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2013年9月11日水曜日

これからの時代はSmartでCreativeな里山ライフだな

茨城北部を震源とする地震が時折発生する。
回数は減った感があるが、他の地域に較べるとやはりまだ多い方だろう。
比較的震度が小さいからまだ良いとしても、また3.11のような大きなものになるのではないかと、揺れ始めはいつも心配になる。

南海トラフ巨大地震が起こった際に想定される予想津波高や浸水域を事細かに示した日本全図が今年の3月に公表されたことを、まだ皆さんも記憶に新しいだろう。
対象とされた地域の人々は自分の住む場所の色分けを見ながら、思いは複雑に違いない。
日本列島はいろんなプレートがせめぎ合う場所に位置しているため、どの地域でも地震は多い。このような列島で生活していかねばならぬ以上、地震と賢く付き合う以外に手はあるまい。

         

2012年3月11日(東日本大震災のちょうど一年後)のブログにこう書いた。

(東日本大震災の直後には)超高層の建物に人が住むことを巡る議論があったやに記憶する。ガラスを多用する建築の危険性や、高層難民の問題も各方面から指摘されていた。あれらはどうなったのだろうか。
いまもなお、何事もなかったように高層ビルの住居は高級住人の代名詞である。
不思議でならない。
また、高さや巨大さをもてはやす空気は、依然としてこの社会を覆っている気がする。(昨年に、東京スカイツリーが完成して世界一の高さとなり、喜ぶ人が多かったようだ。また、最近竣工した東京駅周辺の高層商業ビルはおしなべて全面ガラス張である。エレベータの昇降さえも外から丸見えだ。これらを多くの人が美しく機能的と感じているのだろうと思う。タワーでもビルでも、耐震であろうが免震であろうがいざ大地震となったときには機能不全に陥るのは避けられないと思うが。)

悲しいかな、揺らぐ大地に生きて行くことを宿命づけられた我々である。
いつどこであのような震災が発生するか分からないのである。
であれば、巨大で複雑な社会システム(・・・これらは維持するのも莫大なコストを費やすのであるが・・)を構築して喜ぶよりも、もっと小さいシステム、身の丈に近い寸法を価値基準にして生きることのほうが、ずっと幸せに繋がるのではないだろうか、と思う。
自然の制約に逆らうのではなく、自然に添いつつの、いわば牧歌的に生きる文明の方向が、必ずあるはずである。
いい加減に目を覚まさないと手遅れになる。
無理矢理に目を覚まさせられるときがくるであろうことを、皆は薄々気がついているはずだ。目を背けていてはならない。まだ間に合う。
不便でも、快適さに欠けても、真の豊かさがある、そんな所だ。田舎は。


 文明の成果としての科学技術による便利さ・快適性を否定するものではないが、それを盲目的に過信し頼り過ぎることだけは避けたいと思う。
なんでもかんでも便利で快適にし過ぎると、人間の思考能力や本来持っている適応能力が減退してしまう。そのためにも、不便をあえて受け入れるストイックな生活も大事であろうと思う。

         

福島の原発事故は、放射能事故というものがすべての生命体にとってあまりに暴力的過ぎることをはっきりさせた。
福島においてもがき苦しんでいる状況の中にあって、南海トラフ巨大地震が発生し、仮に中部・西日本・日本海側にある原発で更なる大事故が起こったとしたら、国土の狭いこの日本はどうなるか。終わってしまうぞ・・ニッポン。
そんな事態にまでならないと、都市生活の快適さ・便利さを支える『物質至上主義・巨大技術信仰』の破たんは頭とともに体で理解できぬのかも知れぬ。

いまこうやっている間も、福島では高い放射線量の中で、廃炉作業や汚染水処理とエンドレスに戦っている人たちがいる。
大都市部の人々は原発事故が対策見通しさえ立っていない危機的状況であることを報道で知りながら、それを他人事として安穏と生活している(と見える)。面倒なもの・厄介なものは目に見えない遠いところに置いておき、意識から遠ざけておくかのようだ。本当に怖いのは無関心だ。
遠いよその国の話ではない。オリンピック招致に際して外国メディアが問題視するのは当然だろう。
茨城だって『東海村』があるので、けっして他人事ではないから、強くそう思う。

         

このような思いを強くしているのは、ホタルやミツバチたちとの共存を経て、彼らの訴えている声なきメッセージを感じ取っての影響が大きい。
人間が(むろん他の動植物たちもだが)真に幸せに生きてゆける環境とは、という重たい命題。
答えは皆も分かってることで明快なのだが、いまの社会ではただの理想的空想論でしかない。
そんなことは百も承知だ。現代の日本人が明治・大正以前の生活などに今更戻れるはずがないのだから。

甚だ自分勝手だが、他人の事はともかく自分だけは理想的空想論かもしれないがやれることをここで実践することにしている。しかも楽しみながら。
精神的にも肉体的にも健康で、充実した生活を生涯送るために、だ。

興味も関心もない人まで巻き込むつもりはないが、少しでも心ある人にはその活動としての農的生活・里山ライフをプチ体験できる場、ここを門戸開放したいと考えている。
これは勝手な想像だが、金スマ・ひとり農業の渡辺ヘルムート直道氏も、あの場所で同じようなことを感じながら生活されているではないか。
あながち見当外れではないような気がする。

不幸にも災害が発生し、避難を余儀なくされることがあるかもしれない。
そんな時、田舎と何の由縁もない人たちはどこへ行ったら良いのか戸惑うことだろう。
だが、一度でも訪れてその土地の人と多少なりとも御縁があれば全く違うはずだ。
いざというときのためにも、田舎と繋がることは価値あることだと思うが、どうだろうか。
万が一の時のためにも、自分の生き方を見直すためにもだ。
きっかけはどんなでも良いと思う。

と言う訳で、これからの時代はSmartでCreativeな里山ライフだ(持論)。
玉川村駅構内に下り水郡線列車が入ってくる。
日差しはまだまだ強くて暑い。
静かな真夏の昼下がりの風景だ。
周囲にはのんびりとした里山が広がっている。

2013年5月5日日曜日

2013 田植え終了

田植えを始めたことを記す間もなく慌ただしく始まった今年の田植え作業が、無事終った。総面積7反ほど。5カ所に分散している田んぼ。

気温・天候・水量ともになかなか良いコンディションであった。
快いエンジン音で田植機が進む
田の水も適度な水量。タッブリの日差しで温い

田植えそのものは終わっても、田植機の洗浄・整備、苗を育てたビニールハウス内の片付け、苗箱洗浄と片付け・・等、けっこうな作業があるのだが、それも無事終えてやっと一息、という次第。
苗箱を洗って片付ける
         

田植機のトラブルがなく終わり、とにかく良かった。
田植機はシンプルな機械だが、実に工夫がこらされている。
一定の苗を苗箱から摘み、泥の中に適度な深さに押し込み、放す。
その繰り返しなのだが、なんとも痒いところに手が届いている。
浅く植えるか深く植えるかの調節レバーあり、
つまんでくる苗の量を少なくするか多くするかのレバーあり。
シンプルだが、なかなかの優れマシンである。
田植えが終わった夕暮れの田んぼでは、カエルの大合唱が始まった。

市内では、この連休中に多くの田んぼで田植えがかなり進んだようだ。
ちょっと(といっても直線距離で7キロほど)離れている場所だが、かの『金スマ・ひとり農業』、渡辺ヘルムート氏の田んぼでも、レギュラーが来て、揃っての田植えがそろそろ始まる頃ではないのかな??

2012年9月27日木曜日

(私見) 金スマ『ひとり農業』が伝えるメッセージ 〜 命の時間

TBSテレビで金スマ・ひとり農業のスペシャル番組が年に数回放映される。
あす(9/28)の夜も放送が予定されている。

言わずと知れた、番組ディレクターである渡辺ヘルムート直道氏の、ここ常陸大宮市内での農業奮闘バラエティーである。
ひとり農業の場所は、市内とは名ばかりの山に囲まれた地。
同じような環境で同じ農業に携わり、そしてこの地域の特性を知るものとして、毎回感情移入して見入ってしまっている。

今回は恒例の秋の2時間スペシャルのようだ。
中居氏ほかのメンバーが秋のさまざまな農作物の収穫を楽しむ映像が放映されるのであろう。

それにしても、多岐に及ぶチャレンジには脱帽する。
彼はなかなか器用であるから続けられるのだろうし、しかも全ての作業には全力投球だ。
キツイ農作業を続けられる熱意の源泉は、きっと農業への限りない愛情なのだろう。

         

彼の農業挑戦も5年目である。
すでに4回の春夏秋冬を経験し、この地での生活の大変さも良さも、農業の辛さも素晴らしさも、彼のなかにしっかりと刻まれたに違いない。

以下は私見であるが、本腰を入れてこの地で農業に携わっている渡辺氏もきっと同じであろうと思う。

         

農業に携わると、5感がいつも刺激される。
毎日、自然を感じる。
山の緑の微妙な変化だったり(視覚)、季節ごとの風の匂いだったり(臭覚)、鳥や虫の鳴き声だったり(聴覚)、土の柔らかさやキュウリのトゲの心地よさだったり(触覚)、採れたての旬野菜の甘みだったり(味覚)、など。
人が生きてゆく上で、自然とのふれあいは欠かせないものだと実感する。

そして、農業は毎日いくらでもやることがあって、けっして退屈しない。
体が動く限り働くことが出来るので、定年というものがない。
( ⇨ 以下余談である。
たとえばであるが、都市部のサラリーマン諸氏の多くは完全定年リタイア後もまだ身体は健康であるだろう。日課のごとく犬の散歩との図書館通いしての新聞読み、スーパーへの買物の付き合い、月一ゴルフ、時々の旅行あるいは地域ボランティア、そんな繰り返しで長い老後を過ごすことになるのだろうか。
重層的なしがらみがあり、家族の生活も考えると仕方のない生き方=選択枝がなかった生き方であったのかもしれないが、その気になればプチ農業体験などはできる(できた)はずだ。
どのような形であっても若干でも農業に接し身を自然の中に置いてみると、人生の後半が多少なりとも充実するのではないかと思うのだが。)

一見便利で健康的・機能的な都市生活だが、ストレスと渇望感・未充足感に苛まれてはいまいか。
農業では、自然と向き合うなかでなんとも自由な精神活動が保証されている。
ひとり農業の渡辺氏の生活がそのように見える、だからこの特集が視聴者の人気があるのかもしれない。

フランスの哲学者ヴォルテール(1694-1778)は言う。
『最後は農業にたどり着く』
『自然は人間の施す教育以上の影響力をそのうちにいだいている』
   と。

矜持を持って農業を営む人には、自らの手で、自らの暮らしと農の営みを作り出していることからくる静かな誇りと自信がにじみ出ている。

効率性や金銭の多寡が尺度ではない。
マニュアル化された仕事、お金で買うだけの消費生活の中では決して感じ取ることが出来ない感覚であり、充実感だ。

そして、自然は命の営みそのものだ。
その流れが人間の都合による時間の刻みではなく、命の時間に委ねられている。
人間としてのあるべき姿、大切なことを、すべて農業では気付かされる。

         

高度成長期以降、都会化と縁のない、時代に取り残されたように見えるこの山間いの地(・・ひとり農業の場所も、我が家のある場所も)は、実はこれからの時代の手本になるのではないかと、ふと考えることがある。

過疎化が進む田舎だが、秘ている可能性は限りなく大きい。
人間が人間らしく生きるための根源的な命の時間が、ゆったりと流れている。

一見すると華やかなバラエティー番組の金スマだが、こと『ひとり農業』が伝えようとしている真のメッセージは、実は深遠であり大層重たいテーマだと私は思っている。
つまりそれが『命の時間の大切さと素晴らしさ』に他ならないからである。

共存共栄
愛おしき仲間たち