以前の駅舎は、地方路線でよく見られた一般的な形式のものであったが、やはり『国鉄』の匂いを漂わせた木造駅舎であった。
いつの間にか取り壊され、モダンな建物に変わった。
新しい建物は「関東の駅100選」に指定されている。
現在の玉川村駅舎 |
当時の駅舎写真が手元にあるのでご紹介したい。
白いカット部分があるのは被写体となった人物を削除した為である。ご容赦願いたい。
旧駅舎の雰囲気は感じ取っていただけるものと思う。
旧玉川村駅舎(1989/8撮影) |
旧玉川村駅舎と額(1992撮影) |
好きな駅であった。
駅前には、一本のヒノキの木と公衆電話ボックス。
駅舎正面には「玉川村駅」の額。
そのまま改札口が、その向こうのホーム上に駅名板が、通して見えた。
駅舎に入ると、左手に切符売り場の窓口。
あの頃は、中の駅員にガラス越しに駅名を告げると、凹んだ大理石の上を滑らせて硬券の切符が渡された。
紙の定期券に押す大きな回転日付判も、大小様々なゴム印も見えた。
荷物の受付窓口があった。隣には威厳ある大きな黒い台秤が座していた。
改札口には切符切りの駅員が立つ柵。列車の到着が近づくと改札が始まり、駅員が立った。
切符を切る鋏をリズミカルに鳴らす駅員がいた。
待合室には磨かれた木製ベンチ。壁に大きな振り子時計。
一つ一つが歴史を深く刻んでいた。
まさにあの浅田二郎原作の映画「鉄道員(ぽっぽや)」の世界が、確かにそこにはあった。
しかし、沿線人口の減少とモータリゼーションの波が、この里にも到来することになる。
■■昭和45年(1970年)に貨物の取り扱いが廃止
■■昭和58年(1983年)に水郡線CTC化に伴い無人駅化
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今では寂しい田舎の街ではあるが、かつて全盛時代があったのである。
1940年代の戦前から戦後にかけての昭和15年から昭和35年頃である。
1922年(大正11年)の駅開設からほぼ15年以上経過している。
マイカー時代の到来はずっと先の話である。
移動手段といえば国鉄というのが当たり前の時代であった。
通勤にも通学にも、とにかく水郡線を使う必要があった。
そして、駅利用圏は西と南北に広く、沿線人口もまた多かった。
(当時の玉川小学校は複数学級が多かった)
そして駅がここに誘致された最大の理由であるところの、玉川村駅周辺から栃木県境までの山間部で産する農産物(葉タバコ、材木等)の集積がもっとも盛んであったのがこの時期である。
物資がこの駅に集められ、そして貨物で運ばれていった。
一大集積所として賑わったのだ。
だが、長くは続かなかったようだ。時代の変化は着実に進んでいた。
今では想像することが難しいが、駅構内には各種の設備が整えられていたのである。
駅員宿舎も何棟もあった。大きな倉庫もあった。
機関庫も併設されて、長い引込み線と共に機関車整備を行う施設もあった。
(機関庫は駅東側にあった。ごく短期間しか利用されなかったようで直ぐに廃止されている)
倉庫横の空き地には材木が堆く積まれ、子供たちの良い遊び場となった。
これらも昭和45年(1970年)の駅貨物取り扱いが廃止された頃から徐々に、後に国鉄が解体されJRになったとたん急速に、姿を消した。
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戦前戦後の当時の街の賑わいを知る地元古老から話を聞いた。
全盛時代には、駅の乗降客も多く、駅前は賑わい、物流もたいそう盛んであったという。
駅前にはぞくぞくと各種事業所が開設されていた。
日本通運の代理店、農協支所、タクシー会社など。
これらも昭和が平成に変わる頃までにはすべて姿を消した。
また最盛期の駅周辺には、東野屋・柴田屋・平和屋・花輪屋という屋号を持つ4軒の宿があったという。
おそらくは木賃宿ではなかったかと思われる。
宿泊してまで働くほど、仕事と情報がこの街にはあふれたのである。
魅力的な街だったに違いない。
またこれだけ人が集まって賑わう場所には、必ず歓楽施設が存在する。
『初音屋』という名の料理店もあったという。
これらの多くはすでに姿を消しているが、駅前の花輪屋は建物が現存し、店軒下の防火用水石桶に名が刻まれ残っている。
初音屋の威厳ある楼閣も、崩れるにまかせているが現存している。
■■ 『赤線跡を歩く』(木村聡著 ちくま文庫)には、玉川村駅前とこれら花輪屋・初音屋が
写真付きで紹介されている。
そこに引用・紹介されている「全国女性街ガイド」(昭和30年発行)の文章によると、
『(特飲店と酌婦が)玉川村駅にも4軒17名』とある。
ただ、特飲店の4件と、上述4軒の宿および初音屋との関係は不詳である。
さらに、街外れ(駅前から200mほど北)には映画館が1960年代後半(昭和30年代前半)まで存在した。
映画館といっても木造舞台小屋程度ではあったが、2階建てで回り廊下がある一応の設備はあった建物である。
地方興行の芝居役者の一行が巡業してきたのであろう。
精神文化も高揚した、よき時代があったのだ。
私の記憶にある1960年代後半(昭和40年代前半)の姿は、既に廃屋状態であったが、まだ壊れた映写機も映写室も残っており、映画フイルム等が散乱してはいたがそこここに面影があった。
今は小さな空き地となり、夏草が揺れている。
そこにかつて映画館があったとは全く想像つかない。面影を辿るのも容易ではない。
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この街の盛衰を見続けた駅舎は、やはりよき時代の幻影と共に姿を消した。
過去の思い出は思い出として大切にする。
そして愛着あるこの街を、この駅前を、かつてのように活気ある街にしたい。
人が集う場所としたい。
何かできるはずだ。しないといけない。
改めて、強く、そう思う。
映画館は屋根に穴が開いていたので「星見館」と言われていた。小学生の時、クラス全員で第五福竜丸の記録映画を見た。今は昔のこと。
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