2012年9月29日土曜日

保内郷・清音楼と中秋の名月

茨城県久慈郡大子町の地のこと。

我が常陸大宮市も立派な田舎であり山の中だが、さらに県北にある大子町(だいごまち)はもっと険しい山の中の狭隘地である。
大子町は福島県との県境である
中世のころから、この大子町あたりは『依上保(よりがみのほ)』と呼ばれた。
そしてその地域全体を『保内郷(ほないごう)』と称した。
中世に常陸の国を支配した佐竹氏の『佐竹文書』には、ちょくちょく現れる地名だ。

         

水郡線が開通するまでは、現在の国道118号線に重なるかつての南郷街道が陸路での主要なアクセス路であり、周囲からは隔絶された不便感があった地域だ。
ただこれは現代の感覚でいえばの話で、中世の時代には東北との境の要衝の地であり、国境最前線の緊張感あふれる場所であった。
時の権力者の関心が自ずと高い地域であり、いま想像する以上に往来者も多かっただろうし、それに伴い各地の情報もまた集まったであろう。
当然ながら、居住者も多くいたに違いない。

佐竹氏がこの地を支配した鎌倉時代~江戸時代初めには、北からの侵入する勢力の防御の地としては無論のこと、金(Gold)の主産地としても山林資源の宝庫としても重要視された場所だ。
徳川時代になってもその重要性は変わらなかったようだ。

         

かの徳川光圀はこの地に11回(藩主時代に6回、隠居後5回)も訪れたと記録にある。
他の藩主の当地巡視が少ない中で、異例だ。
何か惹き付けるもの・気になるものがあったのだろう。

光圀は保内郷巡村の折りには、現在の大子町町付の『飯村家』にしばしば宿泊している。
町付は大子町市街地からさらに北に入った県境の山間地である。
GoogleMap==>  大子町町付
『飯村家』は地元の有力郷士(=農家と武士の中間層で名字帯刀が許された家柄)である。

((   余談だが、光圀より時代はずっと下って明治初期に、当家から飯村家に嫁いだ女性がいて、そのご縁あって今なお両家の交流は続いている。 ))

特に隠居してからの保内郷巡村の際には、学者、文人、侍臣を同道させて、しばしば飯村家に連泊したようだ。
飯村家当主は学問、識見にすぐれ、詩をよくしたことから光圀はたいそう気に入り、詩歌の会を何度も催している。
飯村家の敷地内、八溝川を眼下に見下ろす場所に詩歌の会の庵を建て、『清音楼』と名付けている(現在は建物はなく、碑が建っている)。
(飯村家・ 清音楼 = 水戸黄門の保内郷巡村 に画像あり)

驚くほどの文化的な知識人が、この山奥の地に、この時代にいたのである。
いま考えるよりもずっと江戸や京との結びつきがあったのであろうし、これらの文化を積極的に吸収した知識人たちがいたのだろう。
実際に、幕末の天狗党の乱(=水戸藩における尊王攘夷の改革派と保守派との間の派閥抗争)にも飯村一族から数名が駆けつけ、諸国を転戦している。

山奥=不便で文化的に遅れた地域という画一的な見方、現代の史観はこの場合は明らかに誤りである。

隠居した光圀にとって、飯村家当主は鄙にあって優れた詩歌の友として映っていたようだ。
巡村には、政治的な意図はなかったのかもしれないが、まだ佐竹時代の名残は色濃くあった時期であるので、何かしらの意図はあったのかも知れない。

         

清音楼跡の碑に光圀の詠んだ句が彫られている。
  都にて ながめしよりも まさりけり
         この山里の 月のひかりは

この大子町・町付の山里の趣は400年以上たった今でも、全く変わっていないだろう。

風情があるのは、なにも大子の山里だけの『月のひかり』に限らない。
茨城の田舎の風情は、都のそれより断然素晴らしい。

今年の中秋の名月は明日9月30日だ。
だが台風が接近している。
その姿を眺められる可能性は、残念ながら低い。

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