2016年3月30日水曜日

ヤマドジョウの卵

谷津の奥の奥に、山から染み出てくるわずかな水が溜まる湿地がある。深さは無いが常に一定の水量は保たれている(→つまりジメジメしている)。大きな流れになることが無い水溜まりだ。場所が場所だけに、落ち葉が底にたくさん沈んでいる。人も滅多に入らないため、静寂で清らかな環境といえる。
この湿地に我々がヤマドジョウと呼んできた生き物が生息している。正式にはトウキョウサンショウウオと云うらしいが。

今の時期に、水中に卵のうに包まれた卵を確認できる。
一般的なカエルの卵のようなひも状ではなく、連なったウィンナーソーセージのような形で、三日月形に曲がっている。太さは太い部分で親指ほど。

親の姿を見かけることはほとんどないが、卵だけは毎年この水たまりを含めた数カ所で確認できる。我が家近くの谷津には昔からいて珍しくはないのだが、他の谷津に生息しているのかどうかは分からない。

皮肉なことだが、谷津田の耕作放棄の田んぼが増え、周囲の山も荒れ放題となることで(→表現を変えれば、かつての手入れが行き届いた里山が荒廃することで)、このような絶滅危惧種にとっては住みよい環境が増えている。ちょっとしたビオトープができつつある。

2016年3月27日日曜日

ポポーの芽

毎年、たくさんの実を付け、その特徴ある味覚を多くの方々に楽しんでいただいているポポー。
夏にはホオノキのような、20cmもあるような大きな葉っぱを付ける樹だが、その葉芽は驚くほど小さくカワイイ。ほんの5㎜~10㎜程度。チョコレート粉末をまぶした小さなお菓子のよう。表面は小さな毛でポワポワしている。
ポポーの芽
この茶色の皮が破れて葉っぱが出てくるのだが、遅い霜に当たるといっぺんに新葉はダメになる。
たぶんそうなるとその年の収穫にも影響があるのではないかとおもう。
さて、今年のポポーはどうだろうか。

東京ではソメイヨシノが開花したそうだが、当地ではまだ先だ。ソメイヨシノより少しだけ早く咲き、ピンクが濃い『陽光桜』がやっと蕾が膨らんで色が見えてきた。開花はあと数日先になるのだろう。
陽光桜
あと半月もすればこの辺りはいっぺんに色とりどりの花畑になる。

2016年3月25日金曜日

旧玉川小学校の木造校舎写真

在りし日の玉川小学校の木造校舎だ。
ある方が撮影していたものだが、懐かしさのあまり再撮影させてもらった。きっと運動会か何かの時の撮影だろう。

小生が在校していた頃とは花壇の様子が多少違うものの、正面の姿はそのままま。
あの頃は何も特に感ずるところがなかったものだが、学校名が変わり(玉川小学校 → 大宮北小学校)、校舎姿が変わってしまった現在、このような画像を見ると無性に懐かしくなる。きっと同じような感慨にふける御仁も多かろう。
いまにもオルガンの伴奏で校歌が聞こえてきそうではないか。

 ♪その名もゆかし 玉川の ~

玉川小学校 校歌
※ 恥ずかしながら、歌っていた当時は『その名もゆかし』や『父祖のみ教え』や『朝夕べに』は、まったく意味不明であった。『ゆかし』???『ふそのみおしえ』???  『あしたゆうべ・・・』???   いま改めて歌詞を見てみると、巧みに地元の自然・歴史を取り込みつつ、子供らが目指すべき崇高な姿を示した内容で、七五調の旋律の素晴らしい校歌であった。老若男女が集まって出身小学校の校歌を歌う市のイベント『うたーべ』でも唱われているはずだ。

玉川村駅舎もそうだったが、昔の木造建築物には古き良き時代の独特の臭いがあった。
大子町にある旧『上岡小学校』の木造校舎ほど趣こそ無いにしても、玉小卒業生としてはいつまでも残してほしかった建物だ。

ついでにこの写真もアップしておこう。
何でもない校庭の写真だ。左側の石碑(記念碑)はそのままだが、このバックネットも運動具倉庫も、桜の老木も今はない。


(玉小 メモ)  開校して143年経つのだった

明治6年   東野小学校 開校
明治17年  第二番区東野小学校と校名改称
明治20年  東野・八田・照田・西塩子・小野の連合小学校となる
明治21年  新校舎建築なる(現建物の北側の畑の場所)
明治22年  玉川尋常小学校となる。若林に分教場を設置
明治23年  小学校令改正により玉川第一尋常小学校となる。
        分教場独立によりふたたび玉川尋常小学校となる
昭和13年  現在地に木造校舎新築落成
平成22年  玉川小と塩田小が統合して大宮北小となる

もっと古い玉川小学校の木造校舎をアッブしたい。昭和12年10月21日の上棟式の写真だ。紋付き袴姿の難しい顔のオジサンたちに交じって、キリッとした女教師と思しき姿もある。
掲載されている玉小100年史によれば、玉川村は財政的に苦しかった村だったので新校舎建設に当たっては相当苦労したとある。校庭の東端に立つ石碑(記念碑)はそのときに村内有力者から寄付金を募り、寄付してくれた人の名を刻んでいる。それぐらい教育にかける熱い思いが詰まった校舎なのだった。
玉川小学校100周年記念誌から

2016年3月20日日曜日

一面の花畑


今日目にした素晴らしい眺め。
ピンクの花が咲き揃った、レンゲ畑と見紛うばかりの風景だ。
実はこの花は『ホトケノザ』。これだけ揃うと圧巻。
東野・法専寺のすぐ東側の畑にて。(写真右奥が法専寺)

法専寺のご本尊(阿弥陀如来立像)
 ※春の七草に挙げられている『ホトケノザ』は黄色い花を付ける『コオニタビラコ(子鬼田平子)』のことであり、上の写真のピンク花ではない。実に紛らわしい。

2016年3月19日土曜日

3分間の癒し映像

今日の我が家のニホンミツバチの様子をYoutubeにアップしてみた。

花の種類も数もぐっと増えて、ミツバチたちの動きは激しい。

何の変哲もないミツバチたちの出入りの姿だが、見ているだけでココロが休まる。
最高の癒しの時間。時を忘れる。犬や猫とは違った愛らしさ。
嗚呼、なんという至福のひと時であることか。
(ミツバチを飼い始めると、だれでもきっとこの心地よさが理解できる)

         3分間の癒し  Youtube

2016年3月16日水曜日

みつばち健康科学研究所 

蜂蜜業界の最大手・山田養蜂場は研究施設『みつばち健康科学研究所』を持ち、大学や企業ともタイアップしてはちみつの医学的研究を続けている。
そこのHPでは、いままでの研究で積みあがった成果を多数紹介している。読んでいると『へぇ~』とか『ほぉ~』ばかりだ。(一度ご覧になると良い。美味しいだけのはちみつではなくなること請け合いだ)
はちみつが体に良いとされる科学的知見をこのように説明されると(メカニズム的な部分は到底理解しえないが、結論としての良さがわかると)、はちみつを提供している立場としてはとても嬉しくなる。

2013年8月のレポートだが『蜂蜜による傷の治癒メカニズムが明らかに』という内容は、専門用語満載だが結論として傷口に塗ると治癒効果は高いということが書いてある。
この事実・結論がわかれば小生のような一市民としては満足。
根拠の怪しいウワサ話・迷信的な話や、単なる個人的感想、売りたいがためのコマーシャルフレーズも、このように科学的根拠が明示されれば信じるに足る正しい情報へと変わり、安心する。

このような研究機関からの数多くの発表資料を見ると、はちみつの医学的素晴らしさを真摯に研究されている方々が多いことに驚く。不思議で限りない可能性を秘めた琥珀色の蜜に魅了されてるのだろう。わが身も、だが。


   オリジナルの文書  →  これ 

2016年3月14日月曜日

内田義信さん

内田義信さんをご存知だろうか。
小瀬の人で常陸大宮市のHPでも紹介されている(p.28)人なのだが、意外と知らない人が多い。ちょっと寂しい。
3月14日(旧暦)は内田義信さんの命日。訳あって自ら命を絶ったのだが、その死は人々にいたく感動を与え、深く心に刻まれた。彼のお墓とされる場所には立派な石碑が建てられている。傍らにはヤマザクラの大木があり、季節には美しい風景となる。
                                           
内田さんの正式な名前は『内田弾正左衛門義信』(うちだだんじょうざえもんよしのぶ)という。なんといかめしい前時代的な名前だろうか。それもそのはず、天文9年に亡くなっている大昔のお武家様だ。西暦でいうと1540年なのでいまから574年前である。内田弾正さんは自刃(つまり切腹)して果てたとされる。

内田さんの話とは、おおよそ次のようなものだ(『佐竹読本』高橋茂著 による)。

時は1540年(天文9年)。いまの大宮小学校の場所にあった部垂城とそこの城主だった佐竹義元。太田にいる佐竹宗家の当主義篤は義元の実兄である。いろいろあって義元は義篤からかねてよりにらまれていた。
ある事件をきっかけに、謀反の企てありとして兄・義篤は部垂城を急襲した。不意を突かれた義元、果敢に応戦したが、いかんせん闘う態勢が整っておらず極めて劣勢である。
義元は、同族筋の盟友である小場城と小瀬城に急ぎ使者を送り、援軍の派遣を要請した。
知らせを受けた小場城では『援軍を送ることは、佐竹宗家に対する謀反となる』として援軍要請を黙殺。一方の小瀬城は『援軍を送れば宗家に弓引くことになるが、さりとて見殺しにするは盟友の信義に背く』として城主は迷いに迷った。その時、上席家老・内田弾正左衛門義信は『部垂城に対する援軍の事、臣に一任願いたい。我に考えあり』と言上した。
一任を受けた内田弾正は、我が子の義直を含む13騎を率いて部垂城を目指し急いだ。八田境の部垂逆川まで来たときに、はるか彼方の部垂城の方を望めば炎は天を焦がし落城疑いなしと見えた。内田弾正は従者に向かって『部垂城はもはや落城せり。我らの任務は今ここに終われり。汝ら速やかに城に帰えられよ。予は義のために自害せん』と告げた。しかし帰る従者は一人もなく全員が田子内原の丘に登り、従容として自刃して果てた。その場所がいまの弾正塚であるという。
ちなみに義元は討たれて死亡。部垂城も落城した。
                                           
小瀬城主としては援軍を送ること=宗家に反逆することになってしまうところだったが、内田弾正の自刃という形によりお咎め無く決着を付けられた。盟友・義元への義も果たした。内田彈正は家臣としての大義に殉じた訳だ。
(→ 急襲された義元から使者が大宮町内から小瀬まで走り、小瀬城内の軍議を経て、内田弾正が支度を整え八田坂までくるまでには相当の時間が経過している。すでに戦の決着はついていたはずだ。内田弾正はそのあたりことは承知で、当初から自刃する覚悟で出陣したのであろう。小瀬一族存続のために)

現代のわれわれの感覚をもってしては、義を果たすための14人の自刃の意義は到底理解することはできない。内田弾正の自刃はまだわかるとしても、従者の13人の死の覚悟は理解できない。それくらい、戦国時代における宗家と一族諸家との主従関係は厳格で、当時としては当たり前の主君に対する臣下の義だったのだろう。仕えるということは主君のためにいつでも命を投げ出す覚悟であるということ。それくらい義というのは大切にされた重みのあるものだったのである。
『屍は田子内原の草苔に朽ちぬとも義は高々と万天に輝けり』と弾正塚由来記にあるそうだ。
ただし、この内田弾正の話、史実であるか断定できないとされていることだけは記しておく。
                                           
旧暦3月14日は新暦4月20日にあたり(旧暦→新暦変換プログラム)、まさに当地ではヤマザクラが葉桜に変わりつつある時分である。
弾正塚の石碑は地元の有志の手で昭和26年に建てられたもの。脇にはヤマザクラの大木。最近のことだが、塚の周辺の藪が大規模に伐採され大変キレイになった。
ヤマザクラのキレイナ時期にでも是非お立ち寄りを。場所はここ
泉下の内田弾正ら14人もきっと喜ぶに違いない。

ちなみに義元の家臣たちは主君亡き後は、小場城の衆騎(よりき)として預けられ、部垂衆(へたれしゅう)と呼ばれた。佐竹氏の秋田国替えに伴い城主の小場義成とともに秋田に移ったのだが、彼ら部垂衆がまとまって住んだ場所が大館市の部垂町である。ここには義元を神として祀る神社もある。これが縁となって常陸大宮市と大館市は友好都市協定を結んだ(2015/11)。

2016年3月10日木曜日

樹皮ビジネス ~ 分蜂捕獲板用スギ樹皮

まもなくミツバチの分蜂シーズンがやってくる。
ニホンミツバチ愛蜂家のみなさんは、(小生と同じように)捕獲準備に余念がなく、そわそわしている時期であろうと推察する。愛蜂家にとっては、元の巣から巣別れした群れを捕獲するのも楽しみの一つだ。
ミツバチは4月末~6月頃に巣のハチの数が一気に増える。するとあたらしい巣を求めておよそ半分の数のハチが女王蜂とともに巣を離れる。これが分蜂と呼ばれる行動だ。
昨年、梅の木にできた蜂球
だが、巣を飛び出したものの新たな巣を作るに適当な場所はすぐには場所は見つからない。なので適当な場所が見つかるまでの少しの時間、樹木の幹に留まり、塊り=蜂球を作る。上の写真のような状態になるのである。愛蜂家はこの塊をごっそりと網で掬いとって捕獲し、空の巣箱に放り込みそこで巣を作らせるわけだ。
この蜂球を人為的に誘導させようとする方法がある。元の巣の近くに捕獲板などと呼ばれる板を設置して、そこに分蜂群を誘導して蜂球を作らせようとするものだ。管理下に置いた板に塊りを作ってくれれば捕獲しやすい。
この捕獲板ひとつとっても、愛蜂家によって作り方も材質もバラバラである。単にベニヤ板の人もいるし、竹を割って並べて板に打ち付ける人もいるし、スギの樹皮やヤマザクラの樹皮を張り付ける人などなど・・・・。果たしてどれが一番良いのか、はたまたどれでも効果は大差ないのか、実際のところ分からない。真実はミツバチに聞いてみないと分からぬことだ。
であるがゆえに、あれこれと試行錯誤して、自分なりの経験積み上げながら良かれと思う方法を実践してゆくことになる。その際にインターネットから他人の試行錯誤情報を手に入れられ、参考にできる。自分一人では試行チャンスが少ない故に、他人様の情報は貴重で大変役立つ。
このような情報がいとも簡単に入手できるのであるから、われわれ良い時代に生きているものだ。
                                           
以前、当ブログで愛蜂家のために『スギ・ヒノキ・ヤマザクラの樹皮 販売します』と記したところ、数は少ないものの毎年何件かのご注文があり、発送してきた。
実際のところ捕獲に役立ったかどうかは分からぬが、どうであれ、依頼主のこだわりに少しは役立ったことだろうと思う。これもインターネットのお陰といえる。

さて、今年はやや趣が異なるヤマザクラの樹皮のお問い合わせを戴いた。
ある特殊な木工品を製作している工房からの問い合わせで、製作している製品の一部にヤマザクラの樹皮を利用するので、材料の安定調達のため仕入れ先を増やしたいとのご希望。サンプルをお送りして品質を確認してもらったところ、ひとまず合格。
必ずしも希望時期に希望の量は確保できないことをご了解いただいて、細々とだがお取引することと相成った。これも立派な『樹皮ビジネス』で、田舎ならではのビジネスモデルあろう。
きちんとした形に皮を剥ぐのもなかなか難しい
四国・徳島県の山奥では、おばあちゃんが始めた『葉っぱビジネス』が成功している。ニーズにマッチした商品をタイムリーに提供できれば、どんな山奥だって高齢者だってビジネスモデルを確立できるという素晴らしい事例である。最初は誰も商売が成り立つとは思わず、否定的だったと聞く。
今回の取引事例も、ネット活用がビジネスマッチングを可能にするので、続ける意味がある(・・・ただ、儲けを目的とした商売として=生業としては難しいとは思う。あまりにマーケット規模が小さすぎる)と考える。あとはどう発展・展開させるかが知恵の出しどころだろう。
なにしろ、そこにあるものに価値を見出して利用するだけで、大業なことはしなくてもよい。設備投資もまったく不要で気が楽だ。

このような話をすると、やたらと否定的な反応をする人がいる。『そんなの売れんのげぇ?   うまぐいがめって~・・』っと。確かにそうだろう。初めてのことってのは全てそんなものではないのか。試行錯誤だろう。何も困ったことが起きずに上手くいくことのほうが珍しいはずだ。だけとれども、やっている己自身のこの楽しさはなんとも言い難いのだから良いのである。
このあたりを説明してもなかなか理解してもらえないだろうから、何を言われても相槌を打っているだけだ。ちょっと寂しい人たちだなと密かに思っている。
                                           
閑話休題。
ということで、まだまだスギの樹皮は豊富に在庫もありご提供できるので、分蜂群捕獲用に使ってみたい方はご連絡・お問い合わせを。分蜂シーズンはまもなく始まってしまいます、お急ぎください。

1㎡相当分を1,000円で。(詳細は2014/12/31ブログ参照)
送料は実費ご負担ください。(送料の方が高くなる可能性が高いです。ご了解願います)

お問い合わせ・お申込み
 hitachi-satoyama-farm@live.jp   まで

2016年3月6日日曜日

玉川村駅近くにあった小山医院の話

今日も一日暖かかった。
このまま春本番に突入してしまい、桜でも咲いてしまうのではと思わぬでもない陽気である。
我が愛してやまないミツバチたちは、季節到来とばかりに実にあわただしく巣箱の離発着・出入りを繰り返している。なんとも嬉しくなる眺めだ。

本日は、3カ所・9台設置してまわり、ほとんど1日掛かった。
ここまでで、どうにか8割方設置し終わり、やっと着地が見えてきた。
このような暖かい日が続くといつどうなるか(いきなり分蜂は起こる)分からぬので、設置は早いにこしたことは無い。
                                           
きょう巣箱を設置した近所のSさん宅で、興味深い話を聞いた。
Sさんは(数年次下だが)ほぼ同年代で、同じ小学校に通った仲でもあり、昔の話は大体共有できるので、あれこれ昔話に花が咲いた。

玉川村駅にほど近いところに、かつて『小山医院』(おやまいいん)という小さな診療所があった。
医師一人だけの田舎の個人病院である(恐らく看護婦は奥さまが担当していた)。
小山医院の建物は如何にも個人医院という作りだった。屋根の形も正面入り口のガラス扉も、昭和の時代を色濃く映していたものだ。
まだまだこの辺りの人口も多かった時代であり、地域医療を担う施設として地元住民からは頼られ、また愛されていた存在だったのではないかと思う。
(余談だが、そこの小山先生は玉川小学校の校医でもあったので、小学校で集団予防接種を受ける際には注射は必ず彼であった。遠い昔の話で小山先生の記憶はそれぐらいしかない。容姿はおぼろげだが、やや小太りで禿げ頭だったような気がする)

小山医院の近所でもあったSさんが語るには、小山先生はミツバチを飼っていて医院の裏には巣箱がいくつも並んでいた、とのことだ。この話は初めて聞く内容でたいへん驚いた。このエリアでミツバチを飼っていた人がいたというのも驚きだし、医者である小山先生がというのも驚きであった。小生の通学路側からは巣箱は見えなかったのだが、Sさんの通う道からは医院の裏が見えたようだ。

小山先生がミツバチを飼っていたという行為は、単に個人の趣味というだけではない、もっと違う狙い・期待があったのではあるまいか。
ハチミツが秘める素晴らしい薬効を、小山先生が医師としての立場でどのように考えていたのかは知る由もないが、多分になにかしら気付いていたのではあるまいか。
いずれにしても実に興味深い話である。
あの先生も分蜂時期にソワソワしたり、突然逃げられてがっかりしたり、ハチミツにうっとりしたりしていたのだと思うと、実に可笑しい。
                                           
小山医院は地域人口減少による環境変化を迎える前に、突然閉院してしまった。昭和40年代半ばのことだ。何か特別な事情があったのであろう。これもまた知る由もない。