2013年8月16日金曜日

スマホ病

スマホ(この言い方も好きではないが、いまや市民権を得た感があるので仕方ない)を使う人がやたらと増えている。
皆が皆全員、常時小さな画面を覗き込んでいる。片時も手を離すことも目を離すこともない。
きっとそれだけ魅力的なんだろう。
そんなにいつも得たい情報があるのかとも、そんなに誰かと繋がっていたい・話をしていたいのかとも、そんなにつぶやきたいのか、などと非スマホユーザー・ガラケー(ガラケーもスマホと同じく、略し方も語感も悪いので個人的には好きではない)で十分の小生は思う。
彼らは、スマホが手元に無い・画面を見ていないと不安で不安で仕方ないという状態なのだろう。
なんだか猿が与えられたオモチャを玩び、ひたすら遊びに耽っている姿に見えてしまう。
可笑しくもあり悲しくもある。
全員が一様に同じ姿勢でスマホを持ちにらめっこしている電車の座席の風景は、病的な様相を呈していると思う。
未だスマホの毒に冒されていないひと(多くは50代以上の人たちだろうが)は、いまの若い世代のそんな姿を苦々しく見ているのではないかと思う。
あまりにもかかる変化は劇的すぎたようだ。

テクノロジー、特にインターネットによって変化した情報取得のありかたは、私たちの思考プロセスにきわめて大きな影響を与えている。
思考力の低下が特に顕著だ、というのが小生の考えである。
つまり集団でバカになっている。それもかなり深刻に、と思う。

これらの技術を駆使し、膨大な情報を集め要約し、必要とする答えを見つける能力が長けてきていることは確かに良いことだ。
そのことによって『もっともらしいこと』あるいは『賢そうなこと』を言えるようにもなった。
このことが、集中して深くものを考えたり記憶したりするという能力を減衰させてしまっている、というのも事実であろうと思う。
情報が検索すればすぐ出てくる環境にいるのだから、何かを記憶し続ける能力も低下するはずだ。必要ない能力は退化するという例だろう。

知的生産の質というのは思考力と知識力を掛け合わせた面積である、と以前何かで読んだ。思考力が少なくても知識力(この場合は情報力)があれば、一応の面積が確保されるのが現代だ。
昔の人は情報や知識を得る機会が現代に較べはるかに少なかったものの、思考力を駆使してそれを補ってきた。幕末から明治にかけて活躍して日本の基礎を作った人たちなどはみなその典型だろう。

優れたテクノロジーと膨大な情報を得た現代の我々が、知的なアウトプットを導きだす思考力を維持できたとしたら、かの昔の人たち以上の知的生産ができるかも知れない。
と同時に、スマホ病(ネット中毒・SNS中毒)から解放されたら尚良い。

         

そのための対処方法として、まずネットから離る時間・日を持つことだろう。
とにかく一定時間、ネット・SNSから身を遠ざけることだ。無理してでもだ。
ネットの各種サービスは、確実に我々の時間を奪いさる進化を遂げ、我々の生活を蝕んでいる。
電車の中でも、降りたホームでも、エスカレーターでも、歩道を歩きながらでも、食事をしながらでも、トイレの中でも、われわれの生活を拘束まくっている。視力の低下もあるし、頸椎のゆがみも酷くなる。
触っていないと不安という精神の病だ。
その結果としてあわせて我々を注意散漫にしている。
会話でもひとの話は上の空、ホーム転落事故、脇見運転事故、家族との会話レス・・・。
私は大丈夫という方であっても、程度の差こそあれみな心当たりはあるだろう。
小生などは、基本的に屋外に身を置いて自然相手の作業をしているので、この時間はフリーだ。携帯電話も時間を確認する程度しか用はない。

そして対処方法の2番目として、文章を書くことは有為だろう。
一定の長さの文章を書く作業は、伝えたいことが正しく伝わるかを考えながら、句読点にも拘り、用語にも拘るとけっこう頭を使う作業となる。
自分の考えを深めて整理するということを伴うので訓練になる。
脳に汗をかくといったら良いのか、脳内の神経回路が複雑に生長する感じがする。
どのようにしてもっともらしい賢そうな文章を書こうかといつも腐心しているのだが、なかなか難しい。

そして対処方法の最後として、これが一番だと思うが、現場を大切にすることだろう。
PCの画面に出てきた情報は、あくまで誰かが提供した情報である。
それを見たから読んだからといって、それを本当に知ったことにはならない。
やはりできるものならば現場で実物に接して、生の情報に接し、匂いやら温度やら雰囲気やらを肌で感じることだろう。メディアでは伝わらない大切な情報がそこにはある。自らの五感で物事を実体験することだ。
わが農的生活はこの五感をフルに刺激してくれるし、現場に出ずして何ら仕事は進まないのである。ために毎日がやたらと刺激的である。

こういう訓練をしたり生活をしても、問題に直面したときに得る答えの見た目は変わらないのかもしれない。
しかし、しかし、同じ結論を得るのであっても、それが自分の脳をフルに使って考えぬかれたものである場合とそうでない場合では、その後の議論の力強さや、ある分野で得られた知識の他の分野への応用可能性などが大きく異なってくる、と思うがどうだろう。
これに早く気づいて舵をきった者が勝者になるはずだ。

         

小難しいメディア論になってしまったが、要は自然相手の『農』の現場に身を置きつつ、これらの便利なネットを必要な局面だけ利用し(→経験がモノを言う農業では、他者の上手く行ったやり方などを調べてまねるのが一番手っ取り早い。加えてネットで得られる情報で理論武装をして脇を固めれば最強である)、このようなブログ等を書いているのが、(反対事例として逆説的に)一番先進的で豊かな人間らしい生活と言えるのではないか、ということだ。

以上、なんのことはない、この今の生活を自慢したかっただけである。
水郡線の上り列車が深い緑の中を進んでくる。玉川村駅まではあと少し。
陽炎でレールも車両もユラユラしている。夏の風景。

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