回数は減った感があるが、他の地域に較べるとやはりまだ多い方だろう。
比較的震度が小さいからまだ良いとしても、また3.11のような大きなものになるのではないかと、揺れ始めはいつも心配になる。
南海トラフ巨大地震が起こった際に想定される予想津波高や浸水域を事細かに示した日本全図が今年の3月に公表されたことを、まだ皆さんも記憶に新しいだろう。
対象とされた地域の人々は自分の住む場所の色分けを見ながら、思いは複雑に違いない。
日本列島はいろんなプレートがせめぎ合う場所に位置しているため、どの地域でも地震は多い。このような列島で生活していかねばならぬ以上、地震と賢く付き合う以外に手はあるまい。
2012年3月11日(東日本大震災のちょうど一年後)のブログにこう書いた。
(東日本大震災の直後には)超高層の建物に人が住むことを巡る議論があったやに記憶する。ガラスを多用する建築の危険性や、高層難民の問題も各方面から指摘されていた。あれらはどうなったのだろうか。
いまもなお、何事もなかったように高層ビルの住居は高級住人の代名詞である。
不思議でならない。
また、高さや巨大さをもてはやす空気は、依然としてこの社会を覆っている気がする。(昨年に、東京スカイツリーが完成して世界一の高さとなり、喜ぶ人が多かったようだ。また、最近竣工した東京駅周辺の高層商業ビルはおしなべて全面ガラス張である。エレベータの昇降さえも外から丸見えだ。これらを多くの人が美しく機能的と感じているのだろうと思う。タワーでもビルでも、耐震であろうが免震であろうがいざ大地震となったときには機能不全に陥るのは避けられないと思うが。)
悲しいかな、揺らぐ大地に生きて行くことを宿命づけられた我々である。
いつどこであのような震災が発生するか分からないのである。
であれば、巨大で複雑な社会システム(・・・これらは維持するのも莫大なコストを費やすのであるが・・)を構築して喜ぶよりも、もっと小さいシステム、身の丈に近い寸法を価値基準にして生きることのほうが、ずっと幸せに繋がるのではないだろうか、と思う。
自然の制約に逆らうのではなく、自然に添いつつの、いわば牧歌的に生きる文明の方向が、必ずあるはずである。
いい加減に目を覚まさないと手遅れになる。
無理矢理に目を覚まさせられるときがくるであろうことを、皆は薄々気がついているはずだ。目を背けていてはならない。まだ間に合う。
不便でも、快適さに欠けても、真の豊かさがある、そんな所だ。田舎は。
文明の成果としての科学技術による便利さ・快適性を否定するものではないが、それを盲目的に過信し頼り過ぎることだけは避けたいと思う。
なんでもかんでも便利で快適にし過ぎると、人間の思考能力や本来持っている適応能力が減退してしまう。そのためにも、不便をあえて受け入れるストイックな生活も大事であろうと思う。
福島の原発事故は、放射能事故というものがすべての生命体にとってあまりに暴力的過ぎることをはっきりさせた。
福島においてもがき苦しんでいる状況の中にあって、南海トラフ巨大地震が発生し、仮に中部・西日本・日本海側にある原発で更なる大事故が起こったとしたら、国土の狭いこの日本はどうなるか。終わってしまうぞ・・ニッポン。
そんな事態にまでならないと、都市生活の快適さ・便利さを支える『物質至上主義・巨大技術信仰』の破たんは頭とともに体で理解できぬのかも知れぬ。
いまこうやっている間も、福島では高い放射線量の中で、廃炉作業や汚染水処理とエンドレスに戦っている人たちがいる。
大都市部の人々は原発事故が対策見通しさえ立っていない危機的状況であることを報道で知りながら、それを他人事として安穏と生活している(と見える)。面倒なもの・厄介なものは目に見えない遠いところに置いておき、意識から遠ざけておくかのようだ。本当に怖いのは無関心だ。
遠いよその国の話ではない。オリンピック招致に際して外国メディアが問題視するのは当然だろう。
茨城だって『東海村』があるので、けっして他人事ではないから、強くそう思う。
このような思いを強くしているのは、ホタルやミツバチたちとの共存を経て、彼らの訴えている声なきメッセージを感じ取っての影響が大きい。
人間が(むろん他の動植物たちもだが)真に幸せに生きてゆける環境とは、という重たい命題。
答えは皆も分かってることで明快なのだが、いまの社会ではただの理想的空想論でしかない。
そんなことは百も承知だ。現代の日本人が明治・大正以前の生活などに今更戻れるはずがないのだから。
甚だ自分勝手だが、他人の事はともかく自分だけは理想的空想論かもしれないがやれることをここで実践することにしている。しかも楽しみながら。
精神的にも肉体的にも健康で、充実した生活を生涯送るために、だ。
興味も関心もない人まで巻き込むつもりはないが、少しでも心ある人にはその活動としての農的生活・里山ライフをプチ体験できる場、ここを門戸開放したいと考えている。
これは勝手な想像だが、金スマ・ひとり農業の渡辺ヘルムート直道氏も、あの場所で同じようなことを感じながら生活されているではないか。
あながち見当外れではないような気がする。
不幸にも災害が発生し、避難を余儀なくされることがあるかもしれない。
そんな時、田舎と何の由縁もない人たちはどこへ行ったら良いのか戸惑うことだろう。
だが、一度でも訪れてその土地の人と多少なりとも御縁があれば全く違うはずだ。
いざというときのためにも、田舎と繋がることは価値あることだと思うが、どうだろうか。
万が一の時のためにも、自分の生き方を見直すためにもだ。
きっかけはどんなでも良いと思う。
と言う訳で、これからの時代はSmartでCreativeな里山ライフだ(持論)。
玉川村駅構内に下り水郡線列車が入ってくる。 日差しはまだまだ強くて暑い。 静かな真夏の昼下がりの風景だ。 周囲にはのんびりとした里山が広がっている。 |
0 件のコメント:
コメントを投稿