2012年9月27日木曜日

(私見) 金スマ『ひとり農業』が伝えるメッセージ 〜 命の時間

TBSテレビで金スマ・ひとり農業のスペシャル番組が年に数回放映される。
あす(9/28)の夜も放送が予定されている。

言わずと知れた、番組ディレクターである渡辺ヘルムート直道氏の、ここ常陸大宮市内での農業奮闘バラエティーである。
ひとり農業の場所は、市内とは名ばかりの山に囲まれた地。
同じような環境で同じ農業に携わり、そしてこの地域の特性を知るものとして、毎回感情移入して見入ってしまっている。

今回は恒例の秋の2時間スペシャルのようだ。
中居氏ほかのメンバーが秋のさまざまな農作物の収穫を楽しむ映像が放映されるのであろう。

それにしても、多岐に及ぶチャレンジには脱帽する。
彼はなかなか器用であるから続けられるのだろうし、しかも全ての作業には全力投球だ。
キツイ農作業を続けられる熱意の源泉は、きっと農業への限りない愛情なのだろう。

         

彼の農業挑戦も5年目である。
すでに4回の春夏秋冬を経験し、この地での生活の大変さも良さも、農業の辛さも素晴らしさも、彼のなかにしっかりと刻まれたに違いない。

以下は私見であるが、本腰を入れてこの地で農業に携わっている渡辺氏もきっと同じであろうと思う。

         

農業に携わると、5感がいつも刺激される。
毎日、自然を感じる。
山の緑の微妙な変化だったり(視覚)、季節ごとの風の匂いだったり(臭覚)、鳥や虫の鳴き声だったり(聴覚)、土の柔らかさやキュウリのトゲの心地よさだったり(触覚)、採れたての旬野菜の甘みだったり(味覚)、など。
人が生きてゆく上で、自然とのふれあいは欠かせないものだと実感する。

そして、農業は毎日いくらでもやることがあって、けっして退屈しない。
体が動く限り働くことが出来るので、定年というものがない。
( ⇨ 以下余談である。
たとえばであるが、都市部のサラリーマン諸氏の多くは完全定年リタイア後もまだ身体は健康であるだろう。日課のごとく犬の散歩との図書館通いしての新聞読み、スーパーへの買物の付き合い、月一ゴルフ、時々の旅行あるいは地域ボランティア、そんな繰り返しで長い老後を過ごすことになるのだろうか。
重層的なしがらみがあり、家族の生活も考えると仕方のない生き方=選択枝がなかった生き方であったのかもしれないが、その気になればプチ農業体験などはできる(できた)はずだ。
どのような形であっても若干でも農業に接し身を自然の中に置いてみると、人生の後半が多少なりとも充実するのではないかと思うのだが。)

一見便利で健康的・機能的な都市生活だが、ストレスと渇望感・未充足感に苛まれてはいまいか。
農業では、自然と向き合うなかでなんとも自由な精神活動が保証されている。
ひとり農業の渡辺氏の生活がそのように見える、だからこの特集が視聴者の人気があるのかもしれない。

フランスの哲学者ヴォルテール(1694-1778)は言う。
『最後は農業にたどり着く』
『自然は人間の施す教育以上の影響力をそのうちにいだいている』
   と。

矜持を持って農業を営む人には、自らの手で、自らの暮らしと農の営みを作り出していることからくる静かな誇りと自信がにじみ出ている。

効率性や金銭の多寡が尺度ではない。
マニュアル化された仕事、お金で買うだけの消費生活の中では決して感じ取ることが出来ない感覚であり、充実感だ。

そして、自然は命の営みそのものだ。
その流れが人間の都合による時間の刻みではなく、命の時間に委ねられている。
人間としてのあるべき姿、大切なことを、すべて農業では気付かされる。

         

高度成長期以降、都会化と縁のない、時代に取り残されたように見えるこの山間いの地(・・ひとり農業の場所も、我が家のある場所も)は、実はこれからの時代の手本になるのではないかと、ふと考えることがある。

過疎化が進む田舎だが、秘ている可能性は限りなく大きい。
人間が人間らしく生きるための根源的な命の時間が、ゆったりと流れている。

一見すると華やかなバラエティー番組の金スマだが、こと『ひとり農業』が伝えようとしている真のメッセージは、実は深遠であり大層重たいテーマだと私は思っている。
つまりそれが『命の時間の大切さと素晴らしさ』に他ならないからである。

共存共栄
愛おしき仲間たち

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