里山の農作業は一段落、といったところだ。
気温もだいぶ下がって来て、山の木々も色付いてきた。
落葉にはまだ早いが、少しずつ山仕事を開始することにした。
長年手入れをしないできた山は、篠が繁茂し薮が深くなってしまい、容易に人を近づけない。
この篠薮を少しずつ刈りすすめて、中にある杉や檜の木を切り倒すことから作業が始まる。
単に刈り倒すだけであればまだ容易なのであるが、この倒した篠やら木立を片付けながら、つまりは薮から平地に引き出しながら、ことを進めるのは言うほど容易ではない。
引き出したあとは、これらを燃やす。
燃やしながら仕事をすすめないと、置き場所がなくなる。
薮を切り開き、木々を切り倒し、運び出し、燃やす。
現代社会にあっては、なかなか体験できない作業であろう。
涼しくなったとはいえ、体中から汗が流れ落ちる。
悪戦苦闘しながらも薮を切り開く作業は、『開拓者精神』をいたく昂揚させる。
切り開いた先に、向こうの明るい場所が見えたときには、思わずやったと言いたくなる。
些細なことだが、妙な達成感がある。
そして次第にきれいに、清々しくなって行く山の姿を見ていると、山も喜んでいるような気がするから不思議である。
またこれらの山々をきちんと手入れし、その恵みを受けて大切にしてきた代々の先祖に対して、申し訳が少し立ったような気もする。
そして切り倒した木々を投入して燃え盛る火を眺めていると、何か懐かしいような、心が古代にワープするような、不思議な錯覚にとらわれる。
遥か古代の縄文時代のころも、きっとこのような『火』を眺めて生活が営まれていたのであろうなと考えたりする。
(当地のような田舎ではつい40年ほど前までは、木を燃やして得られる火を生活の中心に据えていたのだが。)
生木も燃えてしまう火力である |
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