2015年1月29日木曜日

天蚕の神秘の萌黄色

富岡製糸場が世界文化遺産に登録され、国宝にも指定されたことは記憶に新しい。

富岡製糸場は2年ほど前に訪ねたことがある。
まだ遺産登録や国宝指定前であり、単なる(失礼ではあるが、ちょっと寂れた地方にある)一観光施設といった感があったが、いまやりっぱな世界に誇る施設。きっといろいろ関連設備が整えられたことだろう。

ここで作られた絹糸は明治時代の我が国の重要な輸出品で、富国強兵・殖産興業を目指す当時の日本としてはこの富岡製糸場は重要な施設であった。日本の近代化を支えたのである。
だが、残念ながら長い間この施設のステータスは低いものであったといえる。
なんとも残念なことだが、訪ねた当時は地元富岡としてのアピールも含めてそんな感じがした。
         
昭和四十年代までは、茨城北部の中山間地域の農家の多くがそうであったように我が家でも養蚕を行っていた。
年に数回、蚕を育て繭にして出荷していたのである。屋敷の周囲には桑畑がたくさんあった。
蚕というデリケートな生き物を扱うがために、その飼育作業は大変であった。
新鮮な桑の葉しか食べないので、随時桑の葉(成長してからは葉が付いた枝ごと)を与え続けなければならない。夜に葉を与えることもしばしば。よく手伝わされたものだ。繭の出荷作業も完全手作業のようなもので家族総出でやっていたものだ。養蚕を止めて久しく、今となっては懐かしい思い出だ。

当たり前だが、絹は蚕の繭から作られる。ひとつの繭から数キロの長さの絹糸がとれる。
かつて娘が学校の授業で蚕を飼うことになり家に持ち帰ったことがある。繭を取るところまで(長さを測るところまで)付き合ったが、巻き取りながら絹糸の長さをつくづく実感した。
素晴らしい生き物だと思ったものだった。
         
 一般的に知られている白い繭は「家蚕(かさん)」という、家で飼われている蚕であり、桑の葉を食べて大きくなる。商業ベースでかつて多く飼われていた蚕である。白い虫である。
一方で、山野など自然に生息している蚕もいる。こちらは「野蚕(やさん)」と呼ばれ、野生の植物を食べている。
もっといえば、野蚕には「天蚕(てんさん)」と「柞蚕(さくさん)」という2種類があり、天蚕(山繭:やままゆとも呼ぶ)はクヌギやナラなどの葉を食べて育つ。そのために繭の色が葉っぱのような明るい緑色となる。
一方の柞蚕はクリ、カシ、カシワなどの葉を食べるために、繭の色は淡褐色で、繭は少し大きめになにる。

ここしばらく、山の木立の伐採に余念がないのだが、我が家の山でも時折この天蚕の繭を見つけることができる。
萌黄色の独特の光沢がある繭だ。
天蚕の繭。空っぽである。
この繭の主たる蛾(体長4~5cmもある大きな蛾で、羽に目玉模様があるようなヤツだ)はあまり好きではないが、この繭は落ち着いた上品な薄緑色・萌黄色で好きだ。

この繭から取った絹糸で紡がれた糸で織られる布は、さぞや素晴らしいものに違いない。
         
明治天皇の皇后である昭憲皇后以来、歴代の皇后陛下は皇居の御養蚕所で養蚕をなされている。ニュースで知っておられる方も多かろう。
以下は宮内庁のHPからの一部引用である。このようなこともあるようだ。素晴らしいことではないかな。

日本国内で絹が既に輸出品としての往時の地位を失い,皇室のご養蚕が産業の奨励の対象とは全くかけ離れてしまった平成の時代にあって,皇后陛下がなおご養蚕を続けておられるのは,国内で未だ熱心にこの伝統文化を守っている人々に対する,強い共感と連帯のお気持ちでした。絹という,この美しいものを蚕から作る技術が日本から失われることのないよう,今日まで先人が営々と蓄積してきた養蚕の手法を,せめてもう一世代は残しておきたいという皇后陛下の願いが受け入れられ,今,皇居の紅葉山の御養蚕所では,養蚕の最盛期,日本の養蚕家が行っていたとほぼ等しい手作業が,春または初夏の2ヶ月間行われており,主任を含む5人の奉仕者と共に,皇后陛下は日々の公務の間を縫い,この作業のほぼ全ての工程に関わっておられます。
こうした中,平成2年(1990),廃棄寸前であった古い蚕の1品種で,皇后陛下が「もうしばらく育ててみたい」と留保された蚕の糸(現在のものの1/2の太さ)が,日本の貴重な文化財である古代織物の復元に,不可欠の役割を担うという意外な展開がもたらされました。
過去の御養蚕所では,次第に改良を重ねた品種と共に,純国産の「小石丸」という蚕も飼育されてきました。この品種は,明治,大正初期には,その糸の美しさ故に珍重されたものの,生産性が低いことから次第に廃れ,昭和の終わり頃には皇室でわずかに残っていたものもその廃棄が不可避とされていたのですが,新たに平成のご養蚕が始められたとき,皇后陛下のもうしばらくこの品種を留保なさりたいとの願いから,少量ながら飼育が続けられてきました。
ところが,この繭から採れる繊細な絹糸が,平成6年(1994)から計画されていた正倉院宝物の古代裂(8世紀)の復元に欠くことができないものであることが明らかになり,飼育を続けることとされた皇后陛下の決断が,宝物の古代裂の一連の復元事業につながり,さらに鎌倉時代の絵巻(1309年頃)の名品の修理にも用いられ,日本文化の継承に大きな足跡を残すことになりました。時代が変わって,皇室のご養蚕に新たな意義が加わることになったのです。

2015年1月17日土曜日

2015年 味噌作り(2) 味噌炊き&仕込み

16日に味噌づくりを行った。
今年は麹・大豆ともそれぞれ5升分での試しみである。
(今回の参考にしたのはこのHP・・・・手作り味噌の作り方)

昼前に、注文していた麹が到着した。
さっそく塩と合わせて十分に揉み込んだ。
大豆は、前日から浸したておいたので十分に水を含んで膨らんでいる。
これを、屋外に誂えた竈にのせた伝家の大釜で朝から煮始めた。

伝家の大釜とドラム缶で作った竈
付近に一族同姓が多いため家毎の識別マークが決められていて
(我が家の場合は丸に大)この釜にもつけられている。
このような備品は、昔はきっと一族間での貸し借りが頻繁にあったのだろう。
この大釜は先代からは一斗炊きと聞いてきているが、改めて眺めると実に大きい。
口径53cmもある。こんな釜が必要とされ、活躍していた時代が確実にあったのだ。ずっと昔のご先祖様から大切に使用してきた大釜、今回は二十数年ぶりに活躍した。


煮ること3時間。もうもうと上がる湯気で煮ている豆は見えない。
薪をどんどんくべる。火力は大変強い。

煮えた大豆を厚手のビニール袋に入れて、手で叩いて潰す。
もっと量が多ければ臼に入れて杵で潰すのだが、今回はこの方法で潰した。
大豆粒は適度に残しておいた。好き好きだろうが、この潰しきれずに残った大豆が味噌汁の中に入っているのをつまんで食べるのが好きだ。昔の懐かしい記憶でもある。

このあと、塩と合わせた麹と混ぜ合わせ、樽に詰め込んでいった。
昔から伝わる木の樽ではなく、プラスチック製の漬物樽に入れた。
ビニール袋を敷いてその中に混ぜ合わせた味噌の素を投げ入れた。
昔に比べると随分と衛生的、である。
煮た大豆16キロ(煮る前は7キロ)、麹7.5キロ、塩3キロを混ぜ合わせたので、合計26.5キロほどの味噌の素ができた計算である。
これを二つの樽に分けて、物置の隅に保管した。
さて、半年後、一年後、どんな味噌になっているだろうか。

今回掛かった費用は、味噌樽(30リットル)4樽で約5,000円、塩(3.5kg)約1,000円、ビニール袋300円。麹作成費用は2,750円。
廉価にして味噌づくりの楽しさたっぷり。
まだまだ大豆は余っているので、第二弾があっても良いかなと思っている。

2015年1月10日土曜日

平成27年のミツバチ飼育届などの提出について

平成27年度の蜜蜂飼育届を提出せよ、と農林事務所から連絡がきた。
今年の飼育計画は、本心では野心的な数字で10群目標としたいところなのだが、控えめに5群とする。控えめ、といっても現在の5倍の数字。
あと4群捕獲・・・・これだけ入ってくれたら嬉しくて嬉しくて堪らない。そうなると夏から秋にかけての採蜜作業は大変な作業だろうが、そんな苦労などまったく厭わぬわが身である。

巣箱は屋敷の周囲、親戚宅などに既に20台設置済みであるし、今年は二ホンミツバチ誘引剤を10個注文する予定。我ながら意欲的だと思う。昨年目の当たりにしたこの誘引剤の絶大な効果で、今年は一気に攻勢をかけるつもりだ。
いま温室内で育てているキンリョウヘンは、桜の時期に咲けばラッキーというつもりでいる。主役交代の感がある。

さてさて最終何台に入居してくれるやら。いまからワクワクしている。4月が待ち遠しくて堪らない。
この飼育届の提出をすると、今年のミツバチライフがまた始まったなぁという気分になる。

2015年1月4日日曜日

2015年 味噌作り(1) 自家製味噌の思ひ出

昔、我が家で食べていた味噌は自家製だった。
味噌の仕込みは厳寒期の行事で、やたらと寒い日の作業だったことを覚えている。秋に収穫した大豆を、外に設えた竃(へっつい)に乗せた大きな釜で煮た。薪がまだ大活躍していたのだった。茹で上がった大豆を臼に入れ杵でつぶし、麹と塩を混ぜた。そして木の樽に投げ入れていたものだ。

味噌を保管していた場所は、蔵に付属した6畳程の小さな物置部屋。『味噌蔵』と呼んでいた。薄暗い部屋の中には高さ1mほどで、径は70~80cmもあろうかという大きな木の樽が3樽並んでいた。使わなくなって久しい今では、樽も傷んで埃を被ったままだ。
かつてはどれにも味噌がたっぷりと入っていて、十分に熟した数年物の味噌から湧き上がる芳しい香りが漂っていたものだ。
当座使う分だけを樽から取り出してきては台所の甕に保存して、都度すり鉢で摺って使う。市販されている味噌には無い、潰しきれないで残った大豆片が入っている味噌だった。他家の手作り味噌の味は知らぬが、おそらくは我が家独自の味というものだったはずだ。何しろ、正確なレシピなどなく、目分量で麹や塩を投入して作っていたのだったし、軽く100年は使用されてきたであろう古い木の樽を使っていたのであるから発酵に活躍する微生物が樽にこびり付いていて、風味豊かな独自の味噌を熟成させていたのだろう。滋味に富んだ味噌であったに違いない。
         
我が家で味噌作りをしなくなって久しい。樽も傷んできたためもあるが、昔ほど大家族でなくなり樽で作るほどの必要性がなくなったためだ。そして大豆栽培からもすっかり遠ざかってしまった。

いつだったか現代農業に味噌作りの特集記事があったのを読んで、子供の頃飲んだ味噌汁の味と亡き父母たちがやっていた味噌仕込み風景が堪らなく懐かしくなった。この時、もう一度愉しみのために再現してみようと考えた。
実はすでに味噌作り計画は昨年春から始めている。6月下旬に2アール程の畑に種を播いた。12月には無事に収穫し終えている。種の大豆は、親類から入手した交配種(当地の地大豆である『青御前』×味噌作りに適した『タチナガハ』)である。

※青御前は淡い深緑色であるため、それだけを使って味噌を作ると色が悪いとのことである。
種まき、草取り、収穫、脱穀・・・体力はかかるが、楽しむ目的があると不思議と大変さよりも楽しさが勝る。常陸秋そばと同じだ。育って行く過程もじっくり観察してきた。何につけ植物が成長してゆく様は感動することが多い。人間は種を播くだけでしかなく、非力である。
2014/7/7
2014/8/31
2014/9/13
2014/11/22
脱穀
タチナガハの薄黄色と青御前の緑色のちょうど真ん中の色の大豆だ
もう一つの具材である麹も既に依頼してある。さあ、材料が揃ったら連休あたりで作業するとするか。

2015年1月1日木曜日

年神様をお迎えして

正月とは『年神様』を自宅にお迎えする行事である。
正月がめでたいというのは、『年神様』がちゃんと家にお迎えできたから言うのである。
(以下、一般的な説である)

年神様をお迎えするにあたっては、人間界では様々な手続きというか準備がある。
まず、年神様は汚いところが嫌いなので、年末には大掃除をして家をキレイにする。
年神様が降臨される際の依り代として、角松を立てる。神様が降りてこられるには一定の条件があって、尖ったもの・尖った場所ということがあって、そのために尖った松葉や鋭く斜めに切れた竹が巻きつけてあるのである。よって角松は尖ったものの集合体である。神様は尖ったものが好きなのである。
年神様が迷わずちゃんと我が家に来ていただくための目印、避雷針(そこに誘導するという意味において同じと思う)のようなものとも言える。

せっかくキレイに掃除し清めた家に、禍々しい(まがまがしい)ものが入ってこないよう、いわば結界としての標識としてしめ飾りを家の入口の扉に飾る。門松→しめ飾りを通って神様は家に入ってこられるのである。

こうやってやっとこ家に入っていただいた年神様である。お食事を提供せねばならない。
お食事=供物(くもつ)の鏡餅を飾る。餅は農耕の実りの象徴である。年神様がお召し上がりになった鏡餅には年神様の魂が宿るので、それらは後日お飾りからさげて雑煮・焼餅として人間が頂く。そうすることにより年神様の魂をわが身に取り込むことができるのである。神様と一体になれるのである。パワーをもらえるのである。
こうやって一年の健康を願う・・・・・という話である。

迷信じみたそれぞれの意味やいわれなど別に知らなくても正月は来るし、何も困ることはないが、民俗学的に言われている上記のような正月の解釈を知っていても損はないだろう。

では年神様とは何、誰れなのだろう。
民俗学研究の柳田国男によれば、『農耕の神様』と『ご先祖様の霊=祖霊』の両方を兼ねたものであるという。

人間は死ぬと魂はあの世に行く。
あの世で一定の期間が過ぎ魂が浄化されると、やがて個人としての魂ではなく『祖霊』という大きな集団となり、春には『田の神』となり、秋が過ぎ収穫が済むと山に帰ってゆき『山の神』になる。
そして、正月には『年神様』となって家にお越しになり子孫の繁栄を見守ってくださる、という考えだ。

長く続いた農業中心の時代とは環境はだいぶ変わってはいるが、今の時代であっても田舎に住んでかような農的な生活をしていると、柳田説は共感できるものである。なので小生はこの説を信奉している。

大自然をつかさどり天におわします神様と、直接的に血がつながっているご先祖様のお陰で、今こうやって我が生があり命は長らえられている。この奇跡に感謝する日、正月である。