大晦日と元旦、これまでの連続した日と何一つ変わらない単なる日替わりだが、年が改まるというだけでたいそう畏まった感じがする。
こうやって、暦の上で区切りをつけてその都度気持ちをリセットするというのは、案外良い生活の知恵なのかもしれない。
いつまでも過去のしがらみやら苦しみ、重たい気持ちを引きずっていてはなかなか前に進めない。
何かの区切りがあれば、気持ちの整理も付け易いのではないか。
特に日本人は(特に今年の場合は)、正月に対しては特別な区切り感を持つ。
子供の頃の正月、昭和40年代前半までは、我が家でもしっかりとした正月の神様、たしかお正月様と呼んでいた、をお迎えする飾り棚を設え、注連縄で飾り付けし、大きな鏡餅をお供えし、お神酒も奉げていたと記憶している。
当時はその意味するものはよく判らなかったが、普段とは異なる神様をお祀りしている飾りであり儀式ということで、子供心にも何か神聖なものに思えたものであった。
何時の頃からか、棚も作らなくなり、大きな鏡餅も備えなくなり、次第にこのような文化が消えて無くなってしまった。
今から2000年以上前、稲作文化と共に日本に渡来してきた神様がいる。
「年神様(としがみさま)」である。年神様の「年」は、今と少し意味が違って、「イネの実り」のことだ。
稲穂の豊年を念ずる「稔」という漢字はまさにこれを意味する。
このことから稲が稔って一巡する期間を「年」と称するのである。
だから「とし」は元来稲を意味するものであり、中国の古代では「載」「歳」「年」などと書いたらしい。
年神様は、作物を育ててくれる農耕の神様だ。
普段は田んぼや畑にいらっしゃる。
そこで、正月は家に招き寛いでもらう。
するとその年も豊作にしてくれるのである。
ただ年神様はそう簡単には家に来てくれないのである。
そのために人間は、必ず神様に我が家に来てもらえるよう、準備に必死になる。
まず、神様は汚い所が大嫌いである。できるだけ清浄な場所がよい。
だから、まずは建物をきれいにする。これが年末の煤払いである。一般家庭では大掃除といったところか。
年神様を家に呼び込むためのものが「門松」で、いわば目印である。
年神様はどうやら先の尖ったものがお好みなようで、竹を尖った形に切り、周りに針葉樹の松の葉を飾ることで、年神様に来てもらおうというのである。
こうしてやっと年神様に来てもらえた、ということで、これが正月が「おめでたい」とされる所以だ。
年神様からのエネルギーの形象が鏡餅である。丸は神聖な形だ。
それ故に鏡餅は年神様の御神体なのである。
元旦には、めでたいものに語呂合わせしたオンパレードである「おせち」とともに、お屠蘇を飲み、年神様の御魂というべき餅を雑煮にして食べる。
雑煮は年神様の魂としての餅を浄火で煮込み、神人共食することによって神のエネルギーを頂くである。
年神様を田んぼや畑にお戻りいただく儀式もしっかりと用意されている。
毎年1月15日ごろ、全国で行われる「どんど焼き」という行事だ。
門松やお供えなど、神様を迎えるための飾りを積み上げ、火をつける。
燃やすことで、炎と共に年神様を田んぼや畑にお見送りし、仕事に戻っていただく。
これで今年の豊作は間違いなし、となる訳である。
どんど焼きは「これでお正月は終わり」という大事な儀式なのである。
このように、本来のお正月は農業にとって関わりが深い神聖な儀式であり、切っても切れない重要なイベントなのである。
いまやすっかりその宗教的な意義も、姿形も無くなってしまったけれど。
0 件のコメント:
コメントを投稿