左下に記された日付から昭和23年(1948年)5月28日撮影と分かる。
ちょうど65年前の今日である。他の説明書きが無いので正確なことは分からない。
この年の春に入学した児童たちなのであろうか、男15人女13人と女教師が校庭の木の下に並び、背筋をピンと伸ばし、神妙な面持ちで写真に収まっている。
女の子はオカッパ頭で男子はほとんどが坊主頭である。
終戦からまだ3年も経っておらず子供たちは全員が素足に下駄ばき、服装もまだまだ質素だ。
撮影場所はGoogleMap=>常陸大宮市舟生865で、現在は廃校になっている旧山方小学校・舟生(ふにゅう)分校ということは分かっている。
あどけなさが残る無邪気な姿ばかりだが、それぞれの顔には現代の子供達には無い、この時代をたくましく生きた力強さが感じられる。
この子達、物心付いた時分には既に戦争一色で、決して明るい時代ではなかったはずだ。
だがこうやって新しい時代に学校に入り、これから待ち構える将来に明るい夢を見て希望を抱いていたに違いない。
この時に彼らが6歳とすれば昭和16~17年の生まれである。
ということは、現在皆さんは71歳~72歳になられている。
高度成長期に若手の担い手として活躍した世代で、既に一線を退いておられるであろう面々である。
この皆さんのお名前は存じ上げないし、消息も知る由もないけれど、それぞれが豊かな人生を歩まれ、いまも御健在であられることと思う。
女教師と子どもたちの心の触れ合いを描いた映画の名作、壺井栄の『二十四の瞳』は昭和3年から戦後の昭和21年が舞台である。(・・この夏、テレビ朝日で2時間スペシャルでドラマ化されるようだ)
この写真の日付昭和23年5月とほぼ同じような時代背景である。
きっと『二十四の瞳』と同じような心温まるドラマが、この教師・児童たちの間に多々あったことだろう。
写真を見ていると、映画と重なることもあって子供たちの明るくはしゃぐ声が聞こえてきそうで目頭が熱くなる。
きっと、この写真撮影が終わった途端一斉に走り出して校庭に散ったであろう子供たち。それを温かい眼差しで見守る教師・・という構図だったろうか。
旧舟生分校の校舎はコンクリート造りに建て替えられて久しいが、以前はここも木造校舎だった。
そして、木造当時の校舎や校庭では松本清張原作の映画『砂の器』(1974年版)のロケも行われている。
(⇨ これについてはエビネンコ氏のブログに詳しいのでぜひご覧頂きたい。画像もあり。)
『砂の器』に登場する舟入分校とほぼ同じアングルから。 手前の家も屋根の形は(右端の家が新築されたが)同じだ。 |
写真の背景である久慈川を挟んだ山並が砕石採掘で山容が少し変わった程度だ。
いつでも昔に戻れる場所、いろんな思いが詰まっている場所が、それも原風景も変わらずにそのままあるということは、とても貴重なことで有難いことだ。
校庭隅の二宮金次郎像(ここのは左足が前に出ているタイプ)は昔のままか |
JR水郡線・中舟生駅はシンプルで変わり様がない |
あの古い写真を撮影したであろう場所の、現在の風景だ。
この桜の木や雑木の向こうの坂の下には久慈川が流れている。 かつては眼下に一望できたのだが今では見えなくなってしまった。 あの子供達の集合写真の撮影場所は白いベンチの辺りだろう。 |
既にこれらの桜の木も老木となっている。
やはり65年の歳月は長くて重たい。
六十有余年、世の中はあまりにも変化し、この分校を取り巻く環境もまた激変した。
子供の人数の激減で、平成17年に舟生分校は廃校となってしまった。
しかしながら、旧校舎は『蝸牛文庫』という私設図書館(・・・と言うよりはクラシックやジャズを中心としたレコード・CDの膨大なライブラリーだろう)として解放され、地元民に親しまれている。
この分校の卒業生たちの懐旧の念(おもい)は特別に強いようだ。
2012/05/10にNHKBS『日本縦断 こころの旅』でこの分校が放映されたのだが、番組HPにはここに学んだ卒業生・滝本静江さんの熱い思いの手紙が紹介されている。
番組HPと手紙 ⇒ 『こころの旅 99日目 茨城 舟生分校と中舟生駅』
古い写真の中の女教師の名は『関先生』という。
ほかでもない、小生の母の若かりし日の姿である。この時は22歳だ。
大正15年生まれである母は教師を志し、念願かなってこの分校に赴任した。
自身が受けてきた戦前の軍国教育からすべての価値観がひっくり返った激動の時期に教師の職に就いている。
これからの新生日本を担う子供たちに対して、戸惑い悩みながらも新しい教育をしっかりと与えようと気概に燃えた、気鋭の教師であったことだろう。
だが、これから数年してシベリア抑留から復員した父との結婚を機に、教職を辞した。
嫁いだ昭和20年代半ばの農家においては、今のような省力化の機械類はほとんど導入されておらず体は酷使したはずだ。そして嫁ぎ先が大家族制度がまだまだ色濃く残る旧家・本家筋であったのだから、戸惑うような因習も多々あったはずだ。
母たちのような大正10~15年あたりに生を受けた人たちは、人生が『戦争』によって大きく翻弄されてしまっている。まさに激動の時代を生き抜いたと言える。
青春時代は軍事一色。その後の人生においても他世代にはないような辛酸を嘗めた人が多い世代ではなかったか。
いろんな苦労やつらい思いがあったであろうことは想像に難くない。
この教師時代の、おそらくは楽しかったであろう話も、嫁いで来た頃の、おそらくは苦労したであろう話も母の口から一度も聞いたことはない。
・・・もう聞くこともできない。
母はほとんど何も語ることもないまま平成5年に68歳で突然に逝ってしまった。
あと数日で20回目の命日が巡ってくる。
この齢になってみて、聞きたいこともたくさんある。
この齢になったからこそ、理解できることもある。
親孝行の悔いもまた然り。
つくづく残念でならない。 合掌。。
幾多の子供達を見守ってきた桜の木。 今は校庭にはベンチがひとつボツンとあるだけだ。 吹き抜けた風の音とともに、子供達の歓声が聞こえた気がした。 |