2011年7月20日水曜日

『水戸黄門』雑感

テレビ時代劇『水戸黄門』が終わるという。
1969年(昭和44年)に放送開始された長寿番組であり、一時は視聴率43.7%を記録(1979年)した国民的な番組である。
時代劇ファンは一定数いるのだろうが、最近は視聴率が低迷しており、今年のシリーズ43部で打ち切りとなるとの発表がなされた。
テレビドラマは完全なるフィクションだが、日本各地を漫遊し悪を懲らしめる勧善懲悪の典型的パターンは、大いなるマンネリと言われながらも人気を博し続けた。
日本人の琴線に触れる何かがあったのだろう。
今日(7/20)は台風の風雨で外の仕事ができないので、徳川光圀=水戸黄門について、日頃思っていることを以下に記したい。
                             
徳川光圀=水戸黄門は、間違いなく茨城県=常陸国が生んだ著名人の一人であり、水戸の知名度向上の功労者である。
この番組なかりせば、おそらく『水戸』を『みと』と読めない人がもっと多いに違いない。
また、茨城県と栃木県と群馬県の相対的な位置関係や違いがよく判っていない地理音痴の人間(・・・おそらく西日本に多いであろう)に対して,あるいは水戸が茨城県の県庁所在地であることを知らない人(・・・おそらくこの類いの人は水戸の位置さえ知らない)に対しても、『水戸』の名だけは知らしめた功績は大きいと言わざるをえまい。
甚だマニアックな話であるが、光圀が始めた大日本史編纂を水戸藩が代々続けてきたことで、幕末には水戸藩が思想的なリーダーシップをとり、世論を牽引した。
尊王攘夷から開国・大政奉還・明治維新と繋がっていった歴史的政治の流れの元となったのが、実は水戸藩と水戸学なのである。
幕末当時は9代斉昭が水戸藩主であり、彼は幕末の日本を強烈に牽引した超有名人だった。
まさにカリスマ藩主、スーパースターだったのだ。
幕末から維新にかけて活躍した薩摩の島津も、土佐の山内も、長州の毛利も遠く及ばないほどだった。
このカリスマ藩主斉昭と水戸学のリーダー藤田東湖を慕う憂国の志士たちが全国から水戸に集い、熱く議論し世論をリードした。
斉昭は光圀などよりも遥かに全国区で有名人であったのだ。
これも余談だが、幕末に水戸藩内の対立さえ無ければ、多くの優秀な人材を失うことも無かったはずであり、その後の日本の形成に水戸藩は大きく関わっていったはずだ。
水戸の思想が時代を先取りし過ぎ、内容が先鋭的過ぎたため、藩内の対立で無益な血を流し人材を失い、時代の表舞台から降りることになってしまった。
倒幕派の長州藩は総理大臣を何人も輩出したが、水戸藩はそれ以上になっていたことだろう。
違った形の日本国が出来たかも知れない。
すべて『たら・れば』の話ではあるが。
                             
光圀は、ドラマでは全国を漫遊する元気爺さんだが、史実としては水戸藩主時代に参勤として江戸・水戸間を往復したことと、領国内の巡検をした以外には、世子時代に鎌倉遊歴が一度あるだけである。
まったくドラマのイメージとは違っている。
大日本史編纂のための資料収集に家臣を全国に派遣したことが、どうやら黄門漫遊記という形で江戸時代末に定着したようだ。
かように全国的なスターである水戸光圀であるが、個人的に特別な思い入れは全くと言っていい程、ない。
                             
彼が生きた時代・環境を冷静に考察すると、藩主としての光圀の苦悩が見えてくる。
(以下は、あくまで個人的感情に基づく私見である)
徳川家康の11男である徳川頼房が水戸に転封されたのは1609年。
天下は徳川の世に定まったとはいえ、まだ不安要素が各地にあった。
奥州仙台には伊達政宗が依然としてその強大な勢力を維持している。
茨城県北を中心に長い時代勢力を誇った佐竹氏を、1602年に秋田に転封させた。
とはいえ、佐竹の旧家臣たちの多くは在郷しており、影響力は依然として根強く残っていた時代だ。
家康が江戸の北の守りとして常陸国水戸に御三家の一つを置いたのは、そんな時代背景からである。
初代藩主・徳川頼房とは、常陸の人間にとってはむしろ突然異国から来て領主になった外様大名的な感じではなかったか。
現代の茨城県知事が替わったどころの騒ぎではなかったはずだ。
全く違う文化を持つ戦の勝者の殿様が入り込んできて、いきなり敗者に対して政治を執り行うのだ。
当時の佐竹氏は、関ヶ原で徳川に味方しなかったということで、ある種逆賊扱いである。
言ってみれば、太平洋戦争の敗戦後に進駐軍がやってきた感じ、というのが近いだろうか。
藩内のすべての民は、これからどんなふうに変わるのか固唾をのんで見守ったことだろう。
何しろ470年間も殿様といえば佐竹できたのだ。
民衆は信頼しきってきたのだ。
トップが替わる不安は大きかったに違いない。
光圀が2代藩主となったのは1661年だから佐竹氏の秋田転封から既に60年ほど経っている。
ではあるが、まだ佐竹氏の記憶は鮮明で、かの治世を懐かしむ人間も多かったであろうと思う。
また新領主徳川に対する不満を抱き続けている人間もいただろう。
光圀の心の中では、秋田転封について行かずに土着した佐竹旧家臣たちのクーデーター懸念は依然としてあり、安穏とはしていられなかったに違いない。
想像ではあるが、それぐらい佐竹一族・家臣団の結束は固く、精神的な結びつきが強かったのだろうと思う。
だから光圀は領国の治安維持に腐心し、人心掌握のためにとひたすら各地を巡検したのは当然であったのかもしれない。
隠居場所として常陸太田の地を選んだのも、幕府指示による奥州への警戒もあったであろうが、それ以上に佐竹氏本丸だった場所に元藩主が居住することで、在郷の佐竹遺臣に睨みをきかせ、水戸藩を安定させたいとの思惑があったに違いない。
また一方で光圀は宗教政策を強く押し進めている。
寺院の統廃合を強引に進め、藩内のかなりの数の寺が統廃合させられた。
一種の宗教弾圧に近い、宗門改めである。
わが常陸大宮市東野地区でも、かつて存在した真言宗系の2寺院がこのときに潰されている。
このようなことまでしなければ、佐竹の遺風が完全に消し去れないと考えたのであろう。
茨城北部に約470年の長きにわたり支配した佐竹の色・文化を消すのは容易でなかったということか。
                             
これは想像だが、県北部にいまも存在する旧家は佐竹時代からすでに土着していたはずであり、現代の今もなお徳川よりは佐竹を慕っているのではないかと思っている。
なにしろ佐竹470年の治世に対し、徳川はたかが260年である。
我が祖先も代々の百姓であり、佐竹氏の時代から県北のどこかに土着していたに違いない。
あるいは佐竹に仕えたの家臣の一族の流れを汲んでいるのかもしれない。
明確な歴史的資料も根拠もない。
ないが、佐竹氏が残した古文書(秋田県立図書館蔵の佐竹文書)の中に、我が姓が出ている箇所があることだけは自身で確認している。
我が先祖かどうか、関連は不明だ。
ただそれだけのことであるが、どこか徳川氏よりも佐竹氏を懐かしむ気持ちが強いのである。
そう、何を隠そう正真正銘の佐竹氏ファンなのである。
DNAのどこかに、遠い先祖の記憶があるからなのかもしれない。
先祖が代々守ってきた大地。
そして先祖から続く血。
これらに染み込んだ代々の念は、そう簡単に消せるものではない。

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