2011年12月28日水曜日

常陸秋そば栽培(その10) 石臼で手挽き開始

とうとうというか、いよいよというか、ついに我が常陸秋そばを石臼で挽時くが来た。

蕎麦栽培について、当初よりご指導・ご助言いただいている水府愛農会の和田様から個人的に石臼をお借りした。
さらに最低限必要な篩3種類(40メッシュ/㌅、60メッシュ/㌅、調理用ザル)を、市内の大手ホームセンターYで購入して、そば粉の手挽きの万全の準備を整えた。
お借りした石臼
小型だがずっしりと重たい
(水色テープ部分は欠けたため補修してある)
この夏に種を播いて以来、成長をずっと見守ってきて愛おしくさえ感じる我が「常陸秋そば」の玄蕎麦を石臼に入れる。
感動の一瞬である。


         

木の取っ手をゆっくりとしっかりと回し、美味い蕎麦への思いを込めて石臼を廻す。

カリカリという心地良い響きとともに、石臼の隙間からそば殻と粉がこぼれ落ちてくる。

最終の粉になるまでの感動の過程は、詳細に語るとキリがない。
思い切って割愛する。
ただ、手間と体力(特に右手の力)が、予想以上に必要であったことだけは記しておきたい。

         

経験してみて言えることは、蕎麦好きが嵩じると一種の薬物中毒と同じ(・・薬物中毒になったことがないので推定でしかない)であるということだ。
このような膨大な手間と、時間と、体力(・・プラス出費、プラス家族のやや冷たい視線)は、全く問題にならないし、苦にならなくなるのである。
言い換えれば快感の刹那の連続である、ということだ。
まさに「中毒」である。そしてまさに「虜」に成り下がるのだ。

この、自らの蕎麦栽培・新蕎麦の収穫・石臼手挽きという作業は、あまたの精神異常昂揚者を作り出す。
きっと端から見たら、不思議に思える行動である。
どうにも理解しがたいに違いない。
だが、いざやってみると、頷けるのである。
それだけの不思議な魔力を持った『常陸秋そば』なのである。
だからであろう、主に男性向けの情報雑誌には、この時期しばしば蕎麦特集が組まれる。この病気の感染予備軍はきっと多いに違いない。
この予備軍が、一度でも蕎麦栽培やら石臼挽きやら蕎麦の手打ちをしたら、いとも簡単にこの病気に罹患してしまうのは間違いない。


         

はやる気持ちを抑えつつ、何度も篩にかけは石臼で挽き直して、より細かな粉へと挽き直す作業を続ける。
次第に次第に、実に滑らかな粉が、石臼の隙間からこぼれ出てくる。
しっとりとした、何とも言い難い芳醇な香りが辺り一面に立ち昇る。

粉になって石臼からこぼれ落ちる新蕎麦は、なんとも香しい。そして美しい。
上手い表現が見つからないが、陳腐な言葉・表現をすると失礼ではないかと思うほどだ。
今のインターネットの技術では、パソコンでこの香りまでは伝えられないのが残念である。

この香りが、蕎麦栽培から蕎麦打ちまでを目指すこだわり人を虜にするのであろうと思う。
脳を麻痺させる何か特殊な物質が出ている。
とにかく、とにかく感動の一瞬であるのは間違いない。

細かな目(60メッシュ/㌅)の篩に掛けられたそば粉は、薄緑色だ。
きめ細かくて、しっとりとしていて、握った形が残るほどだ。

挽く前の分量や重さ、製粉後の粉の重ささなどは計測していない(そもそもデジタル計測器が無いのだ)ので、はたしてどれくらいの歩留まりなのかは分からない。もうそんなことは、どうでも良くなっている。

石臼の隙間からこぼれ出てくる粉を眺めるとき、挽かれた粉を篩で振るいながら落ちゆく薄緑色の芳醇な香りを嗅いでいるとき、時を忘れ、些細なことはどうでも良くなる。
とらわれなくなる。
早く、早く、このそば粉で、蕎麦を打ちたい、食してみたい、との思いがいっそう募る。

         

傍から見たら、たかが蕎麦である。
だが、これは魔物。
されど蕎麦、なのである。

どうやら私にも、すっかり中毒症状が出ているようだ。
嗚呼、常陸秋そば。。

次はいよいよ蕎麦の手打ちと、味わいの時だ。
年越しにも十分間に合う。

1 件のコメント:

  1. 懐かしいな石臼ですね。昔私も使ったことがあります。結構力がかかります。長い時間やると疲れますね。abianさんが頑張り屋さんですね。

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