その該当部分「玉川のメノウ」を紹介したい。(□は不明の文字)
『 郡の西□里に、静織(しどり)の里有り。
上古の時、綾(しず)を織る機をいまだ知る人あらざりき。
時に、この村に初めて織りき。よりて名づく。
北に小水(おがわ)あり、丹(あか)き石交雑(まじ)れり。
色は、ひん碧に似て、火を鑽(き)るにいと好(よ)し。
もちて玉川と号(なず)く 』
(注) 常陸風土記とは、奈良時代初期の713年(和銅6年)の詔に応じて編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌だ。
郡内で産する鉱物、動植物、土地の様子、土地の名の由来、古老の伝える話等を記載している。
現存するのは他に播磨・肥前・豊後・出雲の5カ国だけであり、その他の国は逸文(断片)が知られているのみだ。
日本国内には、あまた『玉川』あるいは『多摩川』と名の付く河川や地名があるが、1300年も前に国の公式記録に記載された『玉川』は、当地の玉川のみである。
一番古い(公式記録で確認できる)『玉川』なのである。
以来この川の名前は変わっていない。いまもそのままである。
なんと素晴らしいことであろうか。誇りに思う。
この地はいまは、常陸大宮市となっているが、その前身である『那珂郡大宮町』へ合併(昭和30年=1955年3月31日)されるまで、行政単位としての『玉川村』が存在した。玉川村は、明治22年=1889年に近隣3村(東野村・若林村・八田村)が合併して誕生。昭和30年=1955年までの66年間存在したのである。
現在も福島県石川郡に行政単位としての玉川村が存在する。この福島の玉川村は当地茨城の玉川村が大宮町と合併し消滅した昭和30年3月31日に誕生している。ちなみに読み方は、茨城のほうは「たまがわむら」だが、福島のほうは「たまかわむら」と清音である。
大正12年(1922年)12月10日に当時の国鉄水郡線がこの地に開通した。当地に駅舎が作られた際には、当然のこととして『玉川村』(たまがわむら)駅と命名された。
ついでながら、福島の玉川村もこの水郡線が通過しており、現在、村内には川辺沖駅(昭和34年=1959年開業)と泉郷駅(昭和9年=1934年開業)の2つの駅がある。茨城の「玉川村」駅より遅い開業であるため、現在の名前となったものと推測される。
この由緒正しく歴史のある『玉川』は、小学校・中学校名にも使われた。その後の学校の統廃合で、玉川中学校は廃校に、玉川小学校は大宮北小学校となった。少子化に伴う学校の統廃合は、時代の流れでありやむをえないものではあるが、この由緒ある名称を、いとも簡単に捨て去ってしまったことを誠に残念に思う。学校の名称については、いろいろな議論はあったことと思うが、正しい歴史認識と、深い歴史への造詣があれば、郷土に対する愛情と拘りがあれば、存続したのかも知れない。もっと自分たちの住む郷土・地域の歴史について、しっかりとした教育が必要なのではないだろうか。このことは日本国についてもまた然りである。
いまも、我がファームの畑では常陸風土記に書かれているメノウを見つける時がある。大きさも形も色も様々である。まさに原石であるため、加工されて宝石と変化した『メノウ』とは似ても似つかぬものであるが、正真正銘のメノウである。縄文時代には鏃(ヤジリ)として、近世には火打石としての利用もあったメノウであるが、現代ではパワーストーンとしての人気もあるらしい。時代と共に重宝がられているようだ。
愛、対人関係の失敗や不幸を防止する力、だとか。これらに悩む方は当ファームが開催するイベント参加の際にでも、お土産におひとつお持ち帰り頂いたらいかが?
見事な赤い縞のメノウである |
白に赤い筋の入ったものも |
縞ではなく全体が赤いもの |
色は黒ずんでいるが、この大きさのものにはなかなかお目にかかれない |
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