ブログ2013/02/01
標準語でいうところの『どんな点から考えてもその可能性がありそうには思えない様子』の意味とは全く別な意味でこの言葉を使うことがあると。
なかなか説明が難しいニュアンスの言葉ではあるのだが、以下拙い文章で説明を試みたい。
まずは使用例から。(この言葉は会話の中でしか使わない)
例1. とても冷え込んだある冬の日の会話
A『今朝はだいぶ冷え込んだなぁ。水道が凍ちって出ねぇーもんな』
B『まさか1月だもんな』
例2. 片付け仕事をしたAとBの会話
A『あ〜あ、やっと終わった。これでもういがっぺ(=これでもう良いだろう)』(→いがっぺの『が』は非鼻濁音)
B『まさか二人でやっと早いな・・(=二人で片付けすると早いね)』
この言葉を使う際には、AとBの間にはある物事や事象について共通した認識とそれを具体的に示す事例があることが前提となっている。
1の例では、まず1月は真冬であり寒いという互いの共通認識がある。
その上で、B『ああ、共有している認識のように1月は寒いよね。まさにそんなこと(水道が凍って出ない)があるぐらいだよね』と事例を共有していることを返している訳である。
2の例では、二人には、一人より二人のほうが作業は早いという共通認識があり、そしてまた二人でやった結果このように早く終わった、という事例を共有している。
なかなかこのニュアンスはうまく伝えられないが、あえて標準語的な言葉に置き換えると、『将に斯くあらむ~(何々)』(まさにかくあらん~(なになに))という言葉になろうかと思う。
まさに(まさしく)、かく(このように)あらむ(あるような)、何々ということである。
この後ろの何々の部分に会話する者同士で共通して認識している事例が入るが、直接その事象の背景まで会話では詳しく言及することはしない。言わなくても分かっているはずの事例だからだ。そして、具体的に示す事象が『かくある』の部分である。
会話では、その共通認識事項と代表的な事例を、あなたとわたしは同じ思い・考え・感じ方で共有しているよ、という場合にこの『まさか』が使われるのである。相手の文化的背景も意識し(・・ちょっと大げさか)、かつ相手との距離間までも意識した不思議な言葉だ。
あなたと私は感覚的に共通した部分を持ち、理解を共にする仲間だよというニュアンスが漂っている。
この感覚をある程度理解した上で上記の会話を意訳すると次のようになる。(共通している認識は下線部分である)
1.B『まさにかくあるように(今1月が寒い冬の真っ最中だという共通認識のとおり、事実水道が凍ったように)1月であるから寒いことだよなぁ』
2.B『まさにかくあるように(二人でやると一人でやるより早く終わるという一般的な共通認識のとおり、事実このように終わったように)二人でやると早く終わるものだ』
言語学を学んだ訳ではないので、正しい言語分析とはとても思えないが、上述のように『まさか』は『まさにかくあらむ~』の略語であろう、というのが小生の考察であり、一番スッキリする解釈だ。
ネットでもいろいろ調べてみたがどこにもこの解釈は出てこない。小生のオリジナルである。古く万葉時代の古代・上方語の名残ではないかとも思うが、果たしてどうだろう。
いろいろ調べているなかで、茨城弁を多角的に調査研究したHPを見つけた。
昭和35年~45年頃の県南・土浦地方の茨城弁を調査研究したもので、極めて充実している。かなりの大作である(ざっと目を通すだけでも大変なボリュームで、読み進めるにはさらに気合いを入れる必要がある)。ただ、この中にも『まさか』の記載はない。
昔の茨城弁集
この中で茨城弁と古代万葉語・上方語との関連性について触れた部分が何箇所かある。茨城の言葉には古い時代の上方言葉が反映されているようだ。ということは小生の仮説もあながち的外れでも無いのかもしれない。
残念ながら、既にこの『まさか』は死語になりつつある。
かくいうワタクシも使用することがほとんどなくなってしまった。使いたい衝動にかられることがたびたびある(・・・そのほうが気持ちを正しく伝えられるような気がするからだ)が、違う似たような表現で言い替えてしまっている。相手に伝わるかどうか心配だからであるのと、怪訝な顔をされるのがオチだからだ。
言葉は文化であると同時に、生き物でもある。
こうやって時代とともに変化し、やがては死語となってしまうのは仕方ないことなのだろう。
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