2011年5月31日火曜日

ヤマザクラの実生を試す

昨日は、台風2号崩れの低気圧の影響で、北関東の当地でもかなりの強風が吹いた。
そのせいであろうか、かねてより採取の時期を窺っていたヤマザクラの枝から実が大量に落果していた。
十分に熟しているものかどうかは判断つかないが、枝に僅かな実しか付いていない状態となったため、急遽これらの実を集めてポット植えすることとした。
果肉が熟して崩れかけているものもあるので、あまり採取の時期は外れてはいないのではないかと思う。

これらは小さいながらも、サクラの実は実である。しっかりサクランボの形状を成している。
これらから、ヤマザクラの実生の苗を作り、ソメイヨシノの接木の台木を作りたいと思う。
3~4年後に行うことになるであろう気の長い計画である。
地面に小さな赤い粒が

色といい、形といい、サクランボである

未熟・完熟、多種多様
できるだけ親木が生えている木の近くの表土を採集してきてポットに入れた。
55鉢が完成。どれだけ芽が出るか楽しみだ。

あわせて、すっかり鳥に食べられてしまった、赤い宝石・サクランボの『佐藤錦』であるが、熟しすぎて食に供せないものがいくつか手元に残っていたため、これらもポット植えしてみた。
あまり実生は期待出来ないが、これから芽が出来たら儲けものだ。


☆ツバメの営巣(25日め)
しばらくそっとしておいたツバメの巣である。
あえて巣に近寄らずに遠目で観察するに留めていた。
ツガイが飛び交う姿は確認できていたものの、巣の中がどのような状態なのか気になっていた。
今日、脚立を立て巣の高さで様子を見てみた。
生憎と巣の上の隙間が狭く、肉眼では内部が確認できない。

巣にツバメが居ない隙を見計らったものの、直ぐに戻ってきて、巣の中にしゃがみこんだ。
ツガイが交代して座り込む。
どうやら抱卵しているようだ。
あまり長い時間覗いているとまた刺激してしまいそうなので切り上げた。
とにかくツバメの営みはしっかりと続けられているのが確認できたので、ひとまず安心だ。

ツガイのどちらかが必ず巣にいる
交代だ

交代したら、じっとしゃがみこむ


★★ヤマザクラの実を拾う際に見かけたノアザミ。
花はあと少しだ。


開く前の蕾
芸術的だ

2011年5月30日月曜日

佐藤錦 鳥被害に遭う

週末から週初はこの時期に珍しい台風2号で全国的に大荒れでした。
昨日(5/29)、低気圧に変わったものの、今日は依然として風雨が強く、各地で5月としての最高雨量だったり、最強風だったりの記録が更新されたようです。
テレビのニュースでは、田植えが終わって一段落したばかりであろう田んぼを、濁流が流れている映像もありました。
東北の震災被災地では強風被害・地盤沈下による浸水被害が出ているようです。
自然災害とはいえ、残念であり、虚しくなる映像です。


私たちのファームの果樹コーナーにあるサクランボ(品種は佐藤錦です)の木に、今年も小粒ですが大量の実が成りました。(下の写真は5/27撮影)
もう少し色づいてから収穫しようと思っていたところ、すっかり鳥に食べられてしまいました。
今日現在、木には赤い色がまったく見当たりません。ネットを張ろうとしていた矢先でした。
少しだけ収穫して食べられたのがせめてもの慰め。
自然との共生では、ときにこのようなこともあります。
珍しく豊作でした

実は小さいのですが、こんなにいい感じで熟してきていたのに・・

~今日の畑から~
キャベツの生育は順調ですが、葉っぱは穴だらけです。
青虫はとても好むようですね、この時期の葉っぱを。

殺虫剤を散布すれば簡単に退治できるのでしょうが、それはしたくありません。
いちいち手で摘んでは退治しています。
あと少し、辛抱して作業を続けます。
近いうちに、手塩にかけた美味しい無農薬キャベツが食べられそうです。



2011年5月28日土曜日

水郡線を走った懐かしい車両たち

昭和49年(1974年)から昭和58年(1983年)に撮影した水郡線の列車の写真を掲載しているHPを見つけました。素晴らしい写真ばかりです。当時を知る方には、皆懐かしいものばかりだろうと思います。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kidousha/7-suigun/7.suigun.html

(写真の著作権は管理人 Mix Materialさんにありますが、リンクフリーで自由に使って良いとのことですので、リンクを張らせて頂きました。ありがとうございました。)

昭和49年の山方宿駅、まだホームは砂利の部分があります。
リヤカーも写っています。懐かしい風景です。
確かにベージュと朱色の2色のディーゼル車が走っていました。
それに、まだ上野から直通の急行『奥久慈号』がありましたね。

昭和54年の上菅谷駅、木造のホーム待合室が写ってます。これも懐かしいです。
常陸大宮方面から常陸太田へ通学する高校生は、この駅で乗り換えました。
お世辞にも太田線との接続は良いとは言えず、この狭い待合室で下り列車を待っていました。
何枚か写真に写っている全体が朱色のディーゼル車もありましたね。

あれからいろいろなタイプの車両が登場しました。どれだけ記憶していますか?
そして、これらの列車が走った30年~40年前のあの頃、みなさんはどんな時代だったでしょうか?

2011年5月26日木曜日

野菜無人販売所

東京に出たついでに、大都市近郊の農業の様子を視察した。

東京西部に位置し新宿・池袋のターミナルまで電車で30分圏内の、西東京市、清瀬市、東村山市、東久留米市(以上は東京都)、埼玉県新座市の5市を回ってみた。
いずれの地域も、都心近くに比べると緑も多く残っており、まだ多くの畑地も目にすることが出来る。
昭和50年代以降、急速に都市化が進み、農地が住宅に囲まれ、耕作面積も狭まってきているのだろう。
新しい大型マンション建設や、分譲住宅が数多く立てられている。
その隙間を縫うように(・・・・・本来は逆なのであるが)農地がある。
常陸大宮などに比べて、ずいぶんと窮屈そうな農業だな、というのが感想である。

当然、田舎ではありえないほど隣家との間隔が狭い家が多い。
テレビの音も、電話の話し声も、咳払いまで聞こえそうだ。
これだけでも疲れてしまいそうだ。やはりこの田舎暮らしが良い。

このような都市化が進んだ地域で農業を続けるには、周囲の住民との軋轢を避けねばならない厳しい現実もあるものと思われる。
俺たちのほうがずっと昔からここに居るんだ。お前たちのほうが、後に来て、勝手に近くに住み着いたくせに・・と言いたいだろう、きっと。
同情する。
この茨城の片田舎のように、騒音も、臭気も、作業時間も気兼ねなく作業できる場所にはない苦労が多々あるに違いない。

○●○●○●
中には、家庭菜園として農地を解放するという方向に活路を見出している農家もあるようだ。
綺麗に区割りし、水道設備も完備。必要なら農機具も貸し出す、農作業のアドバイスもする。
ほとんどお膳立した『ちよっこっとかじる農業』を体験できるサービス、とでもいうべきもの。
農家が新しく提供するサービス業としての一形態ではある。
こうした家庭菜園は、どこも契約者が満杯の状態と聞く。
都心のオフィスで働く人たちは、このような形であっても自然と触れ合う機会を渇望しているのであろう。
農業に関心が高いことは、食に対する高い関心につながる。
また自然に対する関心、環境に対する関心につながってゆくはずだ。
良いことである。
いろんな困難を乗り越えながら都市近郊で工夫しながら頑張っている農家を見ると、つい応援したくなる。

○●○●○●
そんな農家が頑張っているひとつの形として、『野菜無人販売所』というものがある。
常陸大宮市内では見かけることはまず無い。

農家が、市場や農協に出荷した余りで、自家消費してもなお余る分を、道路端の店舗、といっても簡素なものだが、に並べておくものである。
道路から庭に入る部分に店を出すケースが多いが、畑の片隅に立つ場合も多い。

いろいろな形がある。掘っ立て小屋から、しっかりした建物まで。ほとんどが簡素な造りである。
店の番など手間隙かけるほどのものではないので、当然に『無人』である。


西東京市
生垣をめぐらす大きな農家
庭先のテントで野菜を販売している
道路にはノボリと看板を立てて目を引く努力をしている


東久留米市
こちらは単に箱に大根を入れて置いてあるだけで無施設だ
50円と書いた紙が張られた簡単な料金箱があるだけ

東久留米市
確りとした造りの真新しい店舗
壁のホワイトボードには、並べてある野菜の品種名が書いてある
タケノコは100円~500円だったようだが売り切れていた

東久留米市
有り合わせの台を門の横に並べて、野菜だけでなく花も置いている
種類も豊富だ
『品数の代金はただしくお入れください』とお願いの札が掛かっている



東久留米市
見た限りでは一番コストが掛かっていそうな造りである
店の番をする人が立つスペースもある
幹線道路沿いであり、人気ある販売所のようだ

東久留米市
ビニールハウスの転用らしい
周囲には花を植えたり飾ったりして凝っている
主のセンスがうかがえる
各種野菜を、100円均一にしてあることが多い。
客は無人販売所の柱に取り付けてある『代金箱』に、品数に合わせた代金を投入して野菜を購入する。
仕組みとしてはいたってシンプルで、人の性善説に拠ったシステムである。

しかしながら、残念なことであるが、野菜が盗まれることも結構多いらしい。
売れたはずの代金に、遠く及ばないことがしばしばだと聞く。
何度か現代農業で特集された記事を見ても、同様なことが書いてあった記憶がある。
何処も同じらしい。
そのために人を立たせたり、監視装置を設置したりすることは、当然ながらコストの面で割に合わないので無理である。
従って、ある程度の盗まれることを前提としている、ということになる。

これらの無人販売所が続けられているということは、まずまずの回収もできているという見方もできる。
それとも、農家の諦め度合いが高いということだろうか。

しかし、である。
ことは正規に料金を払う人の比率の問題、いわんや農家の諦め度合いの問題ではない。
食べる野菜を盗まないといけないほど、生活に困窮しているひとが多いとは思えない。

盗んだ野菜を食べて、はたして美味しいのだろうか?
盗んだ野菜を家族に食べさせて、後ろめたくないのであろうか?
盗んだ野菜を家族に美味しいと言ってもらって、心底うれしいと思えるのだろうか?
盗む時に、この野菜を育てた農家の人の姿が、僅かでも頭をかすめないのだろうか?
盗んだ後に、良心の呵責はないのだろうか?

人は見ていなくても、神様はご覧になっているのだが。
万引きは一生のココロの傷、だと思うが。
自分の心だけは誤魔化せないと思うが。
所詮、このようなことをする人たちには届かない声なのか。虚しい現実なのか。

・・・・いろいろな無人野菜販売所を見ながら、こう思うことにした。
『一部の心無い人たちがいることは残念なことだ。でも、ちゃんと料金を払ってこの野菜を買ってくれ喜んでくれるひとがいる。その人たちのために続けているのだ』、と。

購入するお客さまと直接顔を合わすことはほとんど無いのだろうが、でも確かに消費者と農家がつながっている感じがする。
これらの農家も、きっとこのつながりだったり消費者の喜びがあるから、続けられているに違いない。
農家と消費者が、顔が見える関係ほどに近い。
これは素晴らしいことではないかと思っている。

スーパーに並ぶ野菜は、最近でこそ『○○県■■市の△△さんが栽培した』との情報が付くようにはなってきた。顔写真つきのものも増えた。
出荷する人も顔が出ることで、より責任を持って生産に当たっているはずだ。
消費者もその点を踏まえて購入している。

無人野菜販売所の場合には、さらに『この畑で・この農家の・あの人が作った野菜』が明確である。
より安心して買い求めることが出来るのではないか。

○●○●○●○●○●○●○●○●

冒険かも知れないが、この形を、この茨城の街で、いつか試したいと考えている。
東京近郊のように人口はないし、住民構成も異なるので、同じように行くはずはない。

ただ、人口に占める農家比率は高いが、それでも自分の家で食べる野菜をすべて栽培しているとは限らない。
非農家であっても、家庭菜園程度の野菜は作っている方が多いが、安定して採れたり、種類が十分だったりも無いはずだ。
だから、野菜はスーパーで購入しているほうが断然多いはずだ。
ニーズはあるだろう。まずはちょっと立ち寄ってみて、有れば買う。無かったらスーパーにいって買う、ということだ。
こちらには、非農家以上の種類と量の豊富さはある。知人と協働すればバリエーションが増えるだろう。
旬のものをタイムリーに、廉価に提供できるのではないかと思う。
並べる野菜の予定等を伝言板で告知しておくといいかも知れない。

確かに、スーパーほど量も品種も多く、安定しては並べられない。いつも確実にという約束は出来ない。
所詮、自家消費以上-市場出荷未満の野菜たちである。
ましてこのための専門農家でもない。
だからと言って、安易に妥協したり、甘えてしまうこともしたくはない。
どれだけ続けられるか、どれだけ満足いただけるかは分からない。
こういった『地産地消』の典型ともいえる『顔の見える野菜』を販売推進することで、この街の人の生活に、健康に役立つなら、続けたいと思う。信頼される売り場を作りたいと思う。農作業にも張り合いが出ることだろう。
収入の多寡はあまり問題ではない。
喜んでくれるひとがいるなら勇気百倍である。やる意味は十分にある。
頑張ってみたい。

それに、この大好きな街には、『盗んだ野菜を食べて美味しい』と感じる人や、『盗んだ野菜を家族に食べさせて後ろめたくない』人などは、いるはずがないと心から信じて疑わないから。

2011年5月24日火曜日

玉川村駅今昔

JR玉川村駅舎がロッジ風駅舎に建替えられて久しい。

以前の駅舎は、地方路線でよく見られた一般的な形式のものであったが、やはり『国鉄』の匂いを漂わせた木造駅舎であった。
いつの間にか取り壊され、モダンな建物に変わった。
新しい建物は「関東の駅100選」に指定されている。
現在の玉川村駅舎
かつてあの駅舎前広場で遊んで育ち、通学で、通勤で利用した経験がある人であれば、いまこの場所に立つとき、単に昔を懐古する気持ちだけではない、ある種の寂しさを感じはしまいか。

当時の駅舎写真が手元にあるのでご紹介したい。
白いカット部分があるのは被写体となった人物を削除した為である。ご容赦願いたい。
旧駅舎の雰囲気は感じ取っていただけるものと思う。
旧玉川村駅舎(1989/8撮影)
旧玉川村駅舎と額(1992撮影)
小さいながらもよく手入れされた、凛とした駅舎であった。
好きな駅であった。
駅前には、一本のヒノキの木と公衆電話ボックス。
駅舎正面には「玉川村駅」の額。
そのまま改札口が、その向こうのホーム上に駅名板が、通して見えた。

駅舎に入ると、左手に切符売り場の窓口。
あの頃は、中の駅員にガラス越しに駅名を告げると、凹んだ大理石の上を滑らせて硬券の切符が渡された。
紙の定期券に押す大きな回転日付判も、大小様々なゴム印も見えた。
荷物の受付窓口があった。隣には威厳ある大きな黒い台秤が座していた。

改札口には切符切りの駅員が立つ柵。列車の到着が近づくと改札が始まり、駅員が立った。
切符を切る鋏をリズミカルに鳴らす駅員がいた。
待合室には磨かれた木製ベンチ。壁に大きな振り子時計。
一つ一つが歴史を深く刻んでいた。

まさにあの浅田二郎原作の映画「鉄道員(ぽっぽや)」の世界が、確かにそこにはあった。
しかし、沿線人口の減少とモータリゼーションの波が、この里にも到来することになる。
   ■■昭和45年(1970年)に貨物の取り扱いが廃止
   ■■昭和58年(1983年)に水郡線CTC化に伴い無人駅化

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今では寂しい田舎の街ではあるが、かつて全盛時代があったのである。
1940年代の戦前から戦後にかけての昭和15年から昭和35年頃である。
1922年(大正11年)の駅開設からほぼ15年以上経過している。

マイカー時代の到来はずっと先の話である。
移動手段といえば国鉄というのが当たり前の時代であった。
通勤にも通学にも、とにかく水郡線を使う必要があった。
そして、駅利用圏は西と南北に広く、沿線人口もまた多かった。
(当時の玉川小学校は複数学級が多かった)

そして駅がここに誘致された最大の理由であるところの、玉川村駅周辺から栃木県境までの山間部で産する農産物(葉タバコ、材木等)の集積がもっとも盛んであったのがこの時期である。
物資がこの駅に集められ、そして貨物で運ばれていった。
一大集積所として賑わったのだ。
だが、長くは続かなかったようだ。時代の変化は着実に進んでいた。

今では想像することが難しいが、駅構内には各種の設備が整えられていたのである。
駅員宿舎も何棟もあった。大きな倉庫もあった。
機関庫も併設されて、長い引込み線と共に機関車整備を行う施設もあった。
(機関庫は駅東側にあった。ごく短期間しか利用されなかったようで直ぐに廃止されている)
倉庫横の空き地には材木が堆く積まれ、子供たちの良い遊び場となった。

これらも昭和45年(1970年)の駅貨物取り扱いが廃止された頃から徐々に、後に国鉄が解体されJRになったとたん急速に、姿を消した。

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戦前戦後の当時の街の賑わいを知る地元古老から話を聞いた。
全盛時代には、駅の乗降客も多く、駅前は賑わい、物流もたいそう盛んであったという。
駅前にはぞくぞくと各種事業所が開設されていた。
日本通運の代理店、農協支所、タクシー会社など。
これらも昭和が平成に変わる頃までにはすべて姿を消した。

また最盛期の駅周辺には、東野屋・柴田屋・平和屋・花輪屋という屋号を持つ4軒の宿があったという。
おそらくは木賃宿ではなかったかと思われる。
宿泊してまで働くほど、仕事と情報がこの街にはあふれたのである。
魅力的な街だったに違いない。

またこれだけ人が集まって賑わう場所には、必ず歓楽施設が存在する。
『初音屋』という名の料理店もあったという。

これらの多くはすでに姿を消しているが、駅前の花輪屋は建物が現存し、店軒下の防火用水石桶に名が刻まれ残っている。
初音屋の威厳ある楼閣も、崩れるにまかせているが現存している。

■■ 『赤線跡を歩く』(木村聡著 ちくま文庫)には、玉川村駅前とこれら花輪屋・初音屋が
   写真付きで紹介されている。
   そこに引用・紹介されている「全国女性街ガイド」(昭和30年発行)の文章によると、
   『(特飲店と酌婦が)玉川村駅にも4軒17名』とある。
   ただ、特飲店の4件と、上述4軒の宿および初音屋との関係は不詳である。

さらに、街外れ(駅前から200mほど北)には映画館が1960年代後半(昭和30年代前半)まで存在した。
映画館といっても木造舞台小屋程度ではあったが、2階建てで回り廊下がある一応の設備はあった建物である。
地方興行の芝居役者の一行が巡業してきたのであろう。
精神文化も高揚した、よき時代があったのだ。
私の記憶にある1960年代後半(昭和40年代前半)の姿は、既に廃屋状態であったが、まだ壊れた映写機も映写室も残っており、映画フイルム等が散乱してはいたがそこここに面影があった。
今は小さな空き地となり、夏草が揺れている。
そこにかつて映画館があったとは全く想像つかない。面影を辿るのも容易ではない。

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この街の盛衰を見続けた駅舎は、やはりよき時代の幻影と共に姿を消した。

過去の思い出は思い出として大切にする。
そして愛着あるこの街を、この駅前を、かつてのように活気ある街にしたい。
人が集う場所としたい。
何かできるはずだ。しないといけない。
改めて、強く、そう思う。

2011年5月22日日曜日

えひめAI

大手町にある『農文協・農業書センター』で、現代農業別冊『えひめAIの作り方・使い方』という本を購入した。
(⇒えひめAIは「えひめあい」と読む)

以前に月刊誌現代農業に特集された内容に新たな取材記事を加えて一冊の本とし、活用農家のインタヴューや作り方の実際をDVDにして付録添付したものである。

えひめAIとは、簡単に言うと、納豆・ヨーグルト・イースト・砂糖の4つとお湯を混ぜて出来る発酵液である。
高知県の中土佐町のHPには、作り方が掲載されている。(MAIENZAという商品名になっている)
http://www.town.nakatosa.lg.jp/osirase/20101209-.html
当初はどうやら河川の水質改善のために開発されたようだ。
その後、いろいろな活用方法が工夫され、今では多岐にわたって利用されている。
紹介されている主な効能は、納豆菌・乳酸菌・酵母菌のそれぞれの特長を生かし、微生物の働きを活性化させることでの土壌改良機能、病虫害を減らし野菜の味をアップさせる代替農薬機能、あるいは肥料としての機能、キッチンでも洗濯機でも油汚れなどをすっきりと落とす洗剤としての機能、肌に良い(アトピーにも良いとの声もある)ので入浴剤としての機能(風呂に入れると風呂桶・風呂釜の掃除にもなる)、生ゴミやコンポストの臭いを消す消臭機能、等等。
まさにスーパー発酵液なのである。
しかも、材料はすべて食べ物であるので安心、ときている。

やや専門的になるが、詳細にはつぎの通りである。
1.乳酸菌が産生する強酸性の乳酸が、アンモニアなどのアルカリ性の悪臭物質を中和して消臭する。
2.発酵培養時に微生物が産生する酵素が、デンプンやたんぱく質、脂質などを分解する。
3.酵母菌が栄養価の高いアミノ酸を合成して、微生物や植物の栄養素を作る。
4.発酵培養時に産生する抗酸化物質(ワインのポリフェノールのようなもの)が腐敗を抑制する。
5.乳酸菌・酵母・納豆菌が土壌微生物を活性化して増殖させるので、食物連鎖が活発になり、水質浄化が進行する。


あいにく現代農業の記事は読みもらしたのか、記憶にない。
この本を立ち読みし、興味をそそられた。
作り方も簡単で、材料もそれぞれが廉価なことから、さっそく試しに作ってみることにした。

作り方は、2種類ある。
①一週間ほどかけてじっくりと発酵させてつくる方法
②24時間で作る簡便法、   である。
高知県中土佐町HPで紹介しているのは②の方法である。
具体的な作り方はこの上記HPを参照していただきたい。

まずは試しに②で作り、さっそく使ってみた。
正直、驚いた。
土壌改良の効果は直ぐには確認できないでいるが、生ゴミ消臭効果はテキメンなのである。

生ゴミとそれを集めて入れておいたコンポストに希釈液を振りかけておいたところ、あの蓋を取ったときに湧き出るムッとした悪臭が、ほぼ完全に無くなっているのである。
どうやら悪臭を発生させる微生物が、このえひめAIの中の乳酸の働きによって中和されたようだ。

この結果に気をよくして、のめり込んだ。
①の方法で作るべく、20ℓのポリタンクを購入し大量製造に挑戦した。
このえひめAIは、発酵期間中の適温(33℃~42℃)維持がポイントである。
この時期は晴天の日中であればポリタンクの水温を33℃程度に保つことは、そう難しくない。
屋外でも十分だし、ビニールハウス内に入れておいても良い。
ただ、夜間も含めて一週間、一定の温度を維持しようとすると難しいため、熱帯魚水槽用のヒーターも購入し使用した。
(①の方法はペットボトルフォルダーで包んで一日置けばよいため、この装置は不要だ)

毎日朝晩、温度を注意深く見守り、一週間かけて完成したえひめAIである。
原液で15リットルできたので、いくつものペットボトルに小分けして保存した。
利用の都度、水で希釈して使用する。
かなり使い甲斐がありそうだ。
出来上がったえひめAIの原液の一部
例えれば、甘酒のような色・匂いの液体
ただし舐めると少し酸っぱい
完成するとph3.5程度になる
☆★☆★
原料からして当たり前であるが、発酵の最中は酒が発酵するときのような、なんともいえない良い香りである。
ドブロクは作ったことはないが、きっとこのような感じの香りではないかと思う。
出来上がった液体は酸性であるため、舐めると確かにやや酸っぱい。

出来上がったこのスーパー発酵液:えひめAIを、野菜の肥料として、あるいは葉に噴霧して、どんどん使用してみたいと考えている。
トマト、キュウリ、ナス、ニンジン、ホウレン草・・・。
いま、頭の中をグルグルといろいろな野菜が回っている。
今後、結果については逐次報告したいと思う。
また楽しみがひとつ増えた。

興味のある方は、ぜひ一度作ってみて、試してみてはいかがだろうか。
材料はスーパーですべて揃うものだし、それぞれが安い。材料の使用残は食べたら良い。
②の方法では使う器も500mlのペットボトル1つだ。
それに1日~2日で出来る。
おそらく失敗はないはずだ。

     ☆★☆★
食の安全のためにも、農家自身の体のためにも、出来るだけ使わずに済ませたい農薬である。
自然界に広く存在する微生物や発酵という不思議なメカニズム。
その仕組みやら効能には、まだまだ分からない部分が多いらしい。
それらが持つチカラを引き出すことで、農薬が少しでも減らせるのならばこれ以上のものは無い。

自然界には不思議なところがまだまだある。
奥が深いと感じさせられた、今回のえひめAIである。

2011年5月21日土曜日

いずれがアヤメかカキツバタ

当ファームの近くにため池があります。
(ここではあえてため池とします。これが沼なのか池なのか、にはヤヤコシイので触れないでおきます。wikipediaでも池・沼・湖に明確な定義は無いとしています。ただ一般には水深が5m以内の水域が沼だとか)
昔からある農業用水の貯水場で、周囲はおよそ200mほど。
上流にある田んぼから流入する水と、山から染み出るわずかな水が水源です。
水深も1m~1.5mほど。流入口付近は堆積土砂による浅瀬・湿地になっています。
このため池にはいろいろな動植物が生息しています。

かつては、『ブラックバス』が何者かによって放たれて繁殖し、生態系はすっかり変わってしまった時期もありました。
数年前に水を抜いて干し上げ、退治。
その後は(未確認ですが)生息していないだろうと思います。

この時期は、ウシガエルの大きな鳴き声が響いています。
ウシガエルの大きなオタマジャクシも数多く見かけます。
昨日は、カイツブリだと思われる潜水する鳥も確認しました。
シラサギはもちろんのこと、アオサギも時々姿を見せます。

周囲にはショウブが自生しています。
先だっても端午の節句の時には、菖蒲湯にするためでしょう、何人もの人がショウブの葉を採りに入り込んでいました。

いまちょうど花盛りの黄色い花があります。
どうやらアヤメ科の『キショウブ』(黄菖蒲)のようです。
土手の周りに群生しています。根の部分は水の中です

3つの花びらが開きます


かなり以前から目にしている、ごく当たり前に咲いている花のため、誰も正式名称にはあまり興味が無かった様子。
ある人はアヤメだと思い、ある人はショウブだと思い、またある人はカキツバタのようだといい、詳細は分からずじまい。
ずっと「ほら、あそこに咲いている黄色いアヤメみたいな花」でお互い通じてしまってきていますから。
名を知ったところで、生活になんら変わりは無いので仕方ありません。

今回いい機会なので、特徴を元にしてネットで調べたところ、(おそらくではありますが)『キショウブ』であると判明した次第です。

似たような花の、アヤメ、ショウブ、カキツバタは、見分け方があるようですね。
いずれがアヤメでもカキツバタでも良いのですが、こうやって花ひとつの名前を知ることで、また自然が身近なものに感じられます。

この深い緑の森が雨水を溜め込んでゆきます
そして、ゆっくりゆっくり染み出し、動植物を育んでいます
(ため池上流の里山の森 2011/5/17撮影)

2011年5月20日金曜日

キノコ栽培に挑戦している

当ファームでは、いまキノコ栽培を試行している。
挑戦しているのはシイタケとキクラゲである。

裏山の整備を行うに伴い、キノコ原木栽培に適した手頃な太さの広葉樹材木を大量に伐採した。
この冬、昨年12月から1月のことである。

降った雪がまだ残る整備途中の裏山(2011/1)
長い間手を入れていないため、適度な太さのクヌギやコナラがある
 紅葉が終わり芽吹く前までの、いわば木が休眠している時期に伐採し、枝を付けたまま、そのまましばらく乾燥させた。
2月に入り、これらの木の枝を落とし、原木としての長さに切り揃え(この作業を玉切りと呼ぶ)、電動ドリルで穴をあけ、菌(種駒という)を植えた。

電動ドリルの刃は、椎茸の駒種用のものが売られている
一つ一つの穴開けは楽ではあるが、さすがに大量・長時間作業すると手が痛い

シイタケの菌が付いた駒種
駒種は円錐の先を切った形の木で出来ている
菌を蔓延させているためため、しっとりとした菌で真っ白である

これはキクラゲの駒種
駒種の形・大きさは同じであるが、シイタケと違って白い菌が付いていない
ややベトベトしている感じである
トンカチで穴に打ち込む
今回は、ノウハウの習得を目的としたため、栽培も容易であるというシイタケの『森290号』なる品種 と、キクラゲの『アラゲキクラゲ』の2種を選んだ。

その後は5月中旬まで、シイタケ菌を活着させるための『仮伏せ』作業を行った。
種駒を打ち込んだ木を横積みにし藁をかぶせ、散水してブルーシートで覆い菌の定着を進めさせる作業である。
仮伏せ作業
横積みにしたホダ木に藁を被せ、たっぷり水を撒く
ブルーシートで覆って3ヶ月ほど置く

4月中旬のシイタケのホダ木の様子
白く菌がいい感じで広がってきている
平均気温が上がってきた先日、この仮伏せの原木(ホダ木と呼ぶ)を、『本伏せ』する作業を行った。仮伏せで活着させた菌を、ホダ木の中に蔓延させる段階である。シート内に寝かせていたホダ木を外に出し、立てて並べる。

裏山にある杉林の仄暗い場所に置くのが理想ではあろうが、敷地横に専用のシイタケハウスを作って並べてみた。
W2m×D4m×H2mのパイプ小屋で、約100本のホダ木を並べられる。
雨水が入り、風通しよく、日光が遮られるように、周囲には遮光ネットとヨシズを廻らせた。

シイタケ小屋内部

シイタケは、(上手くいけば)来年の秋ころに発生開始する予定である。
キクラゲは、(上手くいけば)早ければ今年の7月から発生するようだ。
アラゲキクラゲのホダ木
シイタケとは違って、木の切断面周囲に瘤のような盛り上がりが出来ている
菌が活着して白く広がってきているようだ

シイタケのホダ木
種駒を植えつけた場所から周囲に菌が白い縞模様に広がっている
シイタケ栽培に関するHPなどには、菌を植える原木の含水率は何%程度が良い、などと書いてあるが、そんな計測機材もないため、今回は木を伐採したあと玉切り・駒打ちする時期を2回(3週間後と6週間後)に分けて、テストしている。
原木の種類も、ヤマザクラ・クリ・シイなど可能といわれている樹木を数種用意してみた(・・・ブナやクヌギが最適なのは分かっているが、それらばかりが生えているわけではなく、伐採樹木の有効活用のためである。シイタケ専門業になるつもりはない)。
これらの違いがどれくらい発生量に違いをもたらすか、追跡する予定である。
今年末には、さらに里山整備を進め、原木の本数を増やす計画でいる。

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この5ヶ月余りを振返り、文章と写真にするとたったこれだけのことだが、、それぞれの段階の作業は大変な労働であり、考えながら行ってきた作業である。
木を倒すということのリスク。ナタで枝を打つ作業のコツ。小木と謂えども運び出す木がどれほど重たいか。山道を何度も上り下りするハードさ・・など。
体験してみて初めて得られる知識は多い。
文章を読んで頭で理解してきた知識が、より確実になった瞬間である。
実際の体験で裏打ちされた知識は尊い。

いつも思うことであるが、いまの世の中、クリックしただけで多様な情報を得て、そのことでまるで全体が分かったかのようなつもりになっている(勘違いをしている)人が多すぎるのではないか。
原体験がまったく無いか、あっても希薄であるにもかかわらず、能書きを語る輩である。
薄っぺらい裏付けのない理論を振りかざしているだけのようにさえ思える。
バーチャルな世界が、あたかもリアルなものものと信じ込もうとしている。

たしかに、現代社会においては机上だけでクローズする知的労働は、経済活動の生産価値=価額としては高いかもしれない。
それに対して、どうしても実際に自然を相手する第一次産業、いわゆる農業・林業・漁業はそれ自体の生産価値は相対的には低いといわざるを得ない。
しかしながら、こと今回の東日本大震災のような非常事態が起こって明らかになったように、一番必要なこと・試されることは、どんな環境であっても生きてゆく底力でありノウハウである。
逆境にあっても地に足をつけてしっかりと生き抜く魂である。
他人に文句や愚痴は決して言わない。
農林漁業の、地道ではあるが確かな活動にはそれらにつながるものがある。
人間として大切な根源的な魂、強い精神力が、このような労働の対価として磨かれてゆくのだと思う。

他の業がもつそれぞれの意義も認めつつ、この業に従事するものとして、もっと謙虚でありたいと思う。
何しろ『自然』が相手である。人間などは所詮ちっぽけな存在でしかなく、その恩恵で生かされているだけであるから。
これらの、たかがキノコであるが、不思議な自然の摂理が作り出す。自然しか作り出せない。
科学・化学の力でも、キノコ菌もシイタケも作りだせないのである。

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難しい話はさておき、森の恵みを存分に堪能できる日が早く来て欲しいと切に願っている。
その際には、ぜひとも当ファーム友の会メンバーの方々をお呼びし、シイタケパーティーなどしたいものだ。

正真正銘の日本国内産キクラゲをタップリ入れた豚骨ラーメンなど、食してみたいではないか。
その辺に出回っている中国産乾燥キクラゲなどではない。
採れたてキクラゲのコリコリした食感の虜になるに違いない。

シイタケは、採れたて大振り肉厚のものにピザ用チーズを乗せ炭火で網焼きする。
醤油とマヨネーズをつけて、丸ごと頬張る。大胆に食してみたいではないか。
シイタケの香ばしい匂いが口の中に充満するはずだ。

きっと酒も進むに違いない。
そして会話も弾むに違いない。
誰しも美味いものを食すると笑顔になるものだ。幸せを感じるものだ。

われわれはそんな幸せに直接的に貢献できるこの仕事を誇りに思っている。
自然に感謝しつつ祈りつつ。

酒肴としても最高であろう
(当画像はcookpadより)


2011年5月19日木曜日

A place of my favorite view

水郡線の沿線住民として、汽車は生活に密接に関わっていて、どうしても切り離せません。
大変な愛着を感じています。
かつては通学の手段として。いまは時計替わりとして。
もう一日の生活のサイクル・リズムが汽車の運行をベースに成り立っているようなものです。

朝一番の汽車は午前5時38分の上り水戸行き。
布団の中で通り過ぎる汽車の音を聞き、朝を感じます。
最終の汽車は午後11時08分の下り常陸大子行き。
最終が出るとそろそろ今日も終わり。
駅のプラットホームの灯りも消され、一帯が漆黒の闇に包まれます。

水郡線は下りの汽車に乗ると、常陸大宮駅を過ぎ玉川村駅に近づく辺りから趣が変わり、
急に山が迫ってきます。つまりは中山間地域に入ります。
カーブも増えてきます。線路の起伏も程々にあります。

もっと北に行った久慈川沿いほどの人気撮影ポイントはありませんが、それでも列車の写真撮影ポイントがあるようです。
たとえば玉川村駅から次の野上原駅に向かう途中、右手にゴルフ場を見ながら右に回りこむところ(地名で言うと照田付近)。
どうやら、玉川村駅-野上原駅間の『大カーブ』、あるいは『Sカーブ』として、撮り鉄の間ではちょっとした人気ポイントのようです。
キーワードを『玉川村駅 野上原駅 カーブ』と入れてネットで画像検索すると、この場所で撮影された各種画像約300がhitします(yahooで検索した結果です。関係ない画像も多いです)。

この場所も確かに良いのですが、むしろこちらがわたくしのお気に入り。
玉川村駅から北に300mほどの場所です。

北に向かうと、遠くに朝房山を望み、田んぼ・畑が広がるいかにも里山という風景の中、真っ直ぐ正面から緩やかな傾斜を上って進んで来る列車を眺めることが出来ます。
写真手前の築堤部分を過ぎると(この撮影場所で)カーブして一気に玉川村駅の構内に進んでゆきます。

正面に小さく汽車が見え始めました
左にうっすらと霞んで見える山が朝房山です
送電線の鉄塔が建つ前は、もっと眺めがよかったのですが・・
 
正面から緩やかな勾配を汽車が上って徐々に近づいてきます

築堤部分に入ります

撮影はもう少し右側から・やや離れて、が良かったですね

築堤を過ぎるとカーブします

踏み切りが近いため、ここで警笛を鳴らしたりすることもあります

汽車が通り過ぎた後には、心地よい風が吹き抜けます。
そして、いつもの広い空と、ゆったりとした長閑な風景が広がります。


2011年5月18日水曜日

近田のかはづ 天に聞ゆる

この里で、この時期、毎晩、夜通し行われている蛙(かはづ=カエル)の大合唱です。
ちょうど水郡線の下りの汽車が通りました。一瞬のトーンダウンの後で、再び大合唱。
実際にこの場所でこの大合唱を聞くと、凄いです。
いろいろな種類の鳴き声がステレオで聞こえてきます。
聴き慣れた我々にとっては、喧しい騒音でしかありません。
でも、豊かな自然があってこその素晴らしいコーラスだと思います。



斉藤茂吉の詠んだ有名な短歌 
  『 死に近き 母に添寝の しんしんと 遠田のかはづ 天に聞ゆる 』
も、きっとこのような夜の情景だったのでしょう。
ちなみに、茂吉の母である守谷いくが脳溢血で亡くなったのが大正2年5月23日だそうです。
山形県上山の5月23日であれば、北関東では時期的には少し早い、ちょうど今ぐらいではないでしょうか。

ただ茂吉の聞いたのは『遠田』の蛙の声でしたが、我が家の場合は聞こえるのは直ぐ近くの田んぼです。音量もずっと大ですね、きっと。

☆ツバメの営巣(12日目)
特に変わりなく、相変わらず出入りを繰り返しています。
巣も完成したようですので、きっと産卵も近いのでしょう。
しばらくは、あまり巣に近寄らず、そっとしておきます。不必要な刺激しないことにします。

2011年5月17日火曜日

蜜蜂の巣箱設置(その4)

今年3月8日に蜜蜂の巣箱を設置した。
はや2ヶ月過ぎたが、まだ巣箱に入った形跡は残念ながら、ない。

4月に購入してあった、ニホンミツバチが好む金陵辺という蘭の鉢植えが、いよいよ開花した。
さっそく巣箱の近くに設置することにした。

どうやらニホンミツバチは、この金陵辺の花に団子状態の集団で固まるらしい。
すると花がミツバチの発する熱により直ぐに駄目になる(・・・・ニホンミツバチが集団で固まると大変な熱を発するようだ。天敵のススメバチが襲ってきたときは集団で取り囲み彼らの熱で殺してしまうという)ので、花の周りには網をかけておいたほうが良い、とのアドバイスがさるHPに記してあったのを思い出した。
網を準備するためにウロウロしていた短時間のうちに、さっそくミツバチが飛んできて纏わり付いた。
どんな誘引フェロモンが出されているのか知らないが、その効果は絶大であるようだ。


巣箱近くに設置した。
設置したとたんに、ブンブンと羽音が聞こえてきて花の周りを周回し始めた。

しばらく様子を見ることにしよう。
またひとつ楽しみが増えた。
巣箱の前の梅も実が大きくなった
(参考)定点観測の図
3月9日撮影
4月13日撮影

☆ツバメの営巣(11日目)
巣作りを放棄したのかと心配したが、またツバメが戻ってきた。
どうやら様子を伺っていたようだ。
最終の工程らしき泥塗りを盛んにしている。出入りも頻繁だ。
よかった、安心した。

次なる関心事は産卵の時期だ。しばらく目が離せない。

立派なお椀型になった