠越え多数の道のため、家財道具もほとんど持たずの引越し。
   ・・・あたり前だが全行程徒歩である。
  心身ともに疲れ切って到着してすぐに全く環境違う地での生活開始。 
  時あたかも、厳冬期の到来間近の季節だった。

大館は今頃は真っ白の世界のはず。
方や茨城の雪はすぐに融け去ってしまう程度でその点暢気だ。
でも雪雲が垂れこめた寒々とした風景を見ては、『大変だったっぺなぁ・・寒がったっぺなぁ・・』と。

水郡線はポイントの融雪機の設置が進んで、この程度の雪と寒さではダイヤが乱れることはほとんどなくなった。この日もほぼ定時運行だった。
雪景色の中のキハ130系車両の姿もよいのだが、この風景は明日にはもう見られない当地である。

2015年2月2日月曜日

高部館跡を訪ねる

常陸大宮市の北西部、美和の集落に『高部館(たかぶだて)』跡がある。
鎌倉末期頃につくられた佐竹一族の戦闘城郭で、中世城郭マニアや佐竹マニアの中では有名である。

この高部館を訪ねるツアーが開かれた。

茨城大学の先生が同行し、専門的な説明を受けつつ歩くツアーとあって、またとない機会であるのでワクワクしながら参加した。
昨年12月に第1回目が開かれ、今回(2/1)は2回目の開催である。前回参加できなかったため今回の参加となった。
この地域の歴史探索ツアーの人気は高く、今回も60人ほどが参加している。
一地方の山城跡を訪ねる内容としては盛況といえるだろう。
集合して係員から説明を受ける参加者。
年配者が多い。
あたりには数日前に降った雪が消えておらず、吹き付ける風は頬を刺す冷たさではあったが、先生に引率された老若男女は二手に分かれ、列を作って山頂の本丸を目指した。
麓から山頂まで説明を受けながらゆっくり登って20分ほどだが、本丸への道は険しく、まさに要害の地である。
山頂付近の曲輪での説明に聞き入る。
攻め入る敵から如何にして防御し攻撃するか、そのための掘り込みや土塁の工夫に皆がうなづく
佐竹氏関連の城・館跡はいくつも訪ねてきたが、この館跡も遺構がよく残されており素晴らしい。
戦闘城郭であるので日常的に居住する空間ではない。攻められた際に立てこもって防戦する『詰めの城』である。
如何にして最後の砦たる本丸に敵を寄せ付けないか、各種工夫を凝らした巧みな作りである。
同じく佐竹一族の山入氏の城である旧水府村国安の山入城、あるいは旧山方町・館にある高館山、旧金砂郷村久米の久米城などの遺構とよく似ていて、自然の地形を巧みに生かし、掘り込んだり土を盛ったりして鉄壁の防御の砦を構築している。
その中でも特にこの高部の地は、佐竹氏と抗争を続けてきた那須氏の領地・烏山に隣接しているので、日々の緊張感は想像を絶するものだったはず。その極度の緊張感がこの館跡には色濃く反映されている。

今は何もなくただ杉林の中に見える地表の凸凹、起伏だけなのだが、これらがその緊張感やらここに集ったモノノフたち郎党の怒号やらのイメージが掻き立てられて、中世城マニアにはたまらないのである。
このような素晴らしい遺構を前にすると、雪が降ろうが寒かろうが、藪だろうが急斜面だろうが、はこの際ほとんど関係なくなる。
雪が残るうえ北風が吹き付けて寒い中、本丸跡で説明を聞く。
今回は読売新聞の記者も同行し取材していた。
果たして記事になったのだろうか。。。
ひとしきり遺構の説明をうけたあと下山。
麓の会場では地元の方による『原木なめこ汁』がふるまわれた。

まだまだ訪ねたい佐竹氏関連の城跡・館跡は多い。
楽しみは続く。
なんとも楽しい半日であった。
         
この山の遺構は数年前までは藪が茂り、歩くのさえ困難だったと聞く。地元高部の『木の駅プロジェクト美和実行委員会』のみなさんが、この館跡の草刈をはじめ歩道の確保のために多大な労力を惜しまずにかけてくださってこのような会が開けるようになった。
ためにこうやってたくさんの人が訪れ、戦国時代のロマンに浸れるわけだ。
有りがたいと同時に、地元を愛し、その魅力をアップさせようとする熱い思いがこの里に溢れているのを強く感じる。
わが東野にある館跡も、このような地元民が積極的に保存維持にかかわり、盛り上げる形になればうれしいと思う。
それにしても、茨城大学の専門家から現場の細かな説明を聞きながら現地に立つということは、理解を深めるに大変役立つ。有りがたい企画であった。単に好きで現地を歩き回っているだけとは訳が違い、いっぺんにアカデミックになる。
今回同行してご説明くださった先生方も専門ということであるので当然かもしれないが、体系的に網羅された城郭関連の知識には敬服する。おのずと説明に力が入るのは当然と言える。
本当に、本当に、失礼な言い方だが、(同類としてのシンパシーを感じたが故に)かなりの『城郭オタク』で『マニア』ではないかなと思ってしまった小生である。

2014年2月4日火曜日

常陸に降る雪 出羽秋田に降る雪

今日は関東で広く雪となった。
乾燥気味の日が続いていたので、程よいお湿りではある。

太平洋側に位置する茨城では、シーズン中に雪が降り積もることはほんの数回であるうえ、翌日には融けて消えてしまう。
雪は、当地のようなめったに降らない地方の人にとってはちょっと心待ちにしている季節の使者といった一面があるのだが、雪に埋もれる地域の人々にとってはもっと切実で、憂鬱なものであり、喩えれば『白い悪魔』であるのだろうから、あまり手放しでは喜べない。

          

いつも降り積む雪を眺めるとき、雪深い場所に不本意ながら移住していったある人々のことを思い出す。
他でもない。佐竹一門のことだ。移住先とは出羽国(=秋田県)である。慶長7年(1602年)のことになる。
なにしろ創建以来20代・470年も当地でしっかりと根を張り繁栄した一族である。
青天の霹靂であっただろうが、国替えは徳川からの絶対命令。とにかく引っ越さねばならない。
短期間のうちに一族郎党が慌ただしく出羽国へと移住していった。

          

以下少々マニアックな内容で、佐竹マニアの戯言である。
興味ない方は読み飛ばされるが良い。

この頃の佐竹氏は重臣佐竹三家(東家・北家・南家)、家臣団93家が主たるもので、家主、嫡子、主なる家臣とその家族が移動した。その他、学者、神官、僧侶、有能なる職人なども相当数移住したようだ。
移住した人数の明確な記録は無いようだが、数千人から1万人程度にはなったのではないかという推定もされている。

最初は東北の未開な寒村という先入観(・・・・当時としては仕方あるまい)から移住者を厳しく制限したようだ。
一族内でも親子間・兄弟間で残留組と移住組と対応が分かれた、敢えて分けた家も多かったようだ。

⇨ (以下全くの私見である)
余談だが、この時に領民のすべてが移住したわけでは当然ない。当地に土着していた大半の民は残留した。佐竹関係者でも残留組は多い。
県北部の各地にある佐竹氏の出城(高部城や小瀬城、東野城など)・館の周辺に住んでいた一族郎党の中には、普段は(平時には)百姓をしているが非常時となると槍・刀を持って城・館に詰め、臨戦態勢に入るという、『半士半農』の輩は数多かったはずだ。つまり前線守備防衛隊の一員である。このあたりでは城下(太田)ほどには兵農分離は恐らく進んではいなかったはずだからこのような形態の人間が多かったと思う。彼らは間違いなくそのまま残留した。
彼らは農業と言う生活の糧があり生活基盤が整っていたことと、当初の移住人数制限があったこと、秋田について行くまでの忠義を尽くすほどではなかった(上級家臣とは違って基本百姓であり自給自足できていたので主君に養ってもらっているという意識は薄かった)のかも知れない。

そういったことがあってか、この周囲には『わが先祖は佐竹家の家臣』と伝承している家がある。だが、それを裏付ける何かしらの資料が現存して確認できるような家系はごくごく僅かではあるまいか。都合の良いように言い伝えをしてきているにすぎないように思う。というものの、それらを嘘と否定するだけの用意も当方にはないのではあるが。
そして驚くことに、彼らの中には墓石の側面に『わが先祖は秋田移封の折りに当地に云々・・・』などとあたかも史実の如く彫り込んでしまっている家さえある。
百歩譲って仮に前述の郎党たちの子孫だとしても、郎党が佐竹家家臣と呼んで良いものかどうか。広い意味ではたしかに家臣だが・・。
あるいはまた別の見方をすれば、人的交流が今ほど広い範囲で行われていない時代。極めて狭い地域内の婚姻が主だったから恐らくどこかで佐竹傍系の誰かの血とは僅かには繋がってはいることだろう。とすればあながち嘘でもないともいえるが、なんとなくすっきりとしない。

事実だけ言うと、このあたりの墓地にある古い墓石で西暦1700年より古いものはまずない。現地でも確認しているし、『おおみやの野仏とその祈り』(大宮町教育委員会刊)においても確認できる。この江戸前期より前までは武家など余程の一部の家柄しか墓石を建てる事がなかった(文化的にも、経済的にも、あるいは社会の制度的に)からなのではないかと思う。墓が無いからそのような人が居なかったという証明にはならぬが、東野のこのあたりには、少なくとも名門に連なる一族がそこここにいた可能性は極めて低いと思う。伝承はあくまで伝承の域を出ない。

爺さんなどから佐竹一族の末裔とか家臣の誰それの流れを汲んでいるとか聞かされて自分も信じ込むのは良い。子に伝えるのも良い。
ただ確証もないのに家柄を誇示するような行為(墓石に断定して刻むなど)は、史実を歪曲してしまいかねない。そうして恥じないという姿勢、心根はなんだかちょっと悲しい。

          

いざ秋田に来てみれば広大な肥沃な土地であり、未開墾の平地も多く、更に移民を受け入れる余地は十分に残されていた。
そこで移住制限を大幅緩和したため、第二次移住者も相当数に上ったようだ。
ということもあってか、どれほどの人数が最終的に移住したのかは把握できないらしい。

そしてこれらの人々、雪や寒さに対する免疫はまったく無く、しのぐノウハウはゼロだったに違いない。
なにしろ雪と言ったら降っても翌日には消えるほどの僅かな雪しか知らないのだから。
移住後の初めて迎えた冬の、想像を超えた雪。寒さも半端でなかっただろうし、その辛さは如何ばかりだったか・・。なんと悲惨であったことだろうか。

新地での新しい生活に希望を託し、意欲に燃えて移住はしたものの、そのあまりの辛さに耐えかねて、病気になったり、あるいは常陸国に戻ったりした人も実は多いらしい。
いまでも彼の地の冬期は過酷である(・・と断定して言えるだけの実際の生活体験は無いのだが、ごく短期間の秋田滞在の経験はある。そう実感した)。

          

何年も前だが、秋田県内の佐竹氏関連の遺跡と図書館を訪ねるべく、各地を数回ずつ訪れたことがある。秋田の現地でしか閲覧できない図書館蔵の佐竹資料があったためである。
秋田市をはじめ、佐竹氏の有力家臣達が配置された大館、湯沢、角館、大曲、横手などなど。
それぞれの城下を歩いて見て回り、城跡にも立った。
眼下の街並こそ変わったものの、吹き抜ける風と遠く見える山並みは400年前の当時と変わりはない。
この山並みを、移住組はどんな思いで眺めたのであろうか。当地に眠る移住一世の彼らの声が聞こえたような気がした。

秋田・大館・角館・湯沢には厳冬期、雪の季節にも訪ねている。
佐竹氏が体験した思いを、兼ねてより我が身で経験してみたいと思っていたからだ。

そのときのことだ。乗っていた秋田新幹線が、秋田駅まであと少しという田んぼの真ん中で強風のためとして停車。それから1時間ほど経過して安全確認ができたので運行再開、という事態に遭遇した。(よくあることらしい)
その間、新幹線の車窓から見えるのは横殴りの吹雪のみだ。ガラスを叩き付ける雪の音が半端でない。
最初から面食らった。
訪ねた秋田の各地は、とにかく何処もが白一色だった。
移動に使った現地のタクシーも、地吹雪で数メートル先もが見えなくなり危ないため道路脇に車を寄せてしばし停車という経験もした。すぐ前の車のテールランプも見えないのだった。
地元の吹雪に慣れた運転手でも危ないと判断したようだ。その時にいろいろ話をしたのだが、どうやらこれが冬の日常らしい。
やはりこのような実体験しないと理解できない『雪のすごさ』である。

          

これらの街の中でも、県北に位置する大館には真冬を含め3度ほど足を運んだ。
小生ちょっとお気に入りの場所である。
常陸大宮市小場にある小場城を長く本拠地とした佐竹家臣の小場氏とその一族が移り住んだ地である。常陸大宮市とは縁が深い。
大館城下には、時の小場城主・小場義忠の寄騎として部垂衆も数多く移住した。
部垂衆とは、移住の62年前(1540年)に佐竹宗家に滅ぼされた部垂城主・部垂義元の遺臣たち。主が滅ぼされた後も寄騎として佐竹本家ならびに小場家に仕えた。
部垂と呼ばれた旧大宮町市街地部、城跡近在に居住していたためこう呼ばれている。(部垂義元は佐竹宗家に近い佐竹一族の有力者である。部垂に居住していたため名字とした)

大館市内には、この部垂衆が移り住んだと言う『部垂町』という地名もあり、そこには部垂義元を祭神とする『部垂神社』が鎮座する。
始祖である新羅三郎義光以来一千年に及ばんとする佐竹氏の歳月の中で、神様として祀られている人物はこの義元ともう1人だけだ。極めてレアなケースなのである。
(もう1人は始祖・義光の三男義清。甲斐武田氏の祖に繋がる人物である。山梨に彼を祀った義清神社がある)
それだけ義元は家臣や領民から名君として、絶大な信頼と敬愛を受けていたということだろう。
だからこそ、移住後もそこにかつて自分たちが住んでいた町の名を付け、かつての殿の神社を建立したのである。
常陸の国から遠く離れた地に来ても、自らの出自の地を記憶に留めたかったに違いない。
名門佐竹の家臣としての矜持だろうか。
今も地名は残されており、義元が神として崇敬されているという歴然とした事実。
移住した彼らの思いは400年以上経った今も引き継がれているとは言えまいか。

大館城址と部垂町・部垂神社は市の中心部にありその距離は400mほど。
だが、これらがある場所からJR大館駅は2キロほど離れている(というか、後に国鉄の大館駅が市街地の北の外れに作られたのだろう。最寄りの第三セクター線の東大館駅からでも1キロある)。
あの日、結構な降雪の中、大館駅からタクシーで城址に向かった。
運転手には、ずいぶんと物好きな、ちょっと変わった怪しい人物と映ったに違いない(マニアとはそんなものだが)。
雪に埋もれた大館城址と部垂神社は、訪れる人も無くひっそりとしていた。

          

さてさて、いまごろの大館の町の積雪や如何に・・・。
常陸国・東野の玉川村駅に降り積む雪も、彼の地に降り積む雪とまた同じ雪である。だがなんとも可愛らしいレベルの雪である。
水郡線・玉川村駅の雪景色はこんな感じ
次の日には融けて元の風景に戻る

2012年2月22日水曜日

佐竹氏遺構『東野城』を歩く

麗らかな日差しの、暖かい一日だった。

            

今日は久しぶりに身震いするほどの感動を味わった。
というのも常陸大宮市内の、とある戦国時代の城址を訪ねたのである。
またかと言われそうだが、戦国時代の城址・館址マニア、佐竹氏ファンとしては無上の喜びなのである。どうかご容赦願いたい。
場所は、常陸大宮市東野の字で言うと新谷(アラヤ)地区である。
我が自宅からも近く、JR玉川村駅から徒歩5分程の場所である。
Googleマップ ⇨ 東野城址の場所(緑の矢印部分)


            

この常陸大宮市東野地区に城址があるというと、地元住民であっても意外に思うかもしれない。
おそらくほとんどの人は初めて耳にするのではないかと思う。
城とは言っても、天守閣等の建築物は当然に無いし、石垣や水堀なども無い。
要は多くの人がイメージとして持つ姫路城やら江戸城などの近世の『城』の姿ではないのである。
単に山の頂上を削り平坦にし、山の斜面を削り郭というスペースを作り、中腹などには斜面の土を掘込んだだけの堀がある程度の戦国時代の城だ。
自然の地形を最大限に利用した山城である。
そしてその址である。450年程前の時代のものだ。
現在の姿は杉桧の林だったり雑木が繁る林であって、容易に人を近づけない。
ちょっと見ただけではそれと分かるシロモノではないのである。
私自身ここで生まれ育ったのであるが、親を含めて年寄りからも、城のこと等は一切聞いたことも無い。
それくらい忘れ去られた存在なのである。

            

高校時代の日本史の先生の影響を受け、当時からいろいろな遺蹟や遺構の場所を調べ歩くのが好きだった。
高校生だった昭和50年頃、地元東野にも城址というか戦国時代の館址などの遺構はきっとあるはずと思い、地形的にみて城・館を築く可能性がありそうな候補地の山中を何度も探索した。
その時にこの場所にも立っている。
だが、その時はここが城なり館の遺構であるとは十分な確信が持てないでいた。
またこのことを誰にも伝えることも無かった。当時としての限界だった。

残念ながらこの東野の城については市内遺跡地図はおろか、書物には一切載っていないのである。
在野の一歴史マニア、まして当時の高校生としてはこれ以上の探求はできないでいたのである。
当時の常識ではこの地区にはこのような歴史的な遺蹟はあるはずがなかったのである。
いつしかその存在さえも忘れ、37年の月日が流れた。

            

インターネットとはすごいものである。
全国各地の城址を訪ね調査し詳細に紹介しておられる方がいて、その情報を容易に得られる。
つい最近、この方のHPに『東野城』が掲載されたのを知った。
  余湖氏のHP 〜 東野城
昨年秋までは掲載されていなかったので、驚いたのは言うまでもない。
あくまで学術的な調査に基づく内容ではないので、このHPの情報も正しいとは限らないのだが、『ほら、やはり城・館はあっただろう』という思いであった。

あまたの城址を訪ね歩いてきた余湖氏も、『予想以上にすばらしい城郭であるのに驚いた。茨城でひさしぶりにいい城を見たという気分になった。戦国期の佐竹の拠点城郭というにふさわしい城郭といっていい代物である。これだけの城郭がこれまでずっと遺跡地図から漏れていたとは、なんとも信じがたい話である』と記している。

            

薮をかき分けて、かつて歩いた城址を37年ぶりに訪ねた。
あの時の記憶が鮮やかに甦った。

妙な史跡整備等はして欲しくないな、と思う。
このままがいい。保存状態は極めて良い遺跡である。
(きっとこの土中には、当時使われた陶器片・土器片などの遺物が埋まっているに違いない。こちらの調査にも興味がある)

かつて佐竹の一族郎党、荒々しい男どもが詰め、敵対する勢力との緊迫した日々を過ごしたこの場所。きっと怒号も歓声もが飛び交ったであろうこの場所。
ひとり一人が命を掛けて、置かれた時代の中で必死に生と対峙した場所。
ここには往時の人々の生きた証がある。

            

春の日差しが差し込む『東野城』は、450年以上は経ったであろう今、静寂の林の中にあった。
余湖氏のHPでAとされる部分
見事な土塁で囲まれた虎口(城への入り口)である
かつて何かしらの建物があったに違いない
同様にDの部分
林の中に掘り込んだ溝が続いている
当時としては大変な土木工事であったに違いない
Aの部分を東から見たもの
土塁の高さが見て取れる

2011年10月31日月曜日

要害山 山入城

世に戦国大名・佐竹氏のファンは多い。
かくいうワタシもその一人である。
何度も秋田各地の佐竹関連の場所を訪問もしている。
佐竹氏に入れ込んでいるファンなのであるが、この分野に興味の無い人には到底理解してもらえないのが少々寂しい。
(以下、少々マニアックな内容となるが容赦願いたい。)


         

佐竹氏は、言わずと知れた常陸国の大名だ。
江戸時代の始めに出羽秋田に移封(国替え)させられたものの、茨城北部を拠点にして470年間も勢力を誇った、源氏の流れを汲む名門中の名門の大大名である。

佐竹氏が本拠地を置いたのが、常陸太田市の舞鶴城。
現在では目立った城郭遺構は残っておらず、太田小学校の敷地内に碑が建つ程度である。
城があった旧市街地が丘であり、周りが崖になっている要塞であったことと、何よりも江戸時代以前の中世の城であることとから、以降の城(大阪城や姫路城、江戸城など)によくある立派な整然とした石垣はこの城にはない。

通った高校が、この常陸太田市内の城跡近くにあったこともあって、この街中はかなりディープな場所まで歩き回って知っている。
町名にも、中城町、内堀町、馬場町など城下町としての名残がある。
先の地震で大鳥居が崩落したが、若宮八幡宮などは往時の面影を残す場所として気に入っている。
堀跡も随所に確認できるが、全く整備はされていないし、説明板も皆無だ。
一般の人がここを訪れても、城があったことさえ想像できず、ましてや当時のイメージを膨らませることなどは困難かもしれない。

たとえば小田原城のように立派に復元された建物としての城を見るのも、イメージとしてそれはそれで良いのであるが、この佐竹氏の本拠地舞鶴城跡のように建物など何もない場所から往時の隆盛を極めた姿を偲ぶのも、歴史ファンとしてはまた楽しいものである。


         

470年間もの長い間、佐竹氏はこの地で勢力を誇ったのではあるが、その間には内紛もあって、佐竹一族同士が近隣で対立しあう状態が続いたこともある。
代表的なものが、庶家(分家)の山入氏との対立であり約100年にわたった内紛である。
佐竹宗家(本家)に跡継ぎの男子がおらず、時の関東管領である上杉家から養子をとることになった時があった。これを良しとしない時の城主・山入与義(ともよし)が宗家に反旗を翻し、太田の宗家の城を占拠するといった事態にまでなった(1407年の山入一揆)。
山入氏は当時の室町幕府と直接つながり、その支援もあってかなりの勢力を維持していた一族である.
その山入氏の本拠地が、山入城である。
この山入城を訪ねた。

宗家の舞鶴城跡は遺構がほとんどが消滅してしまっているのに比べて、山入城は奥まった山間にある山城のため遺構の保存状態は極めて良好である。
そのためか、佐竹ファンとしては訪れておきたい城のひとつであり、ちょっとした聖地になっている(宗家は養子を取り系統には血筋の断絶があるのに対し、山入氏は純粋に一族の血筋が続いたため、佐竹ファンとしてはこちらに気持ちが傾くのかもしれない)。


         

常陸太田市の舞鶴城から北西に約8km。
今は合併で同じ常陸太田市になっているが旧水府村地区の国安にある。
山田川を眼下にした天然の要塞、その名も『要害山』一帯が城である。
要害山の麓に立つ案内板
舗装道路が整備されているため、車で山頂近くまで行ける。
九十九折の山道を1kmほど車で進む。
この案内板で下車し、林の中を歩く
山頂の城跡まで10分ほど
ここからが、中世の山城探訪の醍醐味の場所だ。

(写真ではなかなかその雰囲気が表現できないが、急峻な山道の通路、掘込み、土盛りなどの遺構が次々に目の前に広がると堪らなく興奮してしまう)

山の尾根筋を掘込んで作った竪堀や土橋がある。
土橋と竪堀の遺構
明らかに人為的に作られたものだ
このような狭い道をさらに5分ほど進んで、やっと主郭に到着する。
頂上の主郭跡
20m四方程度の狭い平らな場所だ
奥には一段高い櫓台の跡がある
山入城跡の説明板
頂上の主郭は発掘調査して整備されているとはいえ、草ぼうぼうであるし、周囲は木々に覆われている。
こんな急峻な山道を徒歩で登るだけでも大変なことだ。
とても人が日常生活をまともに送れるとは思えない。
普段は、山腹の段郭あるいは山裾の一帯に居住していたのであろう。
(と思っているのだが、発掘調査ではこの山頂付近からも遺物が多数確認されているようだ)

この城は、山入氏が宗家に滅ぼされた1504年以降も、北部の脅威(福島の岩城氏や仙台の伊達氏など)に対する最前線の砦として存続した。

山頂からの眺めは、周囲の木々が邪魔であまり良くない。
ために、見晴らしの良い場所から眼下に広がる常陸太田方面の写真を撮影してみた。
間違いなく、この風景は600年前に山入与義が目にしたものと同じである。
車を降りた場所から常陸太田市内方向を眺める
         

戦国末期、この地には遥かに遠い京の室町幕府と直接繋がり、勢力を誇った一族がいて、何千人もの一族郎党がこの山を囲み生活し、歴史にその名を残した。
今はただ薮の中に佇む遺構群であるが、往時の武士(もののふ)たちのザワメキが聞こえてきそうである。
まさに『兵どもが夢の跡』である。

ここにはかつて彼らが生きた確かな痕跡が残されている。
必死に時代を生き抜いた彼らの、生身の人間としての息づかいが聞こえる。
怨嗟も、歓喜も、絶望もあったはずだ。
幾多の血がここに流れたはずだ。

彼らが眼にしたであろう同じ風景がいま眼前に広がる。
その場所に佇み、じっと眼を閉じて聞こえるはずのない彼らの悲喜交々の声に耳を傾ける。
このときに我が精神は、しばし時空を超えてかの時代にワープする。
このひと時が堪らないのである。

★★このような一連の行動は、一般の人にはとても理解できぬ怪しい挙動であろう。林の中をうろうろするかなり怪しい人物に見えるはずだ。でも立入り禁止区域にでも立ち入らない限り、温かい眼で見てほしい。お願いである。★★


         

一度訪れたいと思いつつなかなか果たせなかった山入城である。
やっとまたひとつ、登頂し遺構を自分の眼で確認できた山城が増えた。
実にササやかであるが、佐竹氏ファン・中世山城ファンとしては大変満足な1日であった。

500年以上経った今でも、この山城に吹き抜ける秋風は同じである。
秋の柔らかな光もまた同じである。
山の中腹の段郭と思われる平坦部は柿や柚子が栽培されている
実にのんびりとして穏やかな風景が広がる

2011年7月20日水曜日

『水戸黄門』雑感

テレビ時代劇『水戸黄門』が終わるという。
1969年(昭和44年)に放送開始された長寿番組であり、一時は視聴率43.7%を記録(1979年)した国民的な番組である。
時代劇ファンは一定数いるのだろうが、最近は視聴率が低迷しており、今年のシリーズ43部で打ち切りとなるとの発表がなされた。
テレビドラマは完全なるフィクションだが、日本各地を漫遊し悪を懲らしめる勧善懲悪の典型的パターンは、大いなるマンネリと言われながらも人気を博し続けた。
日本人の琴線に触れる何かがあったのだろう。
今日(7/20)は台風の風雨で外の仕事ができないので、徳川光圀=水戸黄門について、日頃思っていることを以下に記したい。
                             
徳川光圀=水戸黄門は、間違いなく茨城県=常陸国が生んだ著名人の一人であり、水戸の知名度向上の功労者である。
この番組なかりせば、おそらく『水戸』を『みと』と読めない人がもっと多いに違いない。
また、茨城県と栃木県と群馬県の相対的な位置関係や違いがよく判っていない地理音痴の人間(・・・おそらく西日本に多いであろう)に対して,あるいは水戸が茨城県の県庁所在地であることを知らない人(・・・おそらくこの類いの人は水戸の位置さえ知らない)に対しても、『水戸』の名だけは知らしめた功績は大きいと言わざるをえまい。
甚だマニアックな話であるが、光圀が始めた大日本史編纂を水戸藩が代々続けてきたことで、幕末には水戸藩が思想的なリーダーシップをとり、世論を牽引した。
尊王攘夷から開国・大政奉還・明治維新と繋がっていった歴史的政治の流れの元となったのが、実は水戸藩と水戸学なのである。
幕末当時は9代斉昭が水戸藩主であり、彼は幕末の日本を強烈に牽引した超有名人だった。
まさにカリスマ藩主、スーパースターだったのだ。
幕末から維新にかけて活躍した薩摩の島津も、土佐の山内も、長州の毛利も遠く及ばないほどだった。
このカリスマ藩主斉昭と水戸学のリーダー藤田東湖を慕う憂国の志士たちが全国から水戸に集い、熱く議論し世論をリードした。
斉昭は光圀などよりも遥かに全国区で有名人であったのだ。
これも余談だが、幕末に水戸藩内の対立さえ無ければ、多くの優秀な人材を失うことも無かったはずであり、その後の日本の形成に水戸藩は大きく関わっていったはずだ。
水戸の思想が時代を先取りし過ぎ、内容が先鋭的過ぎたため、藩内の対立で無益な血を流し人材を失い、時代の表舞台から降りることになってしまった。
倒幕派の長州藩は総理大臣を何人も輩出したが、水戸藩はそれ以上になっていたことだろう。
違った形の日本国が出来たかも知れない。
すべて『たら・れば』の話ではあるが。
                             
光圀は、ドラマでは全国を漫遊する元気爺さんだが、史実としては水戸藩主時代に参勤として江戸・水戸間を往復したことと、領国内の巡検をした以外には、世子時代に鎌倉遊歴が一度あるだけである。
まったくドラマのイメージとは違っている。
大日本史編纂のための資料収集に家臣を全国に派遣したことが、どうやら黄門漫遊記という形で江戸時代末に定着したようだ。
かように全国的なスターである水戸光圀であるが、個人的に特別な思い入れは全くと言っていい程、ない。
                             
彼が生きた時代・環境を冷静に考察すると、藩主としての光圀の苦悩が見えてくる。
(以下は、あくまで個人的感情に基づく私見である)
徳川家康の11男である徳川頼房が水戸に転封されたのは1609年。
天下は徳川の世に定まったとはいえ、まだ不安要素が各地にあった。
奥州仙台には伊達政宗が依然としてその強大な勢力を維持している。
茨城県北を中心に長い時代勢力を誇った佐竹氏を、1602年に秋田に転封させた。
とはいえ、佐竹の旧家臣たちの多くは在郷しており、影響力は依然として根強く残っていた時代だ。
家康が江戸の北の守りとして常陸国水戸に御三家の一つを置いたのは、そんな時代背景からである。
初代藩主・徳川頼房とは、常陸の人間にとってはむしろ突然異国から来て領主になった外様大名的な感じではなかったか。
現代の茨城県知事が替わったどころの騒ぎではなかったはずだ。
全く違う文化を持つ戦の勝者の殿様が入り込んできて、いきなり敗者に対して政治を執り行うのだ。
当時の佐竹氏は、関ヶ原で徳川に味方しなかったということで、ある種逆賊扱いである。
言ってみれば、太平洋戦争の敗戦後に進駐軍がやってきた感じ、というのが近いだろうか。
藩内のすべての民は、これからどんなふうに変わるのか固唾をのんで見守ったことだろう。
何しろ470年間も殿様といえば佐竹できたのだ。
民衆は信頼しきってきたのだ。
トップが替わる不安は大きかったに違いない。
光圀が2代藩主となったのは1661年だから佐竹氏の秋田転封から既に60年ほど経っている。
ではあるが、まだ佐竹氏の記憶は鮮明で、かの治世を懐かしむ人間も多かったであろうと思う。
また新領主徳川に対する不満を抱き続けている人間もいただろう。
光圀の心の中では、秋田転封について行かずに土着した佐竹旧家臣たちのクーデーター懸念は依然としてあり、安穏とはしていられなかったに違いない。
想像ではあるが、それぐらい佐竹一族・家臣団の結束は固く、精神的な結びつきが強かったのだろうと思う。
だから光圀は領国の治安維持に腐心し、人心掌握のためにとひたすら各地を巡検したのは当然であったのかもしれない。
隠居場所として常陸太田の地を選んだのも、幕府指示による奥州への警戒もあったであろうが、それ以上に佐竹氏本丸だった場所に元藩主が居住することで、在郷の佐竹遺臣に睨みをきかせ、水戸藩を安定させたいとの思惑があったに違いない。
また一方で光圀は宗教政策を強く押し進めている。
寺院の統廃合を強引に進め、藩内のかなりの数の寺が統廃合させられた。
一種の宗教弾圧に近い、宗門改めである。
わが常陸大宮市東野地区でも、かつて存在した真言宗系の2寺院がこのときに潰されている。
このようなことまでしなければ、佐竹の遺風が完全に消し去れないと考えたのであろう。
茨城北部に約470年の長きにわたり支配した佐竹の色・文化を消すのは容易でなかったということか。
                             
これは想像だが、県北部にいまも存在する旧家は佐竹時代からすでに土着していたはずであり、現代の今もなお徳川よりは佐竹を慕っているのではないかと思っている。
なにしろ佐竹470年の治世に対し、徳川はたかが260年である。
我が祖先も代々の百姓であり、佐竹氏の時代から県北のどこかに土着していたに違いない。
あるいは佐竹に仕えたの家臣の一族の流れを汲んでいるのかもしれない。
明確な歴史的資料も根拠もない。
ないが、佐竹氏が残した古文書(秋田県立図書館蔵の佐竹文書)の中に、我が姓が出ている箇所があることだけは自身で確認している。
我が先祖かどうか、関連は不明だ。
ただそれだけのことであるが、どこか徳川氏よりも佐竹氏を懐かしむ気持ちが強いのである。
そう、何を隠そう正真正銘の佐竹氏ファンなのである。
DNAのどこかに、遠い先祖の記憶があるからなのかもしれない。
先祖が代々守ってきた大地。
そして先祖から続く血。
これらに染み込んだ代々の念は、そう簡単に消せるものではない。