秋晴れの下、今日も倒れた稲と泥と格闘した。
日が照るとまだ暑いが、流れる汗も秋の乾いた風に心地よく感じる。
刈り取った稲束をオダに掛けていると、道ばたに止まった車から男性が降り立ち、いきなり声をかけられた。
詳しい経緯は省略するが、この男性は稲藁のブローカー(仲買人または仲介業者)である。
田んぼにオダ掛けしてある稲藁を見つけては、その周辺で作業している農家に声を掛けてまわっているようだ。
年々、我が家のように稲束を天日干しにするような農法を行っている農家が減少している。多くの農家はコンバインで稲刈りし同時に脱穀するが、脱穀された稲藁はバラバラに細断されて田んぼにまき散らしてしまう。農家の高齢化と『おひとりさま農業(*)』化が進み、労働力の集中投下が必要なオダ干しなどは続けられないのである。
良質な稲藁が少なくなってきている所以である。
(*)
おひとりさま農業
農作業において妻や子供など家族の協力をまったく得られず、仕方なく男性ひとりで農業を続けている農業形態。中山間地域の小規模農家・兼業農家に多い。また特に子供が娘だけの農家によく見られ、後継者不在という重たい課題がある場合が多い。自身の体力との兼ね合いからあと何年続けられるか不安を抱えており、悲壮感が漂うのが一般的である。これらはいわゆる廃農予備軍であり、この層の廃農が進むと農村の荒廃が加速すると指摘されている。現代の日本農業が抱える構造的な問題といえる。
かの渡辺ヘルムート氏の『ひとり農業』とは表面的には同じだが、農を楽しむ姿勢や将来に対する希望において、全く異なる。
藁を必要とする業種に、土産物として水戸駅・高速SA等で売っている『藁つと』に入った納豆を製造している会社がある。あの『藁つと』を作るために納豆製造会社は品質の良い藁を求めている。ただ、製造会社が直接田舎に出向いて藁を買い求めるなどはせず、稲藁の専門業者から調達する。農家と稲藁専門業者の間に登場してくるのが、この仲買人・ブローカーである。稲藁専門業者も直接は田んぼ回りはしないはずで、それぞれの地域を担当するこのような臨時のブローカー業者が活躍するのである。入手量は彼らの手に委ねられる。需要側としても必死なのである。なにしろ少なくなる一方のパイの取り合いであるから。
今日のこの来訪者には、心底頭に来た。
一言の挨拶さえなく、いきなり『そこの田んぼの稲藁はお宅の?』という唐突な質問から始まり、『藁を売る気ある?』『あんたはここの家の人?』、『藁を売るの? 売る先、決まってんの? どこ?』・・・。
はぁ??????????
なんだこの人は??
見える限り周囲には小生だけしかいない。どうやら他の人に向かって質問しているのではなさそうだ。
何もブローカーという業が悪いと言っているのではない。
われわれも農業で使う分以上の藁が売却できて現金収入を得られるということは、メリットある事だ。現に、毎年引き取りをお願いしている業者がいる。このお願いしている業者はごく普通の人たちである。
問題は、初対面の人に対する最低限のマナー、常識の片鱗もないこの男性固有のことである。
自分が求めるものを売ってくれるかどうか、交渉の端緒を開くことがまず最初ではないのか。そのためには、まずは初対面の挨拶(および労働の手を止めさせた詫びのひとつくらいあってもいいだろう)があり、自らをしっかり名乗るなりして、おもむろに声掛けした要件を手短に伝える、というのが第一段階のセオリーではないのか。そういうふうに礼を尽くして出られたら、当方だってしかるべき対応をする。
このような社会的な訓練がなされていない可哀想な人は確かにいる。なので、そのことについてはあまり怒ってはいない。ただ不憫には思っているが。
小生のこゝろは意外に広いのである。
逆鱗に触れたのはこの男が農家を明らかに見下していることである。そしてそれからくる高圧的な態度である(風貌も確かに胡散臭いものを感じたが、人は外見では判断してはダメだとかつて教わった)。
『(藁を)買いに来てやっている』
『条件なんか言う立場か、何が不満なんだよ』
『こうやってわざわざ来てやってるんだから、早くOKしろよ』
『お前らみたいな泥だらけ・汗まみれの肉体労働者とはオレは違うんだ』
・・とかなんとか心の中で言っているふうで、言葉に態度に如実に現れていた。
相手にする価値無し、と感じさせるに十分な彼だった。
当方が素っ気ない態度で無視を決め込んだら、交渉無理と悟ったのだろう、すぐに立ち去った。
あとで家人に風貌や話の特徴を告げると、以前にも我が家に来たことがあって同じように失礼千万だったので追い返した彼に間違いない、とのこと。
あんなふうでどれだけの農家が彼に売り渡すものだろうか。でも、毎年この辺りを回っていて声を掛けているらしいから、結構商売になっているのかもしれない。とすれば、あんな声の掛け方で交渉に応ずる農家もいるということか。どっちもどっちなのかもしれない。
稲藁も、納豆屋が求めたり、酪農家が牛のエサにしたり牛舎の敷き藁にしたりするのに必要、とまだまだ需要はある。
いずれの場合でも、仲買業者に引き取ってもらっても、放射線量の検査後にしか正式な価格が付かない。
福島原発事故はここにも影を落としている。
この自然相手の仕事もプライドを持って続けている訳だし、ひとから見下されたり、同情されたりする謂れはない。
ああ、それにしても怒りが収まらない。
(・・・『おひとりさま農業』は小生の造語である。為念。。)
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稲刈りとオダ掛けの風景 |