2011年8月21日日曜日

常陸秋そば栽培 (その1)

お盆が終わり、いよいよ『常陸秋そば』の播種の時期となった。
今日は小雨が降る生憎の天気であったが、種まきを行った。

         

かねてよりこの『常陸秋そば』を、わが畑で、まとまった面積で、栽培してみたいと考えていた。
せっかくの有名ブランド『常陸秋そば』の主たる生産地で農業を営んでいるのである。
十分な土地もあるのである。
ついでながら、蕎麦を打つ技術も、さる蕎麦打ち教室に一年近く通い十分習得している(・・つもりである)。

だが、栽培する畑の準備が整わなかったことと、そしてこの常陸秋そばの種の入手が難しかったことがあり、挑戦できずにいたものだ。


今回蕎麦を栽培する畑は、そのロケーションからくるアクセスの悪さから、長年耕作を休んでいた場所である。
日当りも水はけも肥沃さも申し分ない土地だ。
そのためにススキ等が密集してしまっていたため、作物を栽培可能な畑に戻すために何回もの草刈りとロータリーで表土の攪拌が必要となった。
やはりいったん耕作を止めてしまい雑草が繁茂した農地は、そう簡単には元に戻せないものだ。
この春までススキや雑草がビッシリと茂る原野だった
ここまで畑として回復させるには大変な労力を要している
昨年からこの時に向けて準備を進めてきたことで、どうにか播種する段階までこぎつけた。
今年は試しに栽培するつもりのため、3aほどの面積の畑に挑戦だ。

畝間は50cmとし、(真っ直ぐになるように)紐を張って、鋤で溝を掘った。
昨日からの雨で、湿った土が鋤にまとわりつき、結構きつい手作業となった。
大規模に作付けしている農家は、トラクター等の機械を利用しないと到底無理だ。
紐を張って種を播く溝を掘り進む
種を播く作業も当然手作業だ。
どれくらいの密度で播くのかは、種の入手先からレクチャーしていただいていたが、いざやるとなるといささか心もとない。
やはり指先の感覚というのは、話を聞いただけでも、書物を読むだけでも、正しく習得できるはずがない。
常陸秋蕎麦の種
播かれた種
         

こういった手作業で大切な『身体の感覚』というのは、便利に機械化してしまうことで、つまりは効率化を優先してしまうことでいとも簡単に忘れられてしまう。
田植えの微妙な指先の動きにしてもそうだ。

農業に限らず大切なのは、この手なり足なりの感覚をしっかりと身体が覚えて、その後に理論が肉付けされて、ひとつの文化として後世に伝えられてゆくものだ、と思うのだが。
最初から便利な機械に頼ってしまうと、人間は本来持っているはずの本能を忘れ退化するのではないか。
原理原則もわからないままに、出て来た結果だけを信じ込むことになる。
何でも簡単に検索できたり、計算できたり、処理できたりするパソコンも、甚だ便利ではあるが、使い方をよく考えて使ってゆかないと、人間の人間たる考えることがおろそかになり、頭脳が退化する。
使いこなすべき機械のはずが、逆に機械に振り回されることになる。
いざ停電となったときに、アタフタするだけで何一つ動けない人間が出来てしまう。
高度情報化の進んだ先の、悲しい結末ではないか。
これは思考することを停止した人間の単純な機械化・システム化に対する警鐘である。

農業はこれらの対局にあるものだろう。
身体を使い、自然と向き合う農作業をしつつ、いろんなことを考える。
自然は忘れてはならない大切なことをたくさん教えてくれる。


         

どうにかすべての種を播ききった。
土の温度も高いし、湿り気も十分だ。
この分だと、直ぐに発芽するだろう。
これからおよそ100日後、11月中旬には刈り取りの時期を迎える。

それまで我々は、すべてを天に任せるしかない。
人間が出来ることなどはほんの少しだ。
無事、播き終わった蕎麦畑
つい人間は傲慢になって、何でもできると過信してしまう。
自然の前ではもっと謙虚であるべきだ。
自然は何も語らないが偉大な師である。

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