難しい理論はさておき、季節の流れの中で、いま必要とされる当たり前の作業を、当たり前に行っていることがどれだけ素晴らしく幸せなことであるかをつくづく感じさせられる。
ほかでもない、収束の兆しも見えないあの福島原発事故で、避難を余儀なくされた農林漁業の人々のことを想うと、である。
田畑あるいは漁場を、いきなり放棄させられ、そこにふたたび戻れる見通しさえも立っていない。
いい加減な気持ちで続けられる一次産業では無い。
土地に対し永続的に資本と労働を投下して成り立つ産業である。
ましてやその地は先祖代々の苦労が染み付いた大切な土地であり漁場である。
これらの土地や海を突然に取上げられた方々の悔しさ・無念さを思うとき、胸が痛む。
農家の人は、どんなことがあっても、どんな所に行っても、土地さえあれば生き抜いていける、生き抜くんだという自信を持っている。
逞しい魂を持っている。
必要なものは買わなくても手に入れられる安心感、大地とつながっているという安定感がある。
しかし、その土地が取上げられたとなれば話は別だ。
無念さは、きっとここからもきているはずだ。
放射能汚染された土地についての除染方法が、事故対応と平行して検討されている。
放射能漏れが収束したとしても、そのあとの土地の除染作業は気の遠くなるような作業だろう。
おそらく除染に必要な時間は、天文学的数字ではないのか。
その間、これらの土地は耕作放棄地である。
いったん手入れを失った土地を、耕作可能な元の状態に戻すのは決して容易ではない。
容易ではないが、止めるわけにはいかない。
止めるはずがない。
農家の土地に対する熱い思いが、困難を乗り越え実現可能にさせる。
茨城のこの地も、決して安穏とはしていられない。
同じ農家として、不安は同じだ。
いま我々に出来ること。
福島を想い復興を祈ること。
ともに頑張ること。
カエル・・・帰る・・・変える |
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