2011年12月25日日曜日

高島暦

毎年、年末近くになると新聞屋から貰う暦がある。
(都内では配られてはいないようだ。どの範囲で配っているのか基準は判らない)

そう、おそらく一度は目にしたことがあるだろう『高島暦』のダイジェスト版だ。
書店にはもっと分厚くて高価な高島暦が、何種類も販売されている。
今年も貰った平成24年度版の高島暦
これは暦であって、カレンダーではない。 
どこかにいつも掛けておいて見るのではなく、必要なときに開いて見る・参照する・調べるのである。
実にいろいろな情報が記載されている。
都市部の人は農業に縁遠くなったためあまりピンとこないのかも知れないが、農事暦として自然に関する情報が凝縮されているのだ。
日本の気候風土に根ざした、長い間の先人たちの知恵が凝縮されているとも言える。
二十四節季などは、その最たるものではないか。
その季節季節に(農事として)こんなことをしておくと良い、と伝えてくれる情報誌でもある。
 
          

この暦に記されている、毎月・毎日の六曜(大安、仏滅・・・)、十干(甲、乙、丙、丁・・)と十二支(子、丑、寅、卯・・)を組み合わせた干支、九星(一白・二黒・三碧・四緑・・)などなど、これらを体系建てた先人の叡智は、すごいと言わざるを得ない。

ただ、易や、陰陽五行やら風水やらによる方位・運勢などの暦注の項になってくると、一種の信心というか人の心の問題になってくる。
だからといって、非科学的として排除すべきものでもけっしてないだろう。 
なにかしらの統計学的に認められる事象はあるのだろとは思える。

そして大事なのは、信じる信じないは人の心の問題だということ。
信じる人にとっては心で大切にしている領域のことであり、むやみに他人に土足で入ってきて欲しくない場所でもある。犯されたくないものだ。
信じないのもまったく自由だ。
 
          

現代の科学至上の世の中であっても、この種の暦が発行され続けていることが面白い。
やはり人の心の根源的な部分では、何かに頼りたい・すがりたいという部分があるのだろう。
雑誌の占いのページは人気だし、狭いブースで手相やら占星術やらで占い師と対面して行う占いコーナーも廃れていない。
(そういえば、新宿伊勢丹の軒下にいたあの有名な『新宿の母』はどうなったのだろうか?)

そしてまた、いまの時代でも葬式をわざわざ友引の日に出す人はいないだろう。
結婚式をわざわざ仏滅の日を選んで挙げるひとも(少)ないだろう。
やはり何かしら忌み日は避けたい、あるいは吉日を選びたいはずだ。
だが、大安の日に結婚式を挙げたからといって絶対離婚しないという訳でもない。
大安吉日に宝くじを買ったすべての人が高額金額が当たるはずもない。

つまりは、こう考えるのが妥当なのだろう。
物事のスタートにあたり『少しでもいい環境にしておく』ことが重要な意味を持つのであって、そのための最善を尽くすひとつとして『吉日』を選ぶことなのだ、ということだ。
自分としてはできうる最大限の努力をしたのであるから、あとは運を天に任せるしか無い、と。
そうすれば仮に良くない結果になったとしても、できるだけ良い環境にしたのだから・最善を尽くしたのだから、と自分を納得させ、諦めさせられる。

おそらく、昔は人間が生きて行く上で想像以上に厳しい環境があり、いろんなことで『諦める』ということがどうしても必要なものだったに違いない
たとえば、病気で乳幼児の死亡が多かったこともあるだろう。親はどれほど深い悲しみに慟哭したことか。
天変地異・異常気象が起こり、不作や飢饉がしばしば起こったこともあるだろう。 
百姓は、打ち拉がれ、明日に絶望したことも多々あるに違いない。

しかし苦しみ悲しみながらも人は生きてきた。その度に立ち上がってきた。
きっと諦めることによって次を目指し立ち上がらねばならなかった、悲しい歴史が積み重なっているに違いない。
東日本大震災も、そんな出来事のひとつではなかったか。
今日(12/25)、TBSで放送された『報道の日2011』の震災の特別番組を見て、改めてそう思った。

今の農業では、そこまでの悲壮感は無いにしても、どうせ畑に種を播くのならぜひ豊作になるよう、祈る気持ちで種を播きたい。
特に自然相手の農業や漁業は、運を天に任せる部分が大きいので、何かに頼りたいのである。 
実に素朴な人の心の発露であり、原始宗教の原型だと思う。

信じたから、また頼ったからといって、別に損も害もない。
ならば信じたほうが、精神は休まろう。
この暦の価値はこんなところにあるのかもしれない。


あまり聞き慣れない二十八宿だ。
いろいろなことに吉凶が定義されている。
ただ知らなければ知らないで済む話なのかもしれない。
家相には一理ある気がする

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