2013年8月31日土曜日

ブルーベリーのシーズン終了

暑かった8月も今日で終わる。
と同時にブルーベリーがシーズンを終えた。

狭い園ながらも今年もたくさんのお客さまをお迎えした。
昨年に比べ倍増である(・・ただもともとの数字が小さい)。
市内はもちろん東京・千葉からのお客さまも。
リピーターの方もいれば初めてお越しの方も。
いろいろなところから、いろいろな年代の方がお越しになり、楽しまれた。
お迎えしたホストとしては摘み取りを楽しんで、笑顔とともにお帰り頂いたのが一番嬉しい。
摘み残った粒は大きくて甘い
枝になっているブルーベリーの実を見たのも摘むのも初めて、という方も結構いらっしゃる。初めての人には感動ものらしい(ブドウのように房でなっているものと思っておられる方が多い)。
ブルーベリーは意外と摘み取るのに手間が掛かるのだが、そんなこんなも自ら体験して初めて知ることだ。

スーパーの店頭に並ぶ野菜・果物、そのすべてが必ず誰かしら生産者がいて、何人もの人の手を経由して、そこに陳列されている。
生産する農の現場と消費者の距離が遠くなった(互いの姿がよく見えない)ことで、弊害が出てきているのではないか。
その距離を縮めるのも我々の役目であり、目指す農の姿だろう。
このあたりのような大規模になれない中山間地域での農業が生きて行くためには、6次産業化しかあるまい、というのが信念だ。

多くの人をお呼びするにはまだ力不足だが、次第にノウハウは蓄積しつつある。
来年、再来年と充実させて行きたいものだ。

         

当果樹園の次の果樹は『栗』であり、間もなく出番となる。
たくさんの青いイガが枝に付いている。豊作ではないかな。
また多くのお客さまがお越し頂けると嬉しい。

2013年8月29日木曜日

古代ハス 花托を収穫した。が

この夏は、古代ハスの花が目を楽しませてくれた。
開化して4日ほどの短い命。
酷く暑かった8月の、一服の清涼剤であった。

青々としていたハスの田んぼも間もなく稲刈りとなる。
花が散った後の『花托』は一足先に枯れたため2つを切り取った。
そしていよいよ次は、種から発芽させて株を増やす実生に挑戦だ・・と意気込んだ。
花托 まるで蜂の巣だ
幸いなことに、ハスの種子からの栽培については、他の方の今までの試行錯誤のデータがネット上に公開されている。それらを参考にしていろいろとプランを練ってきた。
来年の春に計画をスタートするつもりでいた。

・・・なんとなく感じ取ってもらえるだろうが、表現が失望感というべきか敗北感が漂う過去形である。

花托の穴には一個ずつ種がはいっている。
入っていた種は2つで計40個ほどだ。

それらを調べてみたら、全て中は空っぽだった。


ネットで読んだ種子から育てたという参考記事によれば、種子はとても固いとのことだが、今回穫れた種は爪で容易に割れた。そして中味は空洞。
調べて分かったのだが、ハスは『雌性先熟』を特徴とする『他家受粉』の植物であるようだ。
つまりは、そもそもオスとメスの花が無いと受粉は無理なので、このように数が少ないと雄花・雌花が揃わなかったのだろう。・・分かれば単純なことだ。
そのうえハスは、自家受粉を避ける仕組みを発達させていて、雌花が先に熟し(つまりは雄花は後で熟し花粉を出せるようになる)、他から運ばれる雄花の花粉しか受け付けない。
したがって同株の雄花からの受粉は行われない、ということだ。
別な株が無いと実は付かないのだった。

ということで、今回は花を楽しめただけで実生の挑戦はまたの機会にお預けである。

この結果を受けて、来年は何としても対策を講じたいと。
→どこかから開花した大賀ハスの花粉を採取して持ってくるほかあるまい。
 いや、種を正式なルートで入手するほうがまだ容易であろう。
  ・・などなど思いは巡っている。

将来、皆さんにお分けできるほど増えて、いろんな場所で『古代ロマン』をともに愛でられる日が来ると嬉しい。
(・・・かつてお分けしたヒマワリの種。こちらの方はお持ち帰りになった皆さまが多数おられて、それぞれの場所で種を蒔いて下さり花を咲かせているようだ。ほんとうにありがとうございます。。)

ちゃんと受粉できて、こんな可憐な花が身近にたくさん咲くといい。

2013/07/31撮影

2013年8月27日火曜日

株分けキンリョウヘン

昨年の9月にニホンミツバチが好む『キンリョウヘン』という蘭を株分けした。
 → 2012/11/22ブログ

ニホンミツバチの捕獲に多くの人が使っている蘭で、巣箱にハチをおびき寄せる大切なアイテムだ。
一昨年目の当たりにしたが、この蘭の花の周りにはおびたたしい数のニホンミツバチが自然に寄ってくる。なにやら特別な匂いが出ているとのことだ。

この蘭を、ニホンミツバチの分蜂(4月~5月ごろに、女王蜂が群れを作って巣を出て新しい巣を作る場合がある。群れ分けである。)時期に合わせて咲かせることが捕獲のポイントでもある。

今年の春は蘭が咲かなかった。
昨年、1鉢を3鉢に株分けしたのだが、うち1鉢は寒さで枯れてしまった。
残り2鉢も、根をバラバラにされ体力を消耗したのだろうか、今年は花を付けることはなかった。
ということもあったのかも知れないが、今年はニホンミツバチの捕獲は失敗している。ミツバチが棲みついているのは、依然ひと箱のままだ。
 
         

株分けし生き延びたキンリョウヘン2鉢は、その後次第に元気を取り戻しつつある。
新たな芽が出て、順調に葉を伸ばしている。

来年の分蜂時期にちょうど花が咲くように、水やり・温度管理をしてゆくことになる。
今年の(くやしい)失敗は来年に繰り返さない。

2013年8月25日日曜日

セミの抜け殻、雌雄判定方法

ニホンミツバチの入居を心待ちにして春に設置した重箱式巣箱4台は、いまもって空である。
いまこれら巣箱は、悲しいかな、セミたちの格好の脱皮所としての役目を果たしている。
どの巣箱にも一台あたり5~6個のセミの抜け殻が付いている。
入居をひたすら切望したミツバチは入らず、抜け殻だけがへばりついている姿というのは何とも皮肉な図である。

セミの抜け殻は別名『空蝉』という。そしてまたこの世に生きている人間のこと、転じてこの世そのもののことの意味もある。
なんとなく哲学的だ。

(注)セミの幼虫は、なにも巣箱を特別好んでよじ登ってきて脱皮している訳ではない。巣箱は杉板で作られているためくっついている抜け殻が良く目立つだけで、実際には周囲の木々の幹やら枝やらにも多くの抜け殻が確認できる。
そこらじゅうにセミは卵を産んでいるだろうから、土中を這い上がってきたらたまたまちょうど良い巣箱があった、ということだろう。
ここはそんな場所だ。
そこここに抜け殻がくっついている。
だがどうしてわざわざ逆さになるのが多いのだろうか・・
         

セミの抜け殻も、オスメスの判定ができる。
興味ある方は次のHPを参照し、セミの抜け殻を手にとって眺めてみるとよい。

セミの抜け殻、雌雄判定方法

2013年8月24日土曜日

もち米の花

コシヒカリは既に稲刈りを待つ状態になっているが、同じ日に田植えした『もち米』は、穂がちょうど花をつけている。

このようにもち米は少しだけ収穫時期がずれる。

モチ米の花
 
こちらはコシヒカリ
御承知のことと思うが、お餅にする米=もち米に対して、普通にご飯にして食べる米を『うるち米』と呼ぶ。分類上の言葉である。

米粒に含まれるデンプンの成分が異なるため、粘りの差異が発生する。
・うるち米のデンプン = アミロペクチン75~85% ・ アミロース15~25%
・もち米のデンプン  = アミロペクチンほぼ100%
  詳しくはこちら → もち米とうるち米の違い

つまり、もち米はアミロースがないから粘るということ(・・だそうだ。実に勉強になる)。

ただ美味い餅を味わうに、難しい化学式などの説明は必要ない。
うまいものはうまい。それだけで十分であり、幸せである。

2013年8月22日木曜日

ハギの花が咲き始める

暑い日が続いている。
某日、屋外で軒下に吊るしてある温度計はわれわれのウンザリ感をよそに、平気でこんな表示をしていた。
こんな日はさすがに外での長時間労働は避けている。
37.5℃
確かに暑いのだが、暑さも極限を極めた後には必ず涼風が吹く。
 
         

植物は既に秋の気配を感じ取っている。
ハギの花が咲き始まった。

『そう言えば今年の夏は酷く暑かったなぁ』と振り返る日も近いようだ。

2013年8月20日火曜日

稲刈りの準備 水切り

稲穂が首を垂れ、黄色く色づき始まった。
このまま行けば、9月の初めには刈り取りができるだろうと思う。

稲刈り作業に向けて、田んぼを乾かす作業に入った。田の『水切り』と呼んでいる。
既に稲は水分を以前ほど必要としていない。
田んぼへの新たな水の流入を止め、いま溜まっている水を抜き、田んぼの土を自然乾燥させる。
ぬかるんだ田んぼには稲刈りの機械が入れない(・・・入れないことはないが作業しにくい)という事情もある。
これはよそ様の田んぼだが、きれいに脇に水路を掘って排水している

春先から何度も行ってきた畦の草刈りも最後になるが、これも合せて進める。
炎天下での大変な作業だ。

これからしばらくは、台風の心配をしないといけない。
どうか稲が倒伏しませんように。
乾かしている田んぼが再びの泥濘になりませんように。
祈るようなこれからの3週間が始まった。

         

田んぼ隣の畑では、先日種を蒔いた『常陸秋そば』が発芽している。

土の中に入れた途端に発芽スイッチがONになるのがなんとも不思議だ。
蒔いた後は、雨らしい雨も降っていないのでカラカラの土なのだが。
(と昼に書いたが、今日は午後3時半過ぎになって猛烈に激しい土砂降りになった。あらまぁぁ・・)
カラカラの畑に蕎麦の芽が出てきた

2013年8月17日土曜日

夏の臨時列車『風っこ奥久慈清流ライン号』とヒマワリ

今日(8/17)と明日(8/18)は、水郡線の水戸〜常陸大子間で『風っこ奥久慈清流ライン号』が運転されている。


いつもの列車の時刻以外に通過するために、体で覚えている列車運行間隔と違うのですぐ気づく。

朝、乗客がいない空っぽの風っこ号が常陸大子から水戸へと向かう(上り列車)。
そして、午前10時半頃だろうか玉川村駅を乗客満載の下りの列車が通過する。
なかなか人気で盛況だ。

午後3時、上りの風っこ号が帰りの乗客を乗せて、また玉川村駅に入ってくる。
この上り列車は下り列車と交換するため、しばし停車する。
上りホームに停車中の風っこ号。
今年も我が家の庭先のヒマワリ約1000本が花を付け、いまちょうど真っ盛りだ。
これだけがまとまって咲くと、なかなか見応えがある風景になっている。
昨年の風っこ号の運行日には、プロの写真家がヒマワリと風っこ号をセットで撮影したいとのことで庭先にお出でになった。

このヒマワリ、今日の風っこ号の乗客の目にも留まっただろうか。

2013年8月16日金曜日

スマホ病

スマホ(この言い方も好きではないが、いまや市民権を得た感があるので仕方ない)を使う人がやたらと増えている。
皆が皆全員、常時小さな画面を覗き込んでいる。片時も手を離すことも目を離すこともない。
きっとそれだけ魅力的なんだろう。
そんなにいつも得たい情報があるのかとも、そんなに誰かと繋がっていたい・話をしていたいのかとも、そんなにつぶやきたいのか、などと非スマホユーザー・ガラケー(ガラケーもスマホと同じく、略し方も語感も悪いので個人的には好きではない)で十分の小生は思う。
彼らは、スマホが手元に無い・画面を見ていないと不安で不安で仕方ないという状態なのだろう。
なんだか猿が与えられたオモチャを玩び、ひたすら遊びに耽っている姿に見えてしまう。
可笑しくもあり悲しくもある。
全員が一様に同じ姿勢でスマホを持ちにらめっこしている電車の座席の風景は、病的な様相を呈していると思う。
未だスマホの毒に冒されていないひと(多くは50代以上の人たちだろうが)は、いまの若い世代のそんな姿を苦々しく見ているのではないかと思う。
あまりにもかかる変化は劇的すぎたようだ。

テクノロジー、特にインターネットによって変化した情報取得のありかたは、私たちの思考プロセスにきわめて大きな影響を与えている。
思考力の低下が特に顕著だ、というのが小生の考えである。
つまり集団でバカになっている。それもかなり深刻に、と思う。

これらの技術を駆使し、膨大な情報を集め要約し、必要とする答えを見つける能力が長けてきていることは確かに良いことだ。
そのことによって『もっともらしいこと』あるいは『賢そうなこと』を言えるようにもなった。
このことが、集中して深くものを考えたり記憶したりするという能力を減衰させてしまっている、というのも事実であろうと思う。
情報が検索すればすぐ出てくる環境にいるのだから、何かを記憶し続ける能力も低下するはずだ。必要ない能力は退化するという例だろう。

知的生産の質というのは思考力と知識力を掛け合わせた面積である、と以前何かで読んだ。思考力が少なくても知識力(この場合は情報力)があれば、一応の面積が確保されるのが現代だ。
昔の人は情報や知識を得る機会が現代に較べはるかに少なかったものの、思考力を駆使してそれを補ってきた。幕末から明治にかけて活躍して日本の基礎を作った人たちなどはみなその典型だろう。

優れたテクノロジーと膨大な情報を得た現代の我々が、知的なアウトプットを導きだす思考力を維持できたとしたら、かの昔の人たち以上の知的生産ができるかも知れない。
と同時に、スマホ病(ネット中毒・SNS中毒)から解放されたら尚良い。

         

そのための対処方法として、まずネットから離る時間・日を持つことだろう。
とにかく一定時間、ネット・SNSから身を遠ざけることだ。無理してでもだ。
ネットの各種サービスは、確実に我々の時間を奪いさる進化を遂げ、我々の生活を蝕んでいる。
電車の中でも、降りたホームでも、エスカレーターでも、歩道を歩きながらでも、食事をしながらでも、トイレの中でも、われわれの生活を拘束まくっている。視力の低下もあるし、頸椎のゆがみも酷くなる。
触っていないと不安という精神の病だ。
その結果としてあわせて我々を注意散漫にしている。
会話でもひとの話は上の空、ホーム転落事故、脇見運転事故、家族との会話レス・・・。
私は大丈夫という方であっても、程度の差こそあれみな心当たりはあるだろう。
小生などは、基本的に屋外に身を置いて自然相手の作業をしているので、この時間はフリーだ。携帯電話も時間を確認する程度しか用はない。

そして対処方法の2番目として、文章を書くことは有為だろう。
一定の長さの文章を書く作業は、伝えたいことが正しく伝わるかを考えながら、句読点にも拘り、用語にも拘るとけっこう頭を使う作業となる。
自分の考えを深めて整理するということを伴うので訓練になる。
脳に汗をかくといったら良いのか、脳内の神経回路が複雑に生長する感じがする。
どのようにしてもっともらしい賢そうな文章を書こうかといつも腐心しているのだが、なかなか難しい。

そして対処方法の最後として、これが一番だと思うが、現場を大切にすることだろう。
PCの画面に出てきた情報は、あくまで誰かが提供した情報である。
それを見たから読んだからといって、それを本当に知ったことにはならない。
やはりできるものならば現場で実物に接して、生の情報に接し、匂いやら温度やら雰囲気やらを肌で感じることだろう。メディアでは伝わらない大切な情報がそこにはある。自らの五感で物事を実体験することだ。
わが農的生活はこの五感をフルに刺激してくれるし、現場に出ずして何ら仕事は進まないのである。ために毎日がやたらと刺激的である。

こういう訓練をしたり生活をしても、問題に直面したときに得る答えの見た目は変わらないのかもしれない。
しかし、しかし、同じ結論を得るのであっても、それが自分の脳をフルに使って考えぬかれたものである場合とそうでない場合では、その後の議論の力強さや、ある分野で得られた知識の他の分野への応用可能性などが大きく異なってくる、と思うがどうだろう。
これに早く気づいて舵をきった者が勝者になるはずだ。

         

小難しいメディア論になってしまったが、要は自然相手の『農』の現場に身を置きつつ、これらの便利なネットを必要な局面だけ利用し(→経験がモノを言う農業では、他者の上手く行ったやり方などを調べてまねるのが一番手っ取り早い。加えてネットで得られる情報で理論武装をして脇を固めれば最強である)、このようなブログ等を書いているのが、(反対事例として逆説的に)一番先進的で豊かな人間らしい生活と言えるのではないか、ということだ。

以上、なんのことはない、この今の生活を自慢したかっただけである。
水郡線の上り列車が深い緑の中を進んでくる。玉川村駅まではあと少し。
陽炎でレールも車両もユラユラしている。夏の風景。

2013年8月15日木曜日

常陸秋そばの種蒔き

当地を含む茨城北部地域、特にお隣金砂郷地区は『常陸秋そば』の特産地だ。

季節の文字が名前に含まれるため、どうしても秋のイメージが強い(秋にしか収穫できないから当たり前だが)。
実りの秋に美味い蕎麦・・というイメージは一般の人が抱く普通のものだろうから、商品のネーミングによるイメージ戦略としては成功した部類だろう。
すっかりブランドとして定着している

当たり前のことだが、秋に収穫するソバなので『秋そば』と言う。
そしてこれも当たり前だが、霜に弱いソバを秋の適期(初霜の前)に収穫するためには、生育日数が約70日ほどの常陸秋そばの場合は8月上旬〜中旬に種を播く必要がある。

と言う訳で、我が家も昨日(8/14)に今年度の『常陸秋そば』の種蒔きをした。
一昨年栽培した約4畝(400㎡)程の畑に、今年もまた種を播いた。

炎天下での、畝作り、種蒔き、土寄せ。
ひとりの手作業であり体力的には楽ではないが、後の楽しみがあると辛くはない。


常陸秋そばは播種後3週間程で開花する。9月10日辺りには花が咲き始めるだろう。
また白いソバの花にミツバチが飛び交う姿を見られる。ミツバチの出番だ。

         

余談だが、昨年に秋そばを収穫した際に落果した種から発芽したソバが、初夏に花を咲かせた。
その花もほとんどが茶色く萎み、花の季節は終わった感がある。
もともと常陸秋そばは栽培時期として夏から秋にかけて育てるべき品種。
この夏⇨秋型ソバを春⇨夏の時期に栽培しても、栄養生長が続いてしまって結実しないのである。花が終わっても種らしきものが付いてはいるが中味は全くといっていいほど無い。
品種の生育特性とは、まったくもって不思議なものだ。

2013年8月13日火曜日

今ここにある日常と言う奇跡

ことしもまたお盆が巡ってきた。
先祖の霊を祀りつつ、いま自分の生に繋がってきていることを不思議に、そして有難く思う。
当たり前のことのようだが、何代にもわたる奇跡のような生命の連鎖があっていまここに自分が存在する。

         

最近読んだプレジデント誌で、奈良雅広氏による『幸福を感じやすくする思考練習』という文章の中で、氏は次のようなことを書いておられた。

東日本大震災が、不幸な中にも意味があったとすれば、「当たり前」と思っていた日常がどれほど貴重なものかを、強烈に再認識させてくれたことである。家族がそこにいること、家があること、電気が使えること、食べ物や飲み物が苦労なく手に入ること……当たり前だと思っていた日常が、いかに危うく、それゆえに大切なものであるかに気づいたことは、この国の未来にとって、かすかな希望であったように思う。しかし、本来それは、天災によって強いられて認識するようなものではなく、自分自身で能動的に認識しなければならないはずのものである。「今ここにある日常」という奇跡。その大切さに気づく努力は、幸福への重要なステップとなる。

この一文に激しく同意した。まさにそのとおりだと思う。
 
日本人の精神文化に深く根差した特別なお盆の間くらい、ゆっくりとした時間に身を預け、思いにふける時間を持ちたいものだ。
当たり前は決して当たり前ではないのだということに気付くこと。
その努力をすること。
『見えないもの』に敬虔の念を深くし、心のひだを多くするにちょうど良い機会だろう。
そしてそれは、幸福への大きなステップとなるはずだ。

2013年8月12日月曜日

月下美人

月下美人(げっかびじん)なる植物がある。
不可思議な花の咲き方をする。
ありふれた樹ではないのに加えて、その真っ白で繊細な花は夜に開き始めて朝にはしぼんでしまうという性質なので、なかなかその開花している姿を実際に見ることは少ない。
同じ市内の伯母の家で育てている月下美人は、毎年数多くの花をつけているのだが、いままで見るチャンスを逸し続けていた。

         

『今夜開花しそうなので見に来ないか』とのお誘いを夕方に受けた。
かねてより花弁が広がって行く様を時間を追って観てみたいと思っていた。
ワクワクしながらお邪魔し、2時間程観察してみた。

この種類としては大きな樹らしく、樹高は3メートル超ある。
そしてまさに開かんとしている真っ白な蕾は100以上はあり、壮麗である。
昨年の開花時には、某大手Y新聞の取材を受けたという樹であり花である。
月下美人の全体の姿。最上部は軒を突いている。
左手のライトに照らされて明るいが20時の状態。
まだ開いていない状態だ。
20:00の状態
開口部は広がりつつあるが、まだ蕾んだ状態である。匂いもほとんど感じられない。
だが、これが2時間経過するとこのように開く。
同じ花の22:00の状態
この状態にまでなると何ともいえない強い香り(不快なものではない。芳香である)を発するようになる。
まさに色白で名前の通りの美人の花だ。

あと1〜2時間もすればもっと開き、直径20センチ程にもなるようだが、深夜にかかるためここで御暇(おいとま)させていただいた。

         

なんとまあドラマ性のある花だろうか。
・暗くなると咲き出し、夜遅くに満開となるという神秘性。
・一晩で萎んでしまう短命性。
・見ていても分かるかもしれないほどの開花時の運動性。
・花が開いたとき短時間だけ香るという芳香性。
・下を向いていた蕾が開花直前には上向きになり膨らみ始め、ほぼ全ての蕾が一斉に咲き出す律儀さ。
・純白で繊細な花弁。
・希少性。
いろいろな俗説が生まれる訳がこのへんにある。
『新月の夜にしか咲かない』やら『すべての月下美人は同じ日に咲く』やら『1年に一度しか咲かない』など。Wikipediaによればどれも俗説とのことだが。
いずれにしても目の当たりにするとちょっとした感動ものである。

         

常陸大宮市では一部に雲がかかって『ペルセウス座流星群』の天体ショーは楽しめなかったが、かわりにそれに優る地上のショーを満喫したひと時だった。

※夜も遅くなったし、アルコールも入った状態でいることから、『結果美人』やら『欠課美人』、『月火美人』、『激化美人』、はたまた『月下比人』などの恥ずかしい入力ミスがないことを十分に確認して からこの文をブログ後悔( 8/14訂正 後悔→公開 )することにする。

2013年8月10日土曜日

頭垂れ始める

厳しすぎる残暑。
猛暑日が続く。
暑さにげんなりしてうなだれているのは人間だが、むしろこちらは十分な気温と日照を喜んでいる。

いずこの田でも稲の穂が膨らみ、頭が垂れ始めている。
順調に行けば来月初には刈取りとなる。

暑さの中に、はや秋の気配いである。


2013年8月8日木曜日

トウモロコシの粒の数は必ず偶数らしい

日経HP中で面白い記事が目にとまったので紹介する。
トウモロコシの粒の数は必ず偶数である、というものだ。
ホントかいな?? と半信半疑で読み進んだ。

どうやらホントらしい。
詳しくはこのリンク先を読んでその理屈を納得していただきたい。
日経記事リンク先 ⇒ 本日入荷 おいしい話  『トウモロコシの粒の数は必ず偶数? 数えてみた』
    
日経の電子報道部の河尻氏は実際に2時間かけて数えたらしい。
とても検証したいとは思わないが、こんどトウモロコシにガブリと齧りつくときには思い出してしまうだろうな、きっと。少なくともワタクシは知らなかった事実だ・・。
皆さんもまた、他人につい話したくなるネタ話がひとつ増えたのではないだろうか。
君にそんなヒミツがあったなんて知らなかったヨ

2013年8月6日火曜日

古代ハスの花托(かたく)

初めて開化した大賀ハス。
濃いピンクの花が青々とした田んぼの中で精彩を放ち、道行く人の目を楽しませた(に違いない)。
そんな花の命も3~4日ほどだ。

7月末に開化した花びら(花弁)は既に散り、今は2番目の蕾が花開こうとしている。
花弁が散った後には、見事な花托(かたく)が姿を現した。
花托
花托はさらに大きくなり成熟して褐色化するようだ。
その中に硬い果皮を持つハスの実がある。
引き続き観察を続けるつもりだ。
種(実)の採取、播種、発芽に挑戦、さらに増やして栽培・・・。
また挑戦することが増えてしまった。
ボーっとしている暇がない。
既に花托となったものと次に咲こうとしてる蕾
万緑の風景の中を水郡線の列車が走り抜ける

2013年8月4日日曜日

墓なぎ

まもなく盆を迎える。

我が家を含む一族は、昔から盆の一週間前にあたる8月7日に『墓薙ぎ』を行ってきた。
墓薙ぎとは、つまり墓の掃除である。
墓所を同じくする一族同姓の各家が集まり、一緒に墓地全体を掃除するのである。
同じ姓を戴く一族・親類とは言っても、何代も経てしまうと知った間柄であってもなかなか顔を合わせることがない。数少ない顔合わせの場でもある。

高齢化が進んで参加できない家が出てきたことや、各家の諸事情(勤め人であるとか)により、8月7日という固定した日に墓薙ぎをすることが難しくなったこともあって、8月の第一日曜日に行うように変更になった。
その掃除日が今日(8/4)だった。

この『墓薙ぎ』というキーワードをネットで検索しても茨城・栃木あたりの方のブログに少し出てくるぐらいであまり話題には上っていない。
もしかしたら全国的な風習ではないのかもしれぬ。

だが、墓を持つどこの家でも盆の前には(一斉にやるかどうかは別として)墓掃除はくらいするだろう。
風習、精神文化の違いは多少あっても、墓を掃除するという行為を通じて、遠い祖霊や亡き近親者を偲ぶというのは日本人にとっては普遍なのではないか。
8月の暑い最中の墓掃除には、特別な意義があるように思う。
ニイニイゼミの鳴き声は暑さを増幅させている

2013年8月3日土曜日

野鳥の楽園

我が家近くの溜め池には、多くの水鳥が憩う。
ここは適度に管理された溜め池であるし、程よい広さ、水深も都合が良いのだろうと思う。
人家も近いのだが、周囲には葦などが生い茂り、身を隠すに最適の場所もある。
それにエサとなる水中の小動物が多いことも理由のひとつだろう。
中でも一番多いのはショクヨウガエルのオタマジャクシ。
とにかくやたらと数が多い。気持ち悪い程いるのである。
あれだけいれば、鳥達もエサには苦労しないと思う。

         

毎日目にするのは、カイツブリ。
警戒心が強いため近づくとすぐに水中に潜りなかなか出てこない。岸の草むらの中に巣を作っているようだ。

アオサギも毎日飛んでくる。
水面から突き出た枯れ木の枝に止まっていることが多い。
アオサギも警戒心が強い
人の気配を察知すると大きな羽を広げて飛び立ってしまう。
コンパクトのデジカメであり望遠機能があまり良くない。
どうにも画像が不明瞭であるのは致し方ない。

この他に、写真はとれていないが鮮やかな青い羽を持つカワセミもときどき姿を現す。
どこか近くに巣があるようだ。
そして種類は分からぬが、カモもときどきやってくる。
カルガモのようだが、正確には分からない。
真っ白い痩身の小サギは最近あまりやって来ない。ここにアオサギがしっかり居着いているからだろうと思う。

不勉強ながら、良く目にする鳥だけでもこれだけの種類となる。
いろんな生物が憩う水辺である。

もっと勉強すると野鳥の種類も分かってきて面白いのだろう。
そして奥の深さに目覚め、ハマって行くのかもしれない。
プロ顔負けの機材を揃えて、いつ来るとも知れない野鳥をひたすらじっと待つマニアが多いのも頷ける。

         

本来の農業用水としての実利的な面も確かにあるが、このような溜め池のような小振りなものであっても、眺める人間のココロも落ち着かせる不思議な効果がある。
風景としても実に良い。
鳥達にとっても生活の場。
これぞまさに『楽園』であろう。

2013年8月2日金曜日

極端気象

山陰や北陸、東北地方の一部で大雨が降っている。
連日のニュースで流される土砂災害や浸水被害の映像も酷い。
更にはこれらの被害に遭ったばかりの地に、追い打ちを掛けるようにまた雨が降っている。とんでもない、たいへんなことになっているようだ。
今年から使われている表現『これまで経験したことの無い豪雨』と言う言葉も、気象庁がいまの気象状況に対して危機感を抱いている現れだろう。

大雨の地方がある一方で、太平洋側では雨が少ない傾向にある。
このような極端な大雨と小雨が隣り合わせの局面と言うのは、昔からあったのだろうが、近年は特に激しいのではないか。
このような極端気象、これも異常気象なのだろうか。
(今後ますますひどくなり)後になって『やはりあの頃が転換点だった』といわれることがないことを祈りたい。


              
いま田んぼの稲は出穂期(しゅっすいき)にある。
まさに穂が出て、花が咲き受粉が開始されている時期だ。
穂が出て花が咲いている
雨が続いて日照が不足したりすると収穫に大きく影響する。気温が低くても病気が出て収穫が減る。
日照と気温が重要な時期だ。

当然、稲が水に浸かったり泥をかぶったりしても影響は避けられない。
水害のひどい地域の稲作農家がインタヴューに答える姿は痛々しく、同情を禁じ得ない。
防ぎようが無い天災ではある。

かように農業は、天候リスク・災害リスクがある。
不安定な部分は確かにある。でもそれでも向かい合って生きねばならない。
第一に自らの生活の糧ためだが、国民の大切な食料確保のため、国土の保全・環境の保全のために、という意味合いも多分にある。

東北地方・北陸地方の梅雨が開けて日照が戻り、豊作となることを望んでいる。