2015年10月30日金曜日

御仏へはちみつ献納

法専寺(ほうせんじ)は東野にある親鸞ゆかりの寺で、由緒ある古刹だ。

今日は法専寺を訪ね、『玉川里山はちみつ』を献納してきた。
法専寺の御仏のご威光があまねくゆきとどいている玉川の里山である。
(当家は法専寺の檀家ではないのだが)その里山から採れたはちみつをご前にお供えして、御仏のご慈悲に深く感謝した。
                                          
ご住職ご夫妻としばし歓談。お二人には『玉川里山はちみつ』を試食していただいた。

ご住職に話によれば、境内にある銀杏の大木の洞に巣を作っていたがニホンミツバチが、先日オオスズメバチの猛攻に会ってあえなく全匹逃避してしまったとか。ひどく残念がっておられた。
ここでもオオスズメバチ・キイロスズメバチの酷い被害である。今年は数が異様に多いようだ。
スズメバチ出現のピークは過ぎたとはいえ、まだまだ気が抜けぬ。

境内の銀杏からはギンナンが毎年採れるとのこと。落ち始まったギンナンの実のために、樹の下一面にはシートが敷かれている。落果ピークはこれから。

銀杏の葉も少しずつ色づいてきている。
玉川の里はこれからが秋本番である。

2015年10月25日日曜日

『そば蜜』の味

蕎麦の花は白い。畑一面に秋蕎麦の花が咲いているときは絵になり、産地の初秋風景としてメディアで取り上げられる。
やがて収穫され、香り高い新蕎麦となり、蕎麦好きの人々を唸らせる。
播種からひと月経った9月中旬のそば畑の様子
蕎麦の花
蕎麦は花は清楚な白で、麺となっては新そばの香りということもあり、クリーンでスマート、繊細なイメージを得ていると思う。それはそれでよいのだが、実際には蕎麦の花の香りはほんのり豚舎の臭いである。知らない人が多い。よりによって豚舎臭とは、まったくもって見かけによらないのである。
そして、蕎麦の花から採れるはちみつ=そば蜜はというと、ネットで知り得る情報ではかなり個性的だ。蜜の色はほぼ真っ黒だ。お味はというと、紹介しているHP等のPR文章からだと美味そうにも不味そうにも受け取れる。→たとえばこのページ

3~4キロ北隣の長田(おさだ)地区や野上原(のがみはら)地区には大規模にそば栽培をしている農家があるし、我が家でも少しだが蕎麦栽培をしていることもあって、ミツバチの活動の場になっている。我が家のニホンミツバチも間違いなく蕎麦の花粉も花蜜も集めているに違いないが、我が家で採れるはちみつは四季を通して集めたいろんな花の蜜=百花蜜であるので、どれほど蕎麦成分が含まれているのかは見当もつかない。ゼロではないことは間違いないのだが。

このようなことから、かねてから蕎麦単独の蜜の味とはいかなるものか、一度食してみたいと思っていた。だからと言ってちょっと試食のためだけにひとビン買い求めるのも抵抗があってねぇ・・。

最近、その試食願望が叶った。
有名な国内大手のY養蜂場の専門ショップにおいて、はちみつを試食出来るところがあるとの情報をネットで知った。当然『そば蜜』も置いてある。先日、その都内某所のY養蜂場ショップで『そば蜜』をはじめとしていくつかを試食させてもらったのである。
                 
以下は個人的な評価であることを断っておく。
小生の味覚分類においては『そば蜜』は不味い部類に入る(⇒あくまで好みであって『そば蜜』を否定したり誹謗したりするものではない)。我が家の百花蜜『玉川里山はちみつ』の味に慣れているせいもあるのだろうが、個性が強すぎて口に合わない。ポポーの実も同様だが『うまい』と感じる人もいる一方で、小生のように『口に入れられない』という人間もいる、左右のウィングの広いはちみつで好みは分かれるだろう。
色は濃い褐色でほぼ黒である。味は苦みが強くて甘みが感じられない。喩えれば黒糖を煮詰めて焦がしてしまった感じといえば近いか。しばらくのあいだ口中に苦みとえぐみが残ってなかなか去らない。早く口を漱ぎたい衝動に駆られた。香りは焦げ臭さのようでもあり、薬品臭さのようでもあり、食欲をそそるものではない。マヌカハニーも独特の苦味と臭いがあって個性的だが、『そば蜜』も負けていない。成分的には他のはちみつより鉄分が豊富に含まれるのでそのせいもあるのかもしれない。上で紹介したリンク先の人はそば蜜を『金魚』と表現しているがわかる気がする。
ひとビン買わなくてよかったと正直思った。

合わせてアカシアはちみつやレンゲはちみつも試食した。
みなさん御承知のとおり透明度が高く、味も混じりけのないスッキリした風味で、確かに美味しいのだが物足りなさが残る。
いろいろ食してみてわかったことは、ピュアなアカシヤ・レンゲなどの単花蜜に比べると百花蜜は『雑味』があることで味わいが深くなっているのである。『雑味』を良いと感じるか悪いと感じるかは個人の好き好きだ。

とにかくこれはこれで貴重な経験で、わが『玉川里山はちみつ』の良さを改めて実感できた機会だった。
玉川里山はちみつ
                                           
自分ではいまの『玉川里山はちみつ』の味も色も香りも大変気に入っているし、皆様にも大変ご好評をいただいている。
安定した品質を確保し、味や色や香りのブレを一定幅に収めて特長を損なわないようにするためには、巣箱の設置環境は厳選する必要性があることを痛感した。
特に蕎麦由来の成分が増えすぎると、『そば蜜』に近づいて味が変わる可能性は高い
いまの常陸大宮市東野地区の山野の環境・畑作の構成から大きく逸れるような場所では、別の風味のものが採れてしまう。それだけは極力避けたい。

個人が良いと確信する味を追求し商品化してきた。独りよがりではなく実際にこの風味でのファンも増えてきている。これで良いと確信を深めた。

2015年10月23日金曜日

イノシシ被害 ミズバショウ

今年は谷津田一枚をイノシシに悉く荒らされ収穫を断念している。

実は他にもいろいろな場所で土を掘り返されては被害を受けている。
田んぼの畔はグチャグチャに破壊され。
栗の実は齧られて散らかり。
(収穫時期が遅い品種を増やすためにわざわざ買って植えた)ブルベリーの若木苗は根こそぎ掘り起こされ喰いちぎられ。
・・・まったくトホホな状況にある。
これらは今までもある程度は起こっていたこと。
苛立つけれども、ああまたかで済ませてきた。
だが、今年の一番のショックは『ミズバショウ』が被害にあったことだ。先日、無惨な姿を見つけて愕然とした。
現場はあたり一面多数のヒヅメ痕が残る。哀しいかな、僅かばかりの茎の断片が残っていただけだ。

ミズバショウの茎の断片が残っていた
このようにイノシシは器用に土に穴を穿って掘り出す
大事に手入れしてきた、たった一株のミズバショウだ。残念無念。
あの白い花はもうここでは見られぬ。
在りし日のミズバショウ
よりによってなぜミズバショウなのか?  この辺りのイノシシはこの植物は食べたことはないはず。
そもそもミズバショウの根って美味いものなの? 

それにしてもことしは、イノシシの暴れ具合は激しく酷い。

2015年10月21日水曜日

オリオン座流星群の日

朝夕はだいぶ冷え込むようになってきた。と同時に、空気が澄んできたと感じる。
秋の日の空は驚くほど澄み青い。大気中の水蒸気の量が低くなっているからだと気象予報士は解説する。9月までの、暑さと湿潤さが微妙に混ざった空気と違いすっきりとした乾いた皮膚感覚。噴き出た汗も吹き抜ける風に短時間で気持ちよく乾いてゆく。暑さが苦手な人たちにとっては待ちに待った季節の到来だろう。
そして夜の天空には星がたいへんきれいに見えるようになった。おりしも今日10月21日の夜、正確には22日に日付が変わった夜は、オリオン座流星群のピークだとか。
                 
先日、大学生の甥が久しぶりに訪ねてきた。
最後に会ったのはたしか小学生のころ。すっかり大人になった彼は、某大で宇宙の何やら難しい分野を勉強していて、来年には院に進んで更に専門分野を究めるのだそうだ。小生の中では小さなイメージのままのだったので(背丈も含めての)成長の驚きとともに、彼の前に広がる未来と無限の可能性に眩しさを感じた。言わずもがなだが、それらが過去のものとなって久しい我が身である。

彼は専門分野を聞かれた際に説明にだいぶ困っているらしい。説明しようにも一般人には馴染みがないマニアックな分野で、イメージしてもらいにくいようだ。
分かりやすい喩えで、と話してくれたのが、小惑星探査機ハヤブサが『イトカワ』から持ち帰った微粒子の話。カプセルに入れて回収したあのごく微量の粒子を分析することで、太陽系の起源や進化の謎、生命をつくる元がどんなものだったのか等の手がかりが・・・何やらかんやら・・・(以下略)。
フンフンと頷いてはみたが、分かったような気になっただけだ。とにかく『難しい』ということだけはよく理解したが、わが貧困な頭ではイメージさえ難しい。
今回、ニュートリノの研究でノーベル賞を受賞した梶田氏も同じような苦労はお持ちかも知れぬな。とにかく、こういうことを考えようとすることだけでもすごいものだ。血が繋がっている甥とはいえ、頭の中の作りは小生とはだいぶ違うようだ。
                 
話をしていて、小生もその昔に宇宙に単純に感動したことがあった記憶を懐かしく思い出した。もう半世紀近く前の小学校時だったか。
天体について勉強した日の夜に、外に出て夜空を見上げ北斗七星から北極星を探したのち、天空に広がるカシオペアや銀河を探したのだった。きっと先生から指示があったのだろう。オリオン座も見たから季節は冬だったはずだ。
教科書の図からイメージしたものとあまりに違う大きさにびっくりしたあの夜の感動。いまも鮮明に覚えている。さすがに天空の星座が教科書の図のように実線で結ばれていなかったことには驚かなかったが。
うっすらと雲がかかったように(ミルクをこぼしたように・・か)ぼやっーとした銀河の帯にも、しばし見入ってしまった少年だった。

見ていると吸い込まれるような天空。時々スッと流れ消える流れ星。あの頃は近視でも、ましてや老眼でもなかったので星の姿が裸眼ではっきりと見えたのだった。
この時の感動を持ち続けて宇宙についてもっと勉強に励んでいたら、・・・れば。
・・でも(能力的にも性格的にも研究など無理な我が身であるので、これははっきりと断言できるが、研究者等には絶対になれていないし、鳴かず飛ばずできたこれまでと)あまり変わらぬ人生ではあったろう。
                 
目にしている星の輝きは何万年も何億年も前に発せられた光の数々だとも、その時に教わった。『光年』という言葉もその時知った。当時はそれらの意味するところがよく判らなかったが、今考えるになんとも奥が深い話を先生はしてくれたのだと思う。
夜空に広がる点のよう、あるいは平らな面であるようでありながら、実は三次元。
同時に見えているものでありながらそれぞれは様々な過去・違う時間に発せられた光。それらが同時に広がる不思議空間。この瞬間にはすでに消滅していて、存在していな星もあるに違いない。それが今同時に見える。時空を超えた不思議な四次元の世界。すべてが千年、万年、億年というの単位で語られる。それぞれの星座には神話が伝わるのも分かる気がする。
見上げていると、ふ~っと気が遠のく。人間がちっぽけな存在であることを知る。
                 
冬の星座代表のオリオン座は毎日すこしずつ早い時間から見えるようになってくる。
この星座が午後7時くらいから見えるようになると、今年もあと少しだなあと思う。
あと2か月ちょっとか・・・。あっという間の1年で、歳をとると1年経つのが早い。『光年』単位の話とは較べるべくもないが。

今夜は少し夜更かしして流星群でも見てみようか。月の影響もあまり心配なくて、明るい星が多数流れるとニュースでは言っていた。最近とみに進んだ老眼でも見えるかもしれない。

2015年10月20日火曜日

レンゲ播種 その後の話

9月の終わりにレンゲの種を播いた。それから3週間経った現在の畑の様子だ。
発芽してうっすらと各所に緑色が確認できる。こうやって生えてきた姿をみると撒き方にずいぶんとバラツキがあったことがよく判るが、まあ良い。育てば良しとしたい。
全体的に少しずつ芽が出ているが、固まって生えている場所も多い
ちょうど水郡線・上り列車が通過した
ここまでは、順調にきている。
この畑の持ち主のKさんは、犬の散歩がてらに巣箱のミツバチの出入りを眺めるのと、この畑に立寄って生育状況を見るのが愉しみになっているとのこと。図らずも高齢者にとっての愉しみと散歩の励み、運動する動機付けを提供したようだ。
                              
Kさんに関わるウレシい話が2つ。
まずはKさんの娘さん(幼なじみだ)のこと。
他所に嫁いで久しいが、レンゲ種を畑に撒いた話を聞いて、自らレンゲの種を買い求めてきてKさん宅横の畑にも少量ではあるが播種したんだとか。彼女もミツバチ巣箱設置については大変協力的で良き理解者。小生は助かっている。
きっと実家を訪れるたびに、手入れされなくなってきている屋敷畑を見ていて寂しく思っていたのかもしれない。あるいは彼女なりに少しでもミツバチが喜んでくれるようにという思いかも知れないし、老いた父母が(花やミツバチを見て)喜ぶ姿を見たいからなのかもしれない。
人間は分かりやすい目的があると(出来ると)行動がしやすくなるものだ。
そしてもう一つ。
Kさんの親類であるSバアちゃんはすぐ近くにお住まいである。Kさん宅ではしばしばSバアちゃんと顔を合わせて一緒に茶飲み話をする。小生も昔から顔見知りのバアちゃんだ。
先日、このバアちゃんから『うぢなんかはどうなんだっぺ?よぐねぇのげぇ?』(我が家のある場所は、ミツバチの巣箱を置くにはどうなんでしょう、適していないのでしょうか? 良くない所なのですか?)と聞かれた。Kさんご夫婦が楽しげにミツバチのこと・巣箱のことを語るのを見て、我が家にもどうか、との打診・お誘いである。
Sバアちゃんの家・敷地は北側に山を背負った見晴らしの良い高台。巣箱を置かせてもらうには適した場所で、密かに狙っていた場所である。我が家・Kさん宅と適度な間隔を空けて巣箱を置ける、願ってもないベストロケーション。すぐさま設置を約束をした。

Kさんご一家・一族を巻き込んでのミツバチ談義。次第に関心が広がってきた感がある。まだまだ広がる予感もする。

2015年10月17日土曜日

今年も常陸秋そばフェスティバル里山フェアへのお誘

茨城北部は常陸秋そばの産地で、まさにこれからが収穫の時期。
つまりは、そろそろ各地の『新そば祭り』の話題が聞こえてくるころ。
蕎麦好きにはたまらない季節がやってくる。
                    
今年もまた在京の友人H君から常陸太田市・山吹運動公園で開かれる『常陸秋そばフェスティバル里山フェア』へのお誘いを受けた。
常陸太田市からの広報もされていないうちにはやばやと、しっかり情報を入手する彼の熱意には敬意を表したいくらいだ。H君とは11月7日(土)の初日に一緒に食べ歩きすることを約束した。

蕎麦好きのH君は、当地区の新そば祭りを楽しみにしていて、毎年小生を誘ってくれる。住んでいるところを考えれば誘う立場が逆のような気もする。
彼は毎年この時期は、茨城をはじめ関東・東北各地で開かれる新そば祭りを多数廻っている。
ちょっとした蕎麦の食通であって、新そばには一言も二言もある彼である。
そんなH君が、旧金砂郷村の蕎麦を気に入ってくれているのが、近隣住民としてはなんともウレシイ。

常陸太田市で開催される常陸秋そばフェスティバルは、広島県の『達磨 雪花山房』、高橋名人が参加するのが一つの目玉だったが、残念ながら今年から出店はないようだ(去年の達磨のブースに、『今年の出店が最後』の旨の張り紙があった)。
トレードマークの達磨が描かれた赤いトラックはもう見られない。
寂しい(2014年11月8日)

手打ち蕎麦の神様と崇められる高橋名人の手さばきを
一目見ようと人だかりとなった(2014年11月8日)

ではあるが、出店する他の店の蕎麦もどれも引けを取らない新そばの芸術品ばかりだ。
同じ常陸秋そばの粉を使って打った蕎麦でも随分と食感が異なる蕎麦が食べられるまたとない機会。自分の蕎麦打ちの参考にするためにも、食べ較べを楽しみたいと思う。
ケンチン蕎麦は外せない一杯だ(2014年11月8日)

                     
自分の手で蕎麦を栽培し収穫。できれば石臼の手挽きで自ら製粉し、蕎麦打ちまで自分でするというのは蕎麦道楽の極みかもしれない。
だが、一連の各作業は結構しんどい作業ばかりである。
中でも、石臼手挽きの製粉工程はその最たるもの。いちど試したら、もう十分・・となるに違いない重労働だ。自らの手で引いた粉を手にした満足感以上に、ひどい疲労感に襲われるのは間違いない。一人前のそば粉を製粉するだけでも、決して容易い作業ではない。
製粉に関しては、電動石臼でじっくり時間をかけて挽き、粉にしてもらうのが一番良い、というのが小生の偽らざる気持ちである。
当県北地区の各所で売られている『常陸秋そば』のそば粉は、恐らく設備の整った工場で、自動化された工程を経て電動石臼で粉挽きされているものと思う。値が張るのも致し方ない。

ひと様に丁寧に粉にしてもらい、打ってもらって食べる蕎麦にも、妙味があり、捨てがたいものである。

2015年10月11日日曜日

ひこばえ

刈り取った稲の株元から、新たな緑の稲の葉が生えてさらには実を付ける。
『ひこばえ』である。
稲刈り後の田んぼは、今の時期は全体がうっすらと緑色をしている。

残念ながら、実は付けても中身が入らない(不稔)。
仕組みとして、実を付けるのに必要な花粉を作る時期に低温になり花粉が出来なくなるため実が入らないのである。

一年草としての感がある稲だが、条件さえ整えば(たとえば冬の時期に株を温室に入れて、温度と肥料を十分に管理したら)、ずっと稲は生き続けるのではないかと思う。つまり多年草なのではないかと思うのだが。

無事、田んぼの後片付け(オダ掛けの長柄やオダ足片付け)が終わって、田んぼが急に寂しくなった。

2015年10月7日水曜日

イモ洗い棒 at さとみ農産物直売所

これから迎えるサトイモの収穫時期を前にして、サトイモ洗いの必需品である『イモ洗い棒』を売っている場所を見つけた。
常陸太田市の里美で国道349号線沿いにある『さとみ生産物直売所』だ。
(⇒場所はここ)

たまたまこの直売所に立ち寄って、店内を見て回っていて偶然見つけた。



当サイズでは1500円。
このような形状の松の木を探して(実はこれが一番大変なはず)、キレイに削って、店頭に並べて・・で1500円はあまりに廉価すぎるような気がする。であるが昨今このような道具にどれだけ需要があるだろう? スーパーでキレイで形の良いサトイモが容易に手に入る時代だし。
でも求める人あらば作る人あり、なのだろう。
かくいう小生もイモ洗い棒は自作して持っている(⇒過去ブログ2012/11/28)ので、わざわざ購入する必要はないのだが。
ではあるが、予期せぬ出会いについ手ってしみじみと眺めてしまった次第だ。
                 
この直売所は小さいながら食堂を併設している。

けんちん蕎麦を食べてみた。(以下は個人的な評価)
具はしっかりと煮込まれていて味が染み込んでいる。大根・ニンジンなどは口中でホロリと溶けるほどだ。サトイモのホクホク具合も格別で申し分なし。よく見るとイモガラ(サトイモの茎を干したもの)も細かく刻まれ具に加わっている。自己主張せず他の具と見事に調和している。
上には刻んだ長ネギを乗せてあるのだが、個人的には、この分量が多すぎず少なすぎずで非常に良い具合だ。欲を言えば、刻んだ柚子皮片(解凍もので可だ)を少し脇に添えてあったらベスト。暖かい麺類には柚子の皮は最適だ。
これら多様な具材は、メインの蕎麦にしっかりと絡んでいて、醸し出すハーモニーはまさにA級グルメ。茨城の誇るソウルフードにふさわしい逸品だ。
ほんの少しのご飯と漬物が付いてくるのも(オジサンには)うれしい。
けんちんそば(850円)
さらに、サービスで『里美ヨーグルト』が付いてきた(写真右上の紙コップ)。
甘過ぎず、酸味もほど良い。ねっとりとして濃い味わいのヨーグルトだ。

直売所の外にある棟ではジェラートの販売も行っていて、行列ができている。
買い求める客がずっと途切れないので、たいそう人気のあるスポットのようだ。
次回は挑戦したい。
                 
閑話休題。
サツマイモの収穫は終わった。サトイモの収穫まであと少しある。
根菜類の収穫はなんとも楽しい。収穫の喜び、っていうのを身体で味わえる。

2015年10月5日月曜日

一発検索の罪

高校時の同級生がたまに遊びに訪ねてくる。
年齢は同じなので、お互いに出現する症状は違うものの、見た目にも年相応に老化が始まっている。

彼との会話では、互いに人の名前やモノの名前が出てこないことはしょっちゅうである。
『ほら、あの、あれだよ、あれ。・・ん~と、なんつったっけ?(何て言ったっけ?)』とかの繰り返しとなる。なかなか出てこない固有名詞にイライラしながらも、なんとか答えを出そうとアレコレ努力しつつ会話が進む。多々、答えを諦めることもあるが、これが良いコミュニケーションの『潤滑油』になっている。コミュニケーションの『遊び』(=物事のゆとりの意味)の部分である。 たわい無い話だからこれで良いのである.

ただ、最近はスマホやタブレット端末を使う人が増えたことで、そんな場面も変わりつつあるのではないかと思う。このような場面で、ちょこっとキーワード検索すると何かしら答えが出てくる。画像で似たものまで検索・表示してくれるので、そのあたりから答えに近づける。一見効率的で合理的に見える。だが、さてどうだろう。
愛用のMacBook Air
PCは便利だが、頼りすぎると人間の基本的能力が衰退してしまいそうだ
スマホで一発検索してしまったら『あっ、それそれ』で終わる。更なる次元へ話が高まるのか、次の話題になるのか。会話が効率的過ぎるのも、はたしてどうなんだかと思う。
便利機能でコミュニケーションの質が変ってきているのではないかな。便利は便利だが、へんな風に慣らされてしまってきているのではないかしらねぇ・・。

幸い、同級生の彼との会話ではそこまでして答えを求めようとする熱意が互いにほとんど無くテキトーである。そのたため、スマホやタブレットを使う局面はまずない。
(彼はスマホユーザーであり、かつタブレット端末も所有している。どうやらタブレットは職場の関係で有無を言わさず持たされたようだ。だが、これら機器の機能を使いこなせているかどうかは解らぬ。小生と違って賢く器用な彼のことだから、持ち腐れなどはありえない。)

ついでいうと、私的な感情なのだが、小生は会話の最中に相手に目の前でスマホをいじられることが嫌でたまらない。きっと古い人間なのだろう。このようなたわい無い会話の場面では、調べれば分かるのかもしれぬが、あれだよあれ・・に付き合ってほしいと思うのである。
そういう『潤滑油』あるいは『遊び』のない会話は、スマホをいじられる不快感もあって何となく味気ない。答えが得られたスッキリ感よりも逆に軽いイライラ感の方が強い。
(ただし、この場面でもスマホの画像アルバム機能だけは、ある程度は肯定する)

けっして大事な何かを決める会議ではないのだからそれで良いのではないか。あくまで場合によるが、会話に効率とか正確性とかだけを求め過ぎると、時として大切なものを置いてきぼりしてしまうと思うのだが。どうだろうか、皆さんは。

あまりアクセクしない、してもしょうがないユルイ生活。またそれで十分なのが田舎の農的生活だと思う。

2015年10月2日金曜日

今年もフユザクラ

春と秋に咲く桜、フユザクラが今年も咲き始まった。

若い木であることと、植えてある場所が表土すぐ下が粘土質で根が張れないのであろうか、なかなか成長できないでいる木であることから、花はまだ数えるほどしかつけない。
春に咲き誇るソメイヨシノの華やかさとは違った、清楚で凛とした姿が気に入っている。
ソメイヨシノのように咲き急ぎ・散り急ぎがないのも良い。
ひっそりと十月の秋の風景に溶け込んでいる。