盂蘭盆会、盂蘭盆とも言うが、一般的に『お盆』だ。
東京など新暦の地方では、7月にお盆としているが、どうにも違和感がある。
やはりこの暑い最中に、お盆の飾り付けをし、墓参りをし、先祖の供養をするというのが小さいときから染み付いた習性となっている。
この時期に太平洋戦争の終戦記念日が重なっていることも、祖霊を弔う意味では重要なことなのかもしれない。
墓を掃除する、庭を掃き清める、飾り棚を整える、提灯を吊るす、位牌を並べる、・・一連の流れがすべて先祖を想う気持ちに繫がる儀式である。
墓石に先祖がいるわけではない。
位牌に魂が宿っているわけではない。
先祖の魂はそこここに宿っているはずであり、子孫のわれわれを見守っていてくれているはずである。
であるが、何かしら目に見える形のものがないと人間は不安であるために、位牌であり、墓があるのだろう。
きわめて素朴な精神の発露である行事だ。
これらを大切に守ってきた先祖代々の精神を想う。
代々守られてきたからこそ、この今があるのだ。
この縁があるから、われわれの生もまたある。
これからも形は少しずつ形は変わるだろうが、この精神性はこの田舎には行き続けるのではないか。
旧家では自宅に祭壇を設け、提灯をいくつも吊る。 古い家では位牌も数多く並ぶことになる。 野菜・果物も並べられる。 |
家人はそれを向かえ、お参りしてもらったことの礼を言う。
当然ながら近しい間柄であり、知った顔々であるが、改めて挨拶しあい、しばし世間話をする。
これも、いやでも地域で共に生きてゆかざるをえなかった、生活共同体として一族の結束・絆を固める大切な行事として続けられてきたものだ。
これらの昔ながらの儀式を見ていると、すでに廃止されて久しい『家』制度が、形を変えた『封建制度』が、いまだ形を変えて健在なのだと感じる。
家長が墓と家を守る。
本家があり、分家があり、それぞれがそれぞれの位牌を拝むことで、一族の安泰を祈る。
きわめてプリミティブな儀式なのである。
盆提灯は一種の芸術品だ。 造作・図柄、なかなか精巧な造りだ。 灯り(今は電球である)が点ると、電球の上の筒が、 熱せられた気流で回り、走馬灯になる。 絵柄が変化し、幻想的な雰囲気になる。 |
今日は、県南に住む兄弟が墓参りに訪れた。
あわせてブルーベリー園でブルーベリー摘みを楽しんでもらった。
野菜販売所はお盆期間中は休む予定のため、いまブルーベリーは完熟粒がたくさん摘まれないままとなっている。
短い時間ではあったが、大粒の完熟ブルーベリーをたくさん収穫でき、十分に楽しんでもらえたたようだ。
これも、この大地をこの世代に引き継いでくれた先祖のおかげであり、結縁に違いない。
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