2013年3月7日木曜日

東野村の天保検地絵図

ご多分にもれず常陸大宮市内でもあちこちで耕作を放棄した農地が目に付く。
近年ますます増えている。
担い手の高齢化など理由はさまざまあって、仕方なくそのようにしているのだろう。
このような荒れた田畑を目にするにつけ心が痛む。

かつては山あい=谷津の僅かな田んぼ(いわゆる谷津田)まできちんと耕作され、見事なまでに整った里山の風景が広がっていたのだが。
最近では耕作が容易そうな田畑でも放棄されつつあり、荒れてきている。既に樹木が生育してしまって、原生林状態になっている田んぼが幾つもある。
こうなると元の田んぼに戻すのは容易いことではない。
右側の雑草が生い茂った部分が耕作放棄された田んぼ
かつては左側と同じようなキレイな田んぼだったのだが・・
木を伐採し根の部分を引き抜くという、時間も体力もそして費用も掛かる作業をしないと到底無理だ。
はたしてそこまでして農地に戻す農家があるだろうか。
となれば、このままどんどん原生林化が進んで田んぼとしての機能完全に失われ、回復も無理で全くの自然に回帰してしまうのだろう。

         

この地域の谷津を開墾し耕作可能地にしたのは、江戸時代の中頃ではなかろうか。
天明の飢饉(1782〜1787年)がきっかけではないかと思う。
この飢饉は東北地方の被害が特に深刻だったが、常陸国北部のこの地域でも影響は免れなかっただろうから、おそらくはその強烈な体験から耕作面積を可能な限り増やしていったのではないかと思う。それ以前は人口がずっと少なく耕作が容易なところだけで食べてゆけていたものと推察される。
里山の間に広がる谷津田とは、辛い体験を経た先人が人力を頼りに開墾して食料増産に勤めた苦労が刻まれた土地なのだ。

先日、常陸大宮市の歴史民族資料館に所蔵されている天保15年(1844年)の日付がある東野村の検地絵図を見る機会があり、さまざまな貴重な情報を得られた。
(⇨ 以下の写真は歴史民族資料館の許可を得て撮影したものである)
当時の庄屋は『惣兵衛』さんだ。
組頭として6人ほど名前が見える(が読めない)。
この検地絵図は、片面がA4程の大きさで和綴じの分厚い冊子である。
我が家付近の谷津部分
水色の四角が溜め池で黄色い部分が田んぼや畑である。その周囲の緑がかったグレーは山の部分だ。
上の写真のように谷津の一番奥まで田んぼとなっている。
それらの田んぼ一枚毎に細かな字で所有者の名前と面積(と思われる)が記されている。

この検地図の部分について言えば、現在も耕作されているのは中央の折り目部分から左側部分だけ。あとの右側のYの部分等は耕作を放棄して久しく、既に立ち入ることも出来ないような薮と林となっている。
ちなみに、この水色四角の溜め池は当ブログトップ写真に写しているものだ。
ちょうどこの絵図のYの字部分を左(西)から右(東)に写している。

         

この検地図を見ると1840年代の当地は今よりもずっと人家が少ないということもわかる。
記されている屋敷を示すマークは、いまも現存する古くからの農家の家ばかり。

ついでながら、JR水郡線・玉川村駅が作られた部分は次のような場所だ。
(左の赤い線部分は道路。旧道である)
大正11年に水郡線が図の真ん中を縦に(南北に)開通し、駅舎がこの図の中央部分に作られた。当たり前だが当時は一面の畑である。
この中に、我が家もそして本家筋の家も当時の戸主の名前でちゃんと記されている。

上の写真の一部を接写したのがこれだ。
黄土色で屋敷の位置が描かれており、戸主名と敷地面積などが記されている(ようだ)。
残念だが、古文書解読の知識を持たない小生ではほとんどが読めない。
かろうじて左の家は『新六郎』と読める。右の家は『真次郎』だろうか。
         

この検地図には、上記のような田畑一枚毎の詳細版以外に、全体図が付けられている。
どのあたりにどのような小字(こあざ)があり、人家・屋敷があるかが示されているページだ。
我が家が記されているのは次の部分。位置関係は驚く程正確だ。
JR玉川村駅は真ん中下の方に見える『善』の文字の位置である。
JR玉川村駅の場所は『善久(ぜんきゅう)』という小字だ。
この時までに、それぞれの谷津には溜め池が作られている。
東野の中心地で、宿とよばれる十文字の部分。村の中心地でも家はまばらだった。
ここに鉄道が通るのはこの絵図が作られてから78年後である。
およそ170年前の姿がここにある。
よくもまあこれだけの農家で、この一帯の隅々まで耕作し手入れしていたものだ。
先人の苦労が偲ばれる。そして脱帽である。

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