2011年5月26日木曜日

野菜無人販売所

東京に出たついでに、大都市近郊の農業の様子を視察した。

東京西部に位置し新宿・池袋のターミナルまで電車で30分圏内の、西東京市、清瀬市、東村山市、東久留米市(以上は東京都)、埼玉県新座市の5市を回ってみた。
いずれの地域も、都心近くに比べると緑も多く残っており、まだ多くの畑地も目にすることが出来る。
昭和50年代以降、急速に都市化が進み、農地が住宅に囲まれ、耕作面積も狭まってきているのだろう。
新しい大型マンション建設や、分譲住宅が数多く立てられている。
その隙間を縫うように(・・・・・本来は逆なのであるが)農地がある。
常陸大宮などに比べて、ずいぶんと窮屈そうな農業だな、というのが感想である。

当然、田舎ではありえないほど隣家との間隔が狭い家が多い。
テレビの音も、電話の話し声も、咳払いまで聞こえそうだ。
これだけでも疲れてしまいそうだ。やはりこの田舎暮らしが良い。

このような都市化が進んだ地域で農業を続けるには、周囲の住民との軋轢を避けねばならない厳しい現実もあるものと思われる。
俺たちのほうがずっと昔からここに居るんだ。お前たちのほうが、後に来て、勝手に近くに住み着いたくせに・・と言いたいだろう、きっと。
同情する。
この茨城の片田舎のように、騒音も、臭気も、作業時間も気兼ねなく作業できる場所にはない苦労が多々あるに違いない。

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中には、家庭菜園として農地を解放するという方向に活路を見出している農家もあるようだ。
綺麗に区割りし、水道設備も完備。必要なら農機具も貸し出す、農作業のアドバイスもする。
ほとんどお膳立した『ちよっこっとかじる農業』を体験できるサービス、とでもいうべきもの。
農家が新しく提供するサービス業としての一形態ではある。
こうした家庭菜園は、どこも契約者が満杯の状態と聞く。
都心のオフィスで働く人たちは、このような形であっても自然と触れ合う機会を渇望しているのであろう。
農業に関心が高いことは、食に対する高い関心につながる。
また自然に対する関心、環境に対する関心につながってゆくはずだ。
良いことである。
いろんな困難を乗り越えながら都市近郊で工夫しながら頑張っている農家を見ると、つい応援したくなる。

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そんな農家が頑張っているひとつの形として、『野菜無人販売所』というものがある。
常陸大宮市内では見かけることはまず無い。

農家が、市場や農協に出荷した余りで、自家消費してもなお余る分を、道路端の店舗、といっても簡素なものだが、に並べておくものである。
道路から庭に入る部分に店を出すケースが多いが、畑の片隅に立つ場合も多い。

いろいろな形がある。掘っ立て小屋から、しっかりした建物まで。ほとんどが簡素な造りである。
店の番など手間隙かけるほどのものではないので、当然に『無人』である。


西東京市
生垣をめぐらす大きな農家
庭先のテントで野菜を販売している
道路にはノボリと看板を立てて目を引く努力をしている


東久留米市
こちらは単に箱に大根を入れて置いてあるだけで無施設だ
50円と書いた紙が張られた簡単な料金箱があるだけ

東久留米市
確りとした造りの真新しい店舗
壁のホワイトボードには、並べてある野菜の品種名が書いてある
タケノコは100円~500円だったようだが売り切れていた

東久留米市
有り合わせの台を門の横に並べて、野菜だけでなく花も置いている
種類も豊富だ
『品数の代金はただしくお入れください』とお願いの札が掛かっている



東久留米市
見た限りでは一番コストが掛かっていそうな造りである
店の番をする人が立つスペースもある
幹線道路沿いであり、人気ある販売所のようだ

東久留米市
ビニールハウスの転用らしい
周囲には花を植えたり飾ったりして凝っている
主のセンスがうかがえる
各種野菜を、100円均一にしてあることが多い。
客は無人販売所の柱に取り付けてある『代金箱』に、品数に合わせた代金を投入して野菜を購入する。
仕組みとしてはいたってシンプルで、人の性善説に拠ったシステムである。

しかしながら、残念なことであるが、野菜が盗まれることも結構多いらしい。
売れたはずの代金に、遠く及ばないことがしばしばだと聞く。
何度か現代農業で特集された記事を見ても、同様なことが書いてあった記憶がある。
何処も同じらしい。
そのために人を立たせたり、監視装置を設置したりすることは、当然ながらコストの面で割に合わないので無理である。
従って、ある程度の盗まれることを前提としている、ということになる。

これらの無人販売所が続けられているということは、まずまずの回収もできているという見方もできる。
それとも、農家の諦め度合いが高いということだろうか。

しかし、である。
ことは正規に料金を払う人の比率の問題、いわんや農家の諦め度合いの問題ではない。
食べる野菜を盗まないといけないほど、生活に困窮しているひとが多いとは思えない。

盗んだ野菜を食べて、はたして美味しいのだろうか?
盗んだ野菜を家族に食べさせて、後ろめたくないのであろうか?
盗んだ野菜を家族に美味しいと言ってもらって、心底うれしいと思えるのだろうか?
盗む時に、この野菜を育てた農家の人の姿が、僅かでも頭をかすめないのだろうか?
盗んだ後に、良心の呵責はないのだろうか?

人は見ていなくても、神様はご覧になっているのだが。
万引きは一生のココロの傷、だと思うが。
自分の心だけは誤魔化せないと思うが。
所詮、このようなことをする人たちには届かない声なのか。虚しい現実なのか。

・・・・いろいろな無人野菜販売所を見ながら、こう思うことにした。
『一部の心無い人たちがいることは残念なことだ。でも、ちゃんと料金を払ってこの野菜を買ってくれ喜んでくれるひとがいる。その人たちのために続けているのだ』、と。

購入するお客さまと直接顔を合わすことはほとんど無いのだろうが、でも確かに消費者と農家がつながっている感じがする。
これらの農家も、きっとこのつながりだったり消費者の喜びがあるから、続けられているに違いない。
農家と消費者が、顔が見える関係ほどに近い。
これは素晴らしいことではないかと思っている。

スーパーに並ぶ野菜は、最近でこそ『○○県■■市の△△さんが栽培した』との情報が付くようにはなってきた。顔写真つきのものも増えた。
出荷する人も顔が出ることで、より責任を持って生産に当たっているはずだ。
消費者もその点を踏まえて購入している。

無人野菜販売所の場合には、さらに『この畑で・この農家の・あの人が作った野菜』が明確である。
より安心して買い求めることが出来るのではないか。

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冒険かも知れないが、この形を、この茨城の街で、いつか試したいと考えている。
東京近郊のように人口はないし、住民構成も異なるので、同じように行くはずはない。

ただ、人口に占める農家比率は高いが、それでも自分の家で食べる野菜をすべて栽培しているとは限らない。
非農家であっても、家庭菜園程度の野菜は作っている方が多いが、安定して採れたり、種類が十分だったりも無いはずだ。
だから、野菜はスーパーで購入しているほうが断然多いはずだ。
ニーズはあるだろう。まずはちょっと立ち寄ってみて、有れば買う。無かったらスーパーにいって買う、ということだ。
こちらには、非農家以上の種類と量の豊富さはある。知人と協働すればバリエーションが増えるだろう。
旬のものをタイムリーに、廉価に提供できるのではないかと思う。
並べる野菜の予定等を伝言板で告知しておくといいかも知れない。

確かに、スーパーほど量も品種も多く、安定しては並べられない。いつも確実にという約束は出来ない。
所詮、自家消費以上-市場出荷未満の野菜たちである。
ましてこのための専門農家でもない。
だからと言って、安易に妥協したり、甘えてしまうこともしたくはない。
どれだけ続けられるか、どれだけ満足いただけるかは分からない。
こういった『地産地消』の典型ともいえる『顔の見える野菜』を販売推進することで、この街の人の生活に、健康に役立つなら、続けたいと思う。信頼される売り場を作りたいと思う。農作業にも張り合いが出ることだろう。
収入の多寡はあまり問題ではない。
喜んでくれるひとがいるなら勇気百倍である。やる意味は十分にある。
頑張ってみたい。

それに、この大好きな街には、『盗んだ野菜を食べて美味しい』と感じる人や、『盗んだ野菜を家族に食べさせて後ろめたくない』人などは、いるはずがないと心から信じて疑わないから。

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