かくいうワタシもその一人である。
何度も秋田各地の佐竹関連の場所を訪問もしている。
佐竹氏に入れ込んでいるファンなのであるが、この分野に興味の無い人には到底理解してもらえないのが少々寂しい。
(以下、少々マニアックな内容となるが容赦願いたい。)
佐竹氏は、言わずと知れた常陸国の大名だ。
江戸時代の始めに出羽秋田に移封(国替え)させられたものの、茨城北部を拠点にして470年間も勢力を誇った、源氏の流れを汲む名門中の名門の大大名である。
佐竹氏が本拠地を置いたのが、常陸太田市の舞鶴城。
現在では目立った城郭遺構は残っておらず、太田小学校の敷地内に碑が建つ程度である。
城があった旧市街地が丘であり、周りが崖になっている要塞であったことと、何よりも江戸時代以前の中世の城であることとから、以降の城(大阪城や姫路城、江戸城など)によくある立派な整然とした石垣はこの城にはない。
通った高校が、この常陸太田市内の城跡近くにあったこともあって、この街中はかなりディープな場所まで歩き回って知っている。
町名にも、中城町、内堀町、馬場町など城下町としての名残がある。
先の地震で大鳥居が崩落したが、若宮八幡宮などは往時の面影を残す場所として気に入っている。
堀跡も随所に確認できるが、全く整備はされていないし、説明板も皆無だ。
一般の人がここを訪れても、城があったことさえ想像できず、ましてや当時のイメージを膨らませることなどは困難かもしれない。
たとえば小田原城のように立派に復元された建物としての城を見るのも、イメージとしてそれはそれで良いのであるが、この佐竹氏の本拠地舞鶴城跡のように建物など何もない場所から往時の隆盛を極めた姿を偲ぶのも、歴史ファンとしてはまた楽しいものである。
470年間もの長い間、佐竹氏はこの地で勢力を誇ったのではあるが、その間には内紛もあって、佐竹一族同士が近隣で対立しあう状態が続いたこともある。
代表的なものが、庶家(分家)の山入氏との対立であり約100年にわたった内紛である。
佐竹宗家(本家)に跡継ぎの男子がおらず、時の関東管領である上杉家から養子をとることになった時があった。これを良しとしない時の城主・山入与義(ともよし)が宗家に反旗を翻し、太田の宗家の城を占拠するといった事態にまでなった(1407年の山入一揆)。
山入氏は当時の室町幕府と直接つながり、その支援もあってかなりの勢力を維持していた一族である.
その山入氏の本拠地が、山入城である。
この山入城を訪ねた。
宗家の舞鶴城跡は遺構がほとんどが消滅してしまっているのに比べて、山入城は奥まった山間にある山城のため遺構の保存状態は極めて良好である。
そのためか、佐竹ファンとしては訪れておきたい城のひとつであり、ちょっとした聖地になっている(宗家は養子を取り系統には血筋の断絶があるのに対し、山入氏は純粋に一族の血筋が続いたため、佐竹ファンとしてはこちらに気持ちが傾くのかもしれない)。
常陸太田市の舞鶴城から北西に約8km。
今は合併で同じ常陸太田市になっているが旧水府村地区の国安にある。
山田川を眼下にした天然の要塞、その名も『要害山』一帯が城である。
要害山の麓に立つ案内板 |
九十九折の山道を1kmほど車で進む。
頂上の主郭は発掘調査して整備されているとはいえ、草ぼうぼうであるし、周囲は木々に覆われている。
こんな急峻な山道を徒歩で登るだけでも大変なことだ。
とても人が日常生活をまともに送れるとは思えない。
普段は、山腹の段郭あるいは山裾の一帯に居住していたのであろう。
(と思っているのだが、発掘調査ではこの山頂付近からも遺物が多数確認されているようだ)
この城は、山入氏が宗家に滅ぼされた1504年以降も、北部の脅威(福島の岩城氏や仙台の伊達氏など)に対する最前線の砦として存続した。
山頂からの眺めは、周囲の木々が邪魔であまり良くない。
ために、見晴らしの良い場所から眼下に広がる常陸太田方面の写真を撮影してみた。
間違いなく、この風景は600年前に山入与義が目にしたものと同じである。
戦国末期、この地には遥かに遠い京の室町幕府と直接繋がり、勢力を誇った一族がいて、何千人もの一族郎党がこの山を囲み生活し、歴史にその名を残した。
今はただ薮の中に佇む遺構群であるが、往時の武士(もののふ)たちのザワメキが聞こえてきそうである。
まさに『兵どもが夢の跡』である。
ここにはかつて彼らが生きた確かな痕跡が残されている。
必死に時代を生き抜いた彼らの、生身の人間としての息づかいが聞こえる。
怨嗟も、歓喜も、絶望もあったはずだ。
幾多の血がここに流れたはずだ。
彼らが眼にしたであろう同じ風景がいま眼前に広がる。
その場所に佇み、じっと眼を閉じて聞こえるはずのない彼らの悲喜交々の声に耳を傾ける。
このときに我が精神は、しばし時空を超えてかの時代にワープする。
このひと時が堪らないのである。
★★このような一連の行動は、一般の人にはとても理解できぬ怪しい挙動であろう。林の中をうろうろするかなり怪しい人物に見えるはずだ。でも立入り禁止区域にでも立ち入らない限り、温かい眼で見てほしい。お願いである。★★
一度訪れたいと思いつつなかなか果たせなかった山入城である。
やっとまたひとつ、登頂し遺構を自分の眼で確認できた山城が増えた。
実にササやかであるが、佐竹氏ファン・中世山城ファンとしては大変満足な1日であった。
500年以上経った今でも、この山城に吹き抜ける秋風は同じである。
秋の柔らかな光もまた同じである。
この案内板で下車し、林の中を歩く 山頂の城跡まで10分ほど |
ここからが、中世の山城探訪の醍醐味の場所だ。
(写真ではなかなかその雰囲気が表現できないが、急峻な山道の通路、掘込み、土盛りなどの遺構が次々に目の前に広がると堪らなく興奮してしまう)
頂上の主郭跡 20m四方程度の狭い平らな場所だ 奥には一段高い櫓台の跡がある |
山入城跡の説明板 |
こんな急峻な山道を徒歩で登るだけでも大変なことだ。
とても人が日常生活をまともに送れるとは思えない。
普段は、山腹の段郭あるいは山裾の一帯に居住していたのであろう。
(と思っているのだが、発掘調査ではこの山頂付近からも遺物が多数確認されているようだ)
この城は、山入氏が宗家に滅ぼされた1504年以降も、北部の脅威(福島の岩城氏や仙台の伊達氏など)に対する最前線の砦として存続した。
山頂からの眺めは、周囲の木々が邪魔であまり良くない。
ために、見晴らしの良い場所から眼下に広がる常陸太田方面の写真を撮影してみた。
間違いなく、この風景は600年前に山入与義が目にしたものと同じである。
車を降りた場所から常陸太田市内方向を眺める |
戦国末期、この地には遥かに遠い京の室町幕府と直接繋がり、勢力を誇った一族がいて、何千人もの一族郎党がこの山を囲み生活し、歴史にその名を残した。
今はただ薮の中に佇む遺構群であるが、往時の武士(もののふ)たちのザワメキが聞こえてきそうである。
まさに『兵どもが夢の跡』である。
ここにはかつて彼らが生きた確かな痕跡が残されている。
必死に時代を生き抜いた彼らの、生身の人間としての息づかいが聞こえる。
怨嗟も、歓喜も、絶望もあったはずだ。
幾多の血がここに流れたはずだ。
彼らが眼にしたであろう同じ風景がいま眼前に広がる。
その場所に佇み、じっと眼を閉じて聞こえるはずのない彼らの悲喜交々の声に耳を傾ける。
このときに我が精神は、しばし時空を超えてかの時代にワープする。
このひと時が堪らないのである。
★★このような一連の行動は、一般の人にはとても理解できぬ怪しい挙動であろう。林の中をうろうろするかなり怪しい人物に見えるはずだ。でも立入り禁止区域にでも立ち入らない限り、温かい眼で見てほしい。お願いである。★★
一度訪れたいと思いつつなかなか果たせなかった山入城である。
やっとまたひとつ、登頂し遺構を自分の眼で確認できた山城が増えた。
実にササやかであるが、佐竹氏ファン・中世山城ファンとしては大変満足な1日であった。
500年以上経った今でも、この山城に吹き抜ける秋風は同じである。
秋の柔らかな光もまた同じである。
山の中腹の段郭と思われる平坦部は柿や柚子が栽培されている 実にのんびりとして穏やかな風景が広がる |