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2018年6月19日火曜日

万緑の中の水郡線

万緑の玉川里山の中を進む水郡線(キハE130系車輌)。
JR水郡線玉川村駅近くの東側山頂からの眺めだ。

正面は照田・長田・長沢地区の山並。
さらに冬になるとこの正面奥には、雪を頂いた日光男体山の姿も確認できるようになる。

なんともいい眺めだ。
この里山は(人間を含めて)ここに生息する数限りない生き物たちの楽園だ。

2016年1月26日火曜日

佐竹氏と雪

常陸大宮市と秋田県大館市は友好都市協定を結んでいる。
いわずもがなだが、その昔に佐竹氏の国替えで一族が秋田に移ったそのご縁による。常陸大宮市から一族の小場氏が大館に移り住んだ。

秋田と言っても南北に相当広い。茨城県に例えれば県庁のある秋田市が水戸とすれば、大館市は高萩か北茨城あたり。北に10キロも行けば青森県境だ。内陸部で冬は雪深い所である。かの忠犬ハチ公が生まれたのはここで、JR大館駅前にハチ公の立派な像がある。
大館市は何度か訪ねた。今、城跡は桂城公園になっているが見事に何もない。堀と桜の古木があるだけである(建物類は幕末の動乱時に焼失)。
                                           
先日、茨城にも雪が降った。
毎年、降る雪を見ては、国替えに従って秋田に移住した人々のことを想う。
出羽の冬の雪の多さ、寒さは、常陸では経験したことが無いはず。初めて迎えた冬の驚き。雪国に生きる術を持たない彼らの困惑ぶりはいかほどであったろうかと。

⇒ 少々こまかいがデータは次の通りだ(新編問答式 佐竹読本 高橋茂著 による)。
  秋田移封の発令は慶長7年5月8日(新暦ではでは6月27日)。
  京都伏見にいた佐竹義宣は家康に領地安堵の謝礼を言上し、江戸に上った。
  秀忠に謁見し謝礼と赴任の挨拶を言上。
  その後は、水戸に立ち寄ることなく一路出羽・秋田を目指し旅立った。
  奥州街道を北上し宮城県まで。いまの宮城蔵王の東山麓あたりだ。
  現国道286号線の山形県への山道を進み最難所・笹谷峠を越えた。
  ※ 是非この峠の山道(国道286号)をストリートビューで見て欲しい。
  今は高速道で容易に通り抜け可能だが、昔はこの九十九折の峠越えの細道のみ。

  峠を下り山形に出て、羽州街道を北上。
  現国道13号線を進んで雄勝の峠を越え秋田入り。
      現在の秋田市への到着は9月17日(同10月31日)だった。

  付き従う家臣一族の移動も、時を経ずになされたはずである。
  水戸や太田の一族はというと、久慈川・里川沿いに北上した。
  棚倉町に出たのち北に進み、須賀川から奥州街道へ出た。あとは前述の通り。
  大混乱の中での慌ただしい引っ越しである。馬や荷車が列をなした。
  遠路かつ険しい峠越え多数の道のため、家財道具もほとんど持たずの引越し。
   ・・・あたり前だが全行程徒歩である。
  心身ともに疲れ切って到着してすぐに全く環境違う地での生活開始。 
  時あたかも、厳冬期の到来間近の季節だった。

大館は今頃は真っ白の世界のはず。
方や茨城の雪はすぐに融け去ってしまう程度でその点暢気だ。
でも雪雲が垂れこめた寒々とした風景を見ては、『大変だったっぺなぁ・・寒がったっぺなぁ・・』と。

水郡線はポイントの融雪機の設置が進んで、この程度の雪と寒さではダイヤが乱れることはほとんどなくなった。この日もほぼ定時運行だった。
雪景色の中のキハ130系車両の姿もよいのだが、この風景は明日にはもう見られない当地である。

2015年8月29日土曜日

RFD

以下の写真が、玉川村駅にひっそりと走って来て、ひっそりと去ったRFDである。
一昨日の明け方にきて、玉川村駅構内に一日間停車していた。その際の写真だ。
通常のトラックの姿であるが、これが線路を走るのである。

RFDといっても、一般の人は何のことやら解らぬに違いない。
レール探傷車と呼ばれる専用車両で、レール内部の傷を超音波や光を利用して走行しながら測定するJRの検査用機械だ。
                   ※RFD=Rail Flaw Detection System

車体後方にある2本の縦に並んだ機器が測定装置のようだ。
素人考えだが、検査走行時にはこれを倒し、線路面ギリギリに当てて超音波を発し、
反射してくる波形をキャッチし分析するのだろうと思う。
この車(車両?)が走ったのは真夜中なので直接姿は見ていないが、かなりの低速走行の音だった。
電化路線用のRFDとはかなり姿を異にしていて、トラック搭載のRFDだ。
一般道をトラックで移動して検査区間の始点まで行き、その後は線路を走って終点まで検査する、という田舎の非電化路線専用の特別仕様になっている。

一般の人は、おそらく目にすることはほとんどないはずだ。
RFDの活動時間帯は、JRの営業運転が終わってからの、深夜から早朝だけ。
隠密行動を旨とする特別な仕事である。
こうやって目にして撮影までできたのは、駅近くの住人としての特権かもしれない。

JRの方々によるこのような不断の目に見えぬ努力と苦労があるからこそ、我々は安心してJRに乗車できている。
決して人目につかない作業だし、ちゃんとしていて当たり前の保線管理である。
なかなか一般の人には認識されにくく、正しく評価してもらえない仕事の一つだろう。
だが、彼らには日々の安全を維持しているのは自分たちだという職務に対する矜持があるに違いない。
ニッポンを支える作業員の現場スピリッツ。なんともすばらしいではないか。

2015年3月14日土曜日

昭和2年3月10日 水郡線・常陸大子駅開設

先日、『大子ジャーナル』という、おそらくは茨城北部の大子町内にしか頒布されていないのであろうタウン紙を見る機会があった。
平成27年3月5日号というそれには、昭和2年(1927年)3月10日に水郡線(当時は大郡線)が常陸大子まで開通したその日のチラシの写真が掲載されている。
『祝 開通』として、当時の商店や会社などが賛助金を出してチラシを作って配ったのだろう、いろいろな商店名・会社名がみえる。88年前のものである。
そのチラシの写真には、開通時の常陸大子駅時刻表も写っている。
(大郡線は同年12月に水郡線に名称変更)

当時、常陸大子駅が終点であったので、写っているのは(下り列車の)到着時刻と(上り列車の)発車時刻であるが、水郡線が常陸大子まで開通した時にどのくらいの本数が運行されていたのかを知る貴重な資料である。

ちなみに、この時刻表部分は『大子町史』にも掲載されているとのことだ。


常陸大子駅開設当時の時刻表(大子ジャーナルから一部分を転載しました)
これを見ると、上り列車は午前中は3本で午後に3本の1日6本の運行だったようだ。
         
玉川村駅は、常陸大子駅までの大郡線開通の4年少し前(1922年、大正11年12月)に開設されている。当時の玉川村駅を通過する列車も、おそらくこの本数であったことだろう。
開通した常陸大子駅は当然として、4年経っている玉川村駅もまだまだ路線開通の熱気が覚めやらぬ中にあったと思う。
なにしろこれからほどなくして、水郡線は隆盛期を迎え、各駅はどこもかつて無い賑わいを見せることになるのだから。
時代背景として、沿線人口もまだまだ多かった上に、周辺からの物資が集積され貨車輸送による運搬が本格化しだした時期にあたる。
駅周辺には当然に人・物・金・情報が集まるようになった。
物資集積の一大ターミナルとなった玉川村駅の周辺には、料亭や木賃宿、飲み屋、映画館、各種商店、タクシー会社、日本通運の事務所、農協等々、次々と開設されていった。これからの三十数年間がまさに黄金期だった。
常陸大子駅も同様であるはずだ。
実際に、水郡線は列車本数も、連結車両数も増加していった。客車列車以外にも、貨物列車が運行されているのだから、結構なTraffic数だったはずだ。

たった一枚のチラシだが、そこにみえる商店・会社の多さからも、如何に地元が熱烈歓迎したかがよく判る。
         
今日(3/14)は、北陸新幹線が金沢まで開通した。開通した地元の歓待ぶりがニュースで伝えられている。昭和2年の大子町もまさにこのような状態だったのだろう。
チラシ一枚と言えど、その時代の空気、更には人々の思いまでをも伺い知れる貴重な資料である。

2014年5月11日日曜日

星に願いを・・・ 水郡線ラッピング列車

SUIGUN STAR LINE だそうだ。

いま水郡線全線開通80周年記念のラッピング列車が運行されている。

たまたま目にした汽車の車両がそうだった・・といった感じでの遭遇をときどきしている。
スターライン
決まった時間の決まった車両があてがわれている訳ではなく、日によって時間がバラバラなのでそういうことになる。
JR東・水戸支社のHPにスケジュール表が公表されているが、(残念ながら)この時間にわざわざ線路に近寄り眺めるほどの関心がある訳ではない。

暗い時間帯に光りながら走るのであれば、おおっっという感じかもしれないが、昼間目にする姿はあまりインパクトはないように思う。ちょっと残念な気もする。
水郡線を盛り上げようと一生懸命に知恵を出して企画したイベントだろう、敬意を表したい。

ジョイフルトレイン風っ子号も今月17日と18日予定されているようだ。
JR東・水戸支社 おすすめ列車情報
9.新緑の時期、水郡線・磐越東線に乗って楽しい便利な列車を運転いたします。

普段水郡線に縁が無いお客様が乗ってくれて、とにかく賑わってくれればよい。
知名度もアップしようというもの。
新緑がまぶしい時期。常陸大宮駅から以北、矢祭山駅あたりまでの迫ってくる山と河の風景のなかで新緑を堪能できる。
いいところだなぁぁと感じてくれればそれで十分だ。

2014年4月9日水曜日

茨城新聞(4/6) SL記事

先日の4/6の茨城新聞のトップ記事は『水郡線 12月にC61』であった。
先日の大宮新聞で知ったSL運行だが、詳細が広報されたようだ。

今回は高崎に保存してあるC61型を運転するようだ。

試運転を含めて8日間走るとのこと。
熱烈な鉄ファンの気持ちも解らぬではないが、お互いのために良識ある行動を願いたいものだ。
・・今からはや心配している。

2014年3月25日火曜日

水郡線に再びイベントSL・・・との情報

常陸大宮市には超ローカル新聞である『大宮新聞』なるものがある。
大宮新聞
新聞と名が付くがタウン情報チラシといった風の1~2枚のペーパーである。発行部数は不詳だが、誰でもが普通に目にするものではないようだ。
大手新聞が取り上げることはまずないであろう記事、つまり市内のホットな話題やら市議会の詳細な内容などが主だ。そこに特色・存在意義があるといえる。
         
この『大宮新聞』の最新号平成26年3月24日号に、3/18~19の市議会の議員質疑が掲載されている。
その中の一つに注目すべき内容があった。
野上議員より、地域活性化関連でSL運行について質問がなされ、市側の皆川政策審議官より次の回答があった。
『水郡線全線開通80周年を機に県と沿線市町村が連携してSL運行を計画している。確認が取れている概要について申し上げる。運行期間は12月。運行区間は水戸~常陸大子。前回は運行ダイヤの関係上実現しなかった常陸大宮駅への停車、蒸気機関車による往復運転を要望している』

詳細はこれから決まるようだが、今年12月にSLを水郡線で走らせることは決まったようだ。
         
またあの異様な騒ぎが繰り広げられるのだろうか。
撮影スポット周辺の人家・畑等敷地内への勝手な立ち入り、迷惑駐車、線路内立入り撮影(前回はこれで運行が大幅に遅れた)・・・。傍で見ていて呆れるほどであった。
とにかく地元民が負担せざるを得ない負の面ばかりが目立った前回SL運行である。

さらには、JR東の社員の方も数多く動員され沿線警備に当たったと聞いた。沿線市町村役場の方々もまた同様らしい。
かかる打ち上げ花火は見た目は良いが管理が高くつく。しかもこれも税金である。
何もしないよりはましだが、結局は費用対効果=CP(Cost Peformance)ということになる。
前回の反省に立っての学習効果を期待したいところだ。

2012/11/30撮影

2014年2月25日火曜日

西金駅開設秘話 ~ 幻の平山駅 新畑駅 仲藤駅

西金工臨の西金駅の話である。

         

石井良一氏の著になる『水郡線の歴史』(1960年 水郡タイムズ社)という本がある。古い本なのでなかなか手元にはないだろうと思う。茨城県立図書館に所蔵されており閲覧が可能である。
この本は水郡線の開通までのいきさつが詳しい。
(ただ、わが玉川村駅についての記述は全くないのが残念だ。石井氏は大子の在の方であるので大子関連の部分はやや詳細に述べられている。仕方ない)

明治40年(1911年)に根本正代議士たちが鉄道建設に関する建議を帝国議会へ提出するまでのいきさつから、帝国議会での論戦内容、決定されてからの地元の動きなど、資料を元にして実に細かくまとめられている貴重な本だ。

この本の中に、西金駅開設時の地元のドタバタについて記されている部分がある。やや長くなるが引用してみる。
※文中に出てくる『大郡線』とは、今の水郡線の前の呼称である。既に明治34年には水戸~太田まで開通していた私鉄・水戸鉄道があるが、のちにこの経営権を持った安田財閥が昭和2年に国鉄に売却。その際に、本線とあわせて水郡線と改名した。(正確には、部分開通しているため呼び名はややこしく変遷している)

ちなみにこの騒動話は、Wikipedia『西金駅』にも紹介されている話だ。

         

(P.78) 山方宿--上小川開通
 この大宮--山方宿間に大郡線最初の鉄道が開通すると、鉄道省では山方宿--上小川間の第二期工事にとりかかった。この区間の実地測量は大正10年の夏のころ、鉄道省の横島技師を主任として行われ、ちょうどこの工事に着手する1年半ばかり前のことであった。横島技師は西金の島田屋旅館に宿泊して、山方宿から久慈川伝いに測量を始め、西金宿から上小川入口の新畑と仲沢とに二つの駅を設けて袋田、大子方面に及ぼそうというのが最初の計画であった。
 ところがこの予定の計画はどこからどうして洩れたものか、早くも盛金の人たちの耳に入った。『盛金を素通りされては、汽車に乗るのに誠に不便である。一つこの際は地元民の熱意を示して、盛金の平山に駅を作ってもらうよう運動を起こそう』とよりより相談はとり交され、代表者が島田屋旅館に横島技師を訪ねて平山駅開設の運動を行った。再三の陳情に横島技師としてもついにその熱意に動かされ、ここに予定の駅は変更されて新たに下小川の平山と上小川の仲藤とに二つの駅を作るよう測量を始めた。
 この測量の変更が西金の人たちに知られたのは秋10月のことで、全くの寝耳に水の出来事だった。そこで西金の人たちは『新畑駅を廃されたのでは、われわれ西金区民にとって不便である。二つの駅の間に西金駅を増設してもらう運動を起こそう』と村長小室隆氏をはじめ神長道之介、小野瀬英、小室順太郎、高村千代吉、神長道太郎の各氏、それに上小川の川井二郎氏らも仲間に加わって、政党政派を超越し幾度となく上京して鉄道省に西金駅設置の陳情を行ったが、すでに鉄道省では横島技師の測量に従って平山と仲藤とに二つの駅を作ることに内定し、この短い区間にもう一つの駅を作ることはとうていできない相談だと軽く一蹴したので、陳情団の一行は仕方なく致し方なくその場を引き上げる始末であった。
 しかし西金の地元民はこれにひるまず、あくまで初志を貫徹する決心で郷里へ戻ると、引き続き横島技師を訪ねて根強く陳情を続けたので、ついに横島技師は手を焼いてしまい、『それならいっそのこと西金通過は見合わせる』と新しく盛金の国神神社の脇から大野内を通り、久慈川沿いに三峰の山腹の絶壁を通ることに路線を変更して、測量のやり直しまで始めた。そうなっては西金駅の設置はもう永久に断念のほかはない。この陳情がかえって思わぬ逆効果を生んだことを知った西金区民は、すっかり驚いてしまい、再び横島技師を訪ねて『路線の変更だけはなんとしても取りやめにして欲しい』と嘆願したので、西金通過だけはそのままになった。
 するとそれから間もなく地元の代表者は太田建設所長を訪ねて『もし西金に駅を作ってくれないなら、用地の買収には応ぜられない』と用地買収反対の強硬な態度に出たので、太田所長はカンカンに怒って『それならもう測量はこれで打ち切りだ』と測量を中止させてさっさと引き上げてしまった。
 この経緯を聞いて大子町の鉄道派は驚いた。この西金一カ所の問題で、長い苦心を重ねてここまでこぎ着けてきた大郡線の測量を中止されては大変だと、益子町長、石井栄次郎、外池太一郎氏らが西金に足を運んで地元の代表者と膝を交えて交渉したが、西金の人たちもそこは真剣で、たとえ西金一カ所なりとも死活の問題だとして頑張り、交渉はなかなからちがあかない。その間に太田所長はいったん引き上げはしたが、冷静に考えると自分の一存で測量を中止する訳にもゆかないので、再び戻って測量を継続するという一幕まで演じた。すると大正12年9月、折からの関東大震災に見舞われて、この測量は一時中止のやむなきに至った。
 時の内閣は原内閣で鉄道大臣は大木遠吉氏だったが、大正13年、政変によって憲政会の若槻内閣が生まれた。地元では憲政会の小野瀬英、小室順太郎氏らが好機到来とばかりに憲政会の大津代議士を動かし、この運動には政友派の神長道之介氏らも同調して、大津代議士を通して時の鉄道大臣仙石貢氏にわたりをつけたが、その結果はなかなか思わしいものではなかった。
 とかくするうちに山方宿--上小川間の工事は着々と進められ、この工事の完成を見たのは大正14年の8月、そしてその月の15日に下小川、上小川両駅の鉄道開通式が上小川駅前で盛大に行われた。

 (p.81)西金駅の開通
 かくして山方宿--上小川間の大郡線は開通したが、この開通をみる二ヶ月半ほど前に、大津代議士から西金の有志あてに、西金駅設置の運動資金として一万円ほどの金が都合できまいかと電報で問い合わせが来た。当時の金で一万円といえばなかなかの大金だが、この金さえ工面すれば西金駅の増設ができるものなら、これは万難を排してでも都合をすべきだと西金の有志たちは鳩首協議して、ただちに大津代議士に『カネ ツゴウデキル』と返電した。するとしばらくの間は何の音沙汰もながったが、その翌月になると大津代議士から『西金駅の増設には確実な見通しがついた』と電報で知らせてきた。
 こうした吉報は、もちろん大津代議士の運動の結果にもよることだが、もともとこの運動に対しては地元民が熱意を示し、鉄道省としても古来この西金駅が水戸街道の一要衝をなし、大子に次ぐ第二の宿場として栄え、農産物、ことにこんにゃくの産地としても以前から知られた宿場であるので、ここに駅を増設すれば地方の振興にも役立ち鉄道省としても経営面から損をするようなことはあるまい、とも考えて増設を認めることに方針替えをしたものと思われる。
 ところがさて西金駅増設という段になると、西金駅設置の場所をどこにするかについて問題になった。なにしろ当時西金宿の通りは道が狭いのである。ここに駅を作るなら、新しく県道をつくり替える必要がある。それには地続きの土地を買収する必要が生じてきたので、地元民は土地の所有者と交渉して県道の東側の畑24歩と田7畝15歩を買収して新道をつくり、従来の県道は駅の敷地に当てて西金駅を作ることになった。工事は8月7日、小野瀬英氏を工事委員長に、小室順太郎、神長道太郎の漁師を相談役とし、22名の役員を決めて、区民が毎日出勤、突貫作業で工事にとりかかった。その間には上小川駅が開通し、この作業を続けている間に、汽車が黒い煙りを吐きながら眼の前を通り過ぎると言うありさま。それでもこの工事はその年の10月2日に完成して、翌大正15年3月21日に西金駅が開通し、西金区民の長い運動はここに実を結んで、この駅の開通の日には駅前で盛大な開通の式典が催された。
いま駅の傍らに大きな桜の樹がある。これはその当時県道の傍らに植えてあったものだが、この工事が行われた際に、時の建設局長池田嘉六氏が『記念すべき桜だ。伐らずに保存しておくのがよい』という勧告もあって、そのままのこしておいたものがこの桜の樹で、今日地元民はこの桜の樹を池田桜と呼んで往時を懐かしんでいるという。また開通式の当日には、この池田桜の下で俳句の大会まで開かれたという名残の深い桜である。この西金駅を汽車で通る場合、この桜の樹を眺めて西金駅増設の裏面史を偲んでみるのも感興の深いものがあろう。

         

いかがであろうか。
当時どこの駅でもある程度誘致合戦はあっただろうがとりわけ、西金駅は当時の地元民の強い運動があって開設で実現した駅、なのである。一度や二度拒否されてもへこたれない何ともすざましい粘りではないか。先人達は実に偉かったと思う。その運動が強すぎて逆に駅ができない可能性もあったのではあるが。
いまはヒッソリとした西金駅周辺だが、大正時代末期には駅開設に向けて人々が心を一つにし、それはそれは熱いエネルギーを見事に昇華させた地なのである。
そんなHot-Spot・西金=WestGoldである。

         

文章中に出てくる盛金or下小川の『平山』、上小川入口の『新畑』・『仲沢』、上小川の『仲藤』という地名がどの辺りなのか残念ながら分からない。字名なのだろう(地元に詳しくないと分からない)。
二転三転した駅設置の場所である。もしかしたらこの地名の場所に駅ができていたのである。
水郡線・幻の駅・・ちょっとだけロマンがある。

※ 次回は、水郡線は『勝田--(常陸)大宮』のルートを通っていたかもしれなかった話を紹介したい。

2013年5月18日土曜日

可憐なスズランは毒草である

屋敷内の道端では、今年も地植えのスズランが盛り。毎年多くの花を付ける。
手入れもしないのに勝手に増えている。よほど土地が合っているのだろう。
今盛りなり スズラン
なんといっても可憐で、白い清楚な彩りがいい。
5月を代表する花なのだが、イメージとしてはなんとなく初夏の感覚がある。

花が葉の影に隠れることを控えめな美しさと捉えて『君影草(きみかげそう)』という別名もあったり、あるいはまた、英語名Lilly of Valleyの直訳で『谷間の姫百合 (たにまのひめゆり)』なんて洒落た別名も貰っている。

でもでもこの植物は、その清楚なイメージとは異なって、花にも葉にも根にも、つまりは全体に毒(⇒ 詳しくは Wikipedia スズラン参照) をもっているからなあ。こわいこわい。。
 
         

そろそろ5月も下旬にはいる。
次第に夏日・真夏日となる日が増える。
また暑い夏が廻ってくる。
濃い緑に囲まれた水郡線
上り列車はこの奥の緑の中から現れ、
下り列車は緑の中に消えてゆく
こんなふうに・・

2013年5月16日木曜日

東京国立博物館大神社展

昨日、所用あって都内へ出た。
折角であるので、いま東京国立博物館で開催している『大神社展』を見てきた。

         

毎日自然と対峙している我が身としては、宗教観というか世界観というかは限りなくアミニズムである。
山に、川に、岩に、木に、空に、風に、太陽に、野の草に、・・・自然のすべてに神が宿っているのではないかとごく普通に感じている。それもキリスト教的な絶対的な唯物神でなく、それこそ八百万の神がである。
神道がその起源を自然信仰に求められるのも宜(むべ)なるかなとも思う。

大自然のなかで起こっていることは、現代科学で仕組みの説明はつけられても、人間は何一つ全く同じことを作りだせない。
生物の神秘、気象の神秘、天文の神秘、地質の神秘・・・。
これらについての一番簡単で合理的な説明は、「そこに神様がいるからだ」ということに尽きると思っている。証明はできないが。
だからこそ、自然に対する畏敬や感謝の念も自然に抱くし、人間のちっぽけな存在を自覚し、奢り高ぶらず謙虚に生きることができるのではないかと。そこに神社のような祈りの場が生まれてくるのだろう。そこでは自然は征服するものではなく共存するもので生活の拠り所、あくまで利用させてもらうものだ。
 
         

先人達は2000年近くにわたって営々とその神々を敬い祈りを捧げてきた。
その神々がおわす神社に対し、時の為政者たちは当時の最高レベルの技術で作られた品々を奉納してきた。

大神社展に集められているのは、おのずと現代においては国宝級の品々ばかりである。
それらを全国各地の神社から集めて展示している。普段はなかなか当地の神社に参拝しても拝観できないものも多いようだ。
 → 今回の展示品の中に、茨城県鹿島神宮所蔵の国宝である直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ) があった。刃長223cmもある直刀である。そのずば抜けた大きさは実際に間近で見ないとわからないものだ。実物を見るのは初めてであったのでちょっと感動した。

神社としても宝物として大切に保存してきたものであり1000年以上も前のものも多いが、その状態は驚くほど良い。
これらは美術品としても超一流の価値であるが、同時に当時の人々の信仰心を垣間見ることができる品々でもある。その時代に神をどのような姿で考えていたのか分かる(ような気がする)。
経年変化による色彩劣化や塗料剥げ落ちはあるとしても、姿かたち・意味するところは何も変わっていないし、1000年、2000年経った現代にあってもその内部から発する輝きは衰えていない。
変わらない・変えないというのは、とても貴重なことだとつくづく思う。

このような『本物』を実際にこの目で見るということはやはり大切である。
現代においては、大抵の事はPCを使ってネットで調べられ、それで分かったつもりになってしまいがちだ。かく言う自分もそうだが。
だが、やはり本物・実物を見て得るインパクトは極めて大きい。
今回も優れた企画展に接することができ、知的好奇心が刺激され満足した。
 
         

帰りに、大手町にあるJAビル地下一階の『農文協・農業書センター』に立ち寄った。
PCがあればネットで大抵の情報は入手できるが、ここが揃えている専門書でしか知りえない情報も多い。今回はミツバチに関する本を買い求めた。
『たかがハチ、されどミツバチ  日本ミツバチに教えられること』(鉱脈社 桑畑純一著)
 
団塊世代の筆者による泣き笑いの養蜂記で、ミツバチの生態系に見る環境再生の課題、と帯には書かれてある。
ミツバチ飼育のHowToも大切だが、もっと大きな視点で自然環境の問題をミツバチを通して深く考えることにした(のだが、帰りの電車内では爆睡してほとんど読めなかった)。
  
         

大手町のJAビルに向かう際に、久しぶりにJR東京駅を利用した。
この東京駅舎も大改修が終わり、建築当初の外観に戻ったという。以前の記憶にある姿とはちょっと変わっていた。(それ以上に、駅内部施設や商業店舗の充実・改変振りは驚異的ですらある。田舎者は戸惑うばかりだ)
新装なった東京駅とKITTE
東京駅から丸の内・大手町のビル群もだいぶ様変わりしつつある。
OAZO(旧国鉄本社ビル跡)は建って久しいが、最近ではKITTE(旧東京中央郵便局ビル)の威容が目につく。こんなビル内の商業施設・オシャレなお店には縁がないな、たぶん、一生。
皇居お堀端のパレスホテルも高層に建て替えられた。
旧住友銀行の東京本社ビル、旧富士銀行の本社ビル、旧三和銀行ビル、旧協和銀行本店ビルも、ここにきて一斉に取り壊し中か新たな建物を建築中だ。
読売新聞社ビルは、あと少しで完成らしい。
旧三和銀行東京本部のビルは取り壊し中だった
(大手町ファーストスクエアの広場から)

読売新聞社ビルはあと少しで完成
(左のレンガ色のビルはKDDIのビル)
         

日本の・世界の経済活動の最先端のこの地には、どんどん古いものを捨て去り、新しいもの・効率的で快適なものを第一として価値を置き追求する姿がある。
各地の神社や、今回の大神社展に集められた品々ような古いもの・変わらぬものを尊ぶ精神世界がある一方で、この丸の内・大手町の姿もまた今の日本の現実。
変わり続けことが現代の企業活動の基本なのだろう。

だが、個々の人間に目をやると、皆はこの地で働く間はきっと高いPrideをお持ちになれるのだろうが、極めてStressfulであるに違いない。それにここを去る定年は必ず来る。今は良いが30年後、40年後の姿がイメージできないのではないか。
そんなことと縁遠いつつましい田舎暮らしの生活からしてみるとだが、格好が良くて羨ましく思う一面もあるが、やはり可哀そうに思えてしまう。
どうだ、水郡線の車窓にはのんびりとした田園風景と大きな空が広がっているんだぞ
それに車内の吊り広告なんかほとんど無いんだ(乗客の数もだけど)

2012年11月17日土曜日

水郡線にラッピング列車が走る

先日のことだが、水戸駅構内の外れに停車している水郡線車輌キハE130系がラッピングされているものを見かけた。
ラッピングとは、広告などを印刷したフィルムを車体に貼付ける『ラッピング広告』を施すことだ。つまりは車両全体を広告とするものだ。

常磐線の動いている列車内から見たのがほんの一瞬だったため、『奥久慈清流ライン』とだけは読み取れたが、他に何が描かれているのかは分からずじまいだった。

その時、『そうだよ、奥久慈清流ラインの知名度を上げるにはそれぐらいしないと。やっとそういうこともやってみようと考えたか・・』と思った。

         

しかしながら、その列車が走るのを見かけることはなく、忘れかけていたが、今日その車両が走ることを知った。
・   水郡線にラッピング列車
ちゃんとJR東日本・水戸支社のHPにても発表されている(11/16 新着情報)。
16日から運行が開始されているが、16日は水戸〜常陸大宮間で、17日以降が水戸〜郡山・常陸太田のようだ。
・   水郡線ラッピング列車運行予定表 

車輌には福島県も含めた沿線市町村の観光素材と、福島県の復興スローガンが書かれているという。
水郡線全線が関わりを持つ素晴らしい試しみである。拍手を送りたい。
クドいようだが、『奥久慈』やら『清流』だけで水郡線のイメージを語ると、地域が狭い範囲で限定される気がしているので、この愛称には不満である。もっと福島を含めた全沿線がイメージ出来るモノでないとダメ、というのがワタクシの思いだ。

         

予定表によれば、来年3月末までの運行らしい。
もったいないと同時になぜ、と思う。
地震と原発事故の被災地・福島の復興は、皆の願いでもあるし、忘れてはならない。
同じ線路でつながる沿線に住む住民として、また隣人として当然のことだ。
今後かなりの長期間、重たい課題を背負って行かねばならぬ福島県を、茨城県民も決して忘れず応援し続けるためにも、ずっとこのままラッピングを続けられないものかと思う。

次のラッピングの予定があるならば別だが、そうでないのならも、このスローガンや観光素材を外さずおくこと(ぐらい)は、そんなに難しいことではないと思うのだが。
この類いの広告は、県(茨城・福島)の屋外広告物条例の規制を受けるのだろうが、行政的な手続きだけであれば、継続実施に大した障害はないのではないか、と素人レベルでは思う。

2012年11月15日木曜日

ふたたび『奥久慈清流ライン』について

昨年のことだが、JR水郡線の愛称が鳴り物入りで『奥久慈清流ライン』と決められたことは記憶に新しい。
各駅ホームの駅名版には、その名称が張られている。
名称が決定された時に、このブログで『奥久慈』やら『清流』と付けるとそのイメージする範囲が極めて狭くなり、水郡線全体(水戸から郡山まで)の愛称としては違和感がある、と書いた。
       2011/09/21 ブログ
今でもこの思いは同じであるし、むしろ強まっている。

さらに残念なことに、この愛称は駅名板以外ではあまり目にすることもなく、騒いだ割にはその後に関係各位の気合いが感じられない。
(月末に走るSLにはこの名称が冠されるようだが)
 
         

言うまでもなく、水郡線は茨城県・水戸駅と福島県・郡山駅(正確には安積盛永駅)の間と、上菅谷で分岐する常陸太田の間の路線だ。

当然のことながら水戸駅は水郡線のターミナルステーションであり、南の玄関口の主要な駅だ。
水戸駅では水郡線は1番・2番が水郡線ホームとなっている。
当たり前に水戸駅のホームにも駅名版がある。
次駅『常陸青柳』と矢印表示されているのだが、ないのである。
『奥久慈清流ライン』の青い表示が。。。肝心の水戸駅に。
取り付けを失念してしまったのだろうか。
水戸駅構内の水郡線ホームにある駅名版
また、沿線の観光案内図『水郡線沿線ガイド』が線路脇のフェンス(丸井デパートの壁のところ)に大きく掲示されている。
これは列車内のドア上に張られているものと同じだ。

人目に付くようにと掲示しているはずだが、ここにも『奥久慈清流ライン』の文字はない。上の方に小さく『常陸秋そばの里 奥久慈をゆく』とだけある。
ついでに言うと、水郡線ホームに降りる水戸駅橋上通路部分のどこにも『奥久慈清流ライン』の文字は見当たらない。
1・2番へ向かう通路と案内表示
玄関口・水戸駅にしてこの状態である。
熱意が伝わらない、やる気がない、どうでもよい、やりっぱなし、と感じるのはワタシだけだろうか。
さらに、福島県内の駅ではどのような状態になっているか気になることろだ。
特に、北の玄関口・郡山駅の水郡線ホーム(3番線)ではどうなのだろう。

もしかすると水戸駅だけは設置の例外なのかもしれない。
(→だとするとその理由が分からない)
愛称を募集した『水郡線利用促進会議事務局』に一度聞いてみたい気はするが、担当者がいるかどうか、組織も存続しているかどうかもわからない。

などと文句(否、健全な批判だ)を言ってはみたものの、ワタシにとってもどうでもよいことのひとつだ。
ちょっと気になったのでつぶやいたまで。。

2011年9月22日木曜日

台風一過

台風15号は各地に傷跡を残しながら日本列島を斜めに進み、千島近海でやっと温帯低気圧になった。
茨城北部に最接近した昨夜、激しい風雨に見舞われた。
先の震災で我が家の瓦も落ち、応急措置としてビニールを掛けた屋根では、ビニールも剥がれたうえに緩んでいた瓦が再び落ちるなど、改めて台風の威力を感じた。

         

今朝早く、過ぎ去った台風の爪痕を確かめるべく、周囲を回った。
まだ落ちるには早いのだが、ギンナンの実が大量に落ちていた。
色付きもまだこれからのギンナン
前回の台風の風で枝が折れた栗の老木。また別の枝が折れ道を塞いだ。
また虫喰い状態の枝だった。
早速、チェーンソーで細切れにして撤去したが、あと少しで収穫できそうなイガが沢山付いていた。これもまた自然の成せること。仕方あるまい。
落下した枝
枝とはいえ太さは直径20cmはある
先日、秋の草花を摘んだ谷津田に向かう山裾の道であるが、法面が3mほど崩れた。
通行に支障はないものの、下の用水路が埋まってしまった。
また土木作業の予定が増えた。
これだけ崩れたのは初めてだ
工事中の玉川村駅構内の地震計設置現場。
掘り下げた場所は、プールとなっていた。
脇の畑からは大量の水が依然として流れ込んでいる。
水はけは良い土地であるのだが
水郡線は始発から運休している。
張り紙で運休を告知しているが、知らずに駅に来る高校生が多い。
(ほとんどが親の車運転で駅まで送られてくるので、そのまま引き返している。
昔は、皆が自転車かバイクで駅まで来たものだが。これも時代の流れか)
玉川村駅の張り紙
玉川村駅前
高校生を送りに車が入って来た
駅前の商店の前は、まだ片付けされていない
わが無人野菜販売所は、台風接近前にオーニングを畳んでヒモで縛っていたが、あえなく風で壊されてしまった。内部も水浸しだ。
この程度で済んでよかった。

支柱が外れた抱けでだけで済んでよかった
常陸秋そばを栽培している畑に行ってみた。
すべて倒されていた。
ショックではあるが、仕方ない。
常陸秋そばの畑
すべて西向きに倒伏してしまった
そして、最大のショックは稲を干しているオダが倒されていたこと。
すべてオダから外し、支柱を立て直し、再度掛け直す。
雨をたっぷり含んだ稲束は重たい。
今日、一日かかって直した。
風の威力はすごい
倒れないまでも、田んぼ面まで稲穂が下がってしまった場所も多い。
これもいったん外して支柱を立て直し、再度掛け直す。
本来なら、する必要のない作業。
疲れた。


         

水郡線の線路を点検をする保守員が、専用の車両(ゴーカート?)に乗り、線路を目視点検していた。
これに乗り水戸から来たのであろう。常陸大子まで行くのだろうか?
なかなかお目にかかれない保守点検作業車輌だ
まさにゴーカートだ
あっという間に通り過ぎた
なにかと迷惑な台風であった。