その両清流の間の段丘が旧大宮町の大部分にあたる。
従って、この街に住む人々にとっては親しみのある河川である。
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西の清流・那珂川には鮭が遡上する。
長い間、鮭が遡上する川の南限と言われていた。
(現在では、九十九里浜の中ほどに河口がある千葉県山武郡の栗山川でも遡上が確認されているし、神奈川県内でも目撃例があるという)
また、ここ茨城で獲れる鮭は、常陸風土記にも記載が見られるほど昔から有名なのである。
時代は下るが、かつて水戸藩では那珂川の初漁の一番鮭を、新年に京都の朝廷に進献するという特別な行事があった。
初代水戸藩主徳川家康の十一子頼房が、寛永5年(1628年)に朝廷と幕府とに那珂川の鮭を献上したことが記録されて以来、光圀をはじめ歴代の水戸藩主は、初漁の一番鮭を塩引鮭に仕立て、早飛脚をもって朝廷に進献した。
そのあとで、藩主以下が鮭を食膳に乗せて馳走になったという。
この那珂川の初鮭を新年の宮中に献上する慣礼は、戦後も水戸徳川家に伝わっているようだ。
かように、歴史的にも意義のある、大変有難い存在としての鮭なのである。
毎年、自分が生まれ育った川に、立派な成魚として帰還してくる。
この単純だが素晴らしい本能には、ただただ驚くばかりである。
◆◇◆◇
もう一方の東の清流が久慈川である。
ここにも鮭は遡上しているが、それよりも有名なのは鮎であろう。
一般的に鮎は母川回帰の習性があると言われている。
生まれ育った故郷の川に戻ってくると言うのだ。
だが、言われているだけでどうやら科学的な裏付けはまだ無いようである。
( 出典⇒高知県友釣り連盟のHP: http://www3.inforyoma.or.jp/ayukochi/ayu.seitai/ayuseitai.htm )
ではあるが、そう信じたいのが人情ではないか・・・な。
久慈川は東日本屈指の鮎釣場と言われている。
万緑につつまれた清流に身を浸し、釣糸を垂れることは友釣りファンにとっては無上の喜びらしい。
彼ら太公望もまた、解禁の日を待ちわび、自分の密かなる釣り場に戻ってくる習性がありはしまいか。
鮎共々、DNAに刷り込まれた何かがあるらしい。
岩井橋から望む久慈川 太公望が2人ほどいる |
流れの中、腰まで浸かりながら「無上の喜び」を感じでいるのだろう この趣味を持たない人には到底理解できない悦び・歓び・喜びなのだろう |
そしてもうひとつ。
久慈川に、俺は帰ってくるぞ、と叫んだ男がいる。
たったそれだけのことだが、歴史に名を残すことになった。
名を久慈郡出身の丸子部佐壮(まるこべのすけお)という。
天平勝宝7年2月14日と言うから、いまから1256年前、西暦755年のことである。
彼は九州に赴く際に、次のように詠んだ。
(万葉集 巻20-4368)
久自我波々 佐氣久阿利麻弖 志富夫祢尓 麻可知之自奴伎 和波可敝里許牟
書き下し 久慈川は 幸くあり待て 潮船に ま楫し じ貫き 我は帰り来む
読み方: くじがわは さけくありまて しほぶねに まかぢし じぬき わはかえりこむ
口語訳: 久慈川は何事もなくそのまま待っていてくれ。海の舟に左右の櫓を沢山取り付けて
口語訳: 久慈川は何事もなくそのまま待っていてくれ。海の舟に左右の櫓を沢山取り付けて
私は帰ってこよう。
(桜井満訳注 旺文社全訳古典撰集「万葉集(下)」による)
(桜井満訳注 旺文社全訳古典撰集「万葉集(下)」による)
この万葉集の防人(さきもり)の歌が刻まれた碑が、久慈川に掛かる幸久橋のたもとに建っている。
写真出典 : 磯城島綜芸堂様のHPより |
はるか九州沿岸の警備の任に赴く東国の若者たち。
防人である。
飛行機が、新幹線がある今でも、遠い九州である。
当時は当然歩いて行くしかなく、それだけでも大変だったであろう。
任期は最低でも3年。長い。
唐が攻めてくるかもしれないという緊張感が続く。
病気の心配だってあっただろう。
東国に残す家族のことも心配であったろう。
通信手段は無い。
そして何よりも生きて帰れる保証など無い。
当時の旅立ちは、死をも覚悟した、まさに悲壮感漂うものであったろうことは想像に難くない。
そんななかで、彼はあたかも人間に語りかけるように久慈川に対して「いつまでも変わらずに待っていてくれよ、久慈川。俺はでっかい立派な船で凱旋してくるからな、必ず帰ってくるぞ」と語りかけ、詠んだ。
悲痛な叫びにも、あるいは勇気を奮い立たせているようにも思える。
◆◇◆◇
JR水郡線の太田線河合駅の西にある常陸太田市立幸久小学校には、『かえりみの塔』として彼の姿が像になっており、台座にはこの句が刻まれているそうだ。
(残念ながら、学校敷地内のため現物は確認できていない)
「みんな、いってくるぞ~。必ず帰ってくるからなぁ~、待っててくれよぉ~」と、手を振り大声で叫んでいる姿である。あたかもその声が聞こえてきそうな姿だ。
写真出典 同上 |
ところで、丸子部佐壮氏は無事帰還できたのであろうか? 残念ながら記録は無いようだ。
いつの時代にも、人を魅了してやまない悠久の流れ『久慈川』である。
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