常陸大宮市内の史跡には、中世にこの地を支配した佐竹氏の城跡が幾つかある。
城跡というと、『姫路城』や『大阪城』など立派な天守閣や石垣があってお堀には水がある姿を想像するが、江戸時代以前の中世の時代の城はどちらかというと、館(やかた)的なものであり、石垣がある城は少ない。
特に茨城県北部地域では、山や川や崖などの自然の地形を巧みに利用して作られている山城的なものが多く、石垣も水堀もない。土を盛った土塁と深い濠がせめてもの防御設備だ。
市内の部垂城、宇留野城、前小屋城、小場城などが代表的なものだ。
部垂城は現在の大宮小の敷地部分であり、ほとんどの遺構が消滅している。
その面影を想像するのさえ難しい。
さらに今年の3月11日の地震で、小学校正門横に立てられていた立派な部垂城史跡説明石碑が台座から転げ落ちてしまった。
宇留野城と前小屋城は、部垂城の南、ほど近い場所にある。
久慈川を見下ろす位置だ。
近距離ではあるが、開発による破壊はほとんどなく、比較的保存状態は良い。
大場城はほとんどの部分が耕地となっていて、さらに本丸部分には民家が建っているものの、保存状態は良いほうだ。
この城跡は那珂川の河岸段丘の舌状台地先端に作られている。
天然の要塞の感がある。
いずれの城跡も空堀の深さ・幅・土塁の高さなどは、なかなかに見応えある遺跡ばかりである。
それぞれの場所には簡単な説明板が立てられており、概要を知ることができる。
遺跡の前に立つと時空を超えて佐竹時代にワープできる気がする。
何代にもわたって数々の武士たちがここを舞台にして、歴史を作ってきたのだ。
あるときは死闘を繰り広げたであろう。
その怒号も聞こえてきそうな気がする。
喜びに沸いた時も、悲痛の涙と無念さに満ちた時もあったに違いない。
城跡とは、特にそんな武士(もののふ)達の怨念が濃縮された場所である。
まあ、興味のない方にとっては城跡も、単なる林の中の土のデコボコでしかなない。
何が面白くて薮の中を歩き回るのか、到底理解できまいが、それは致し方あるまい。
興味があったらぜひ訪れてほしい。
同じく佐竹氏の時代の話であるという。
市内には『弾正塚』なるものがある。
ここにまつわる話が常陸大宮市のHPに紹介されている。
大宮地域の民話 第13話 弾正塚
史実として疑わしいのか、民話の中に入れられている。
で、その塚は今どのような状態にあるかというと、悲しいものがある。
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南から田子内坂を望む
右手が大宮一中の入り口である
弾正塚は信号機左の林の中にある |
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正面の高い木の下にある
駐車してある工事車両の後ろ脇だ |
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これが弾正塚。石の碑が建つ。
草木に覆われており、手入れされているようには見えない。
近寄りがたき状態だ。
ここに存在することさえ知らない人が多い |
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弾正塚の由来について書かれた説明板
読み取れない部分が多すぎる |
市の財政が余裕が無いのは理解するが、数少ない歴史的な遺構であるからして、もう少し整備してもよいのではないかという思いが強い。
直接的な金銭効果や、活動の評価に繋がらないことには、この街のカルチャーとしてはお金を使いたくないのだろう。
文化面・教育面よりも、もっと優先すべき大切なものがきっとたくさんあるのだろう。
あるいはこういった歴史をご存じないのかもしれない。
そうなると地元の歴史についての長年の教育の貧困か。
根は深い。
幕末から明治維新の時に、どんなに貧しく食べるものに困っても、将来を背負う人材育成のため、教育のために米百俵を惜しまなかった新潟長岡藩のあの『米百俵』の逸話が思い起こされる。
そんな高邁な理念はなくとも、説明板を読めるようにし、草を刈り、案内板を立てるだけで十分だろう。
まさに草葉の陰の弾正は、いかなる想いでいるだろうか。
彼の崇高な魂は成仏できず、いまもあの田子内坂あたりの林の周り徘徊しているような気がしてならない。
いつもこの坂を通り過ぎるときに心の中で手を合わせている。
それにしてもである。
嗚呼 弾正塚