こんな日にはSLの吐き出す煙と水蒸気がたいそう立派に見える。
黒く立ち上る煙と、車体の下から横に広がる多くの水蒸気のSLは、確かに絵になる。
停車駅の玉川村駅でこれを見られるのだからあまたの人が集まる。
すぐ脇を通り過ぎるSLの煙に包まれ石炭の燃えた匂いに、至福の一瞬を味わった人も多いことだろう。
2014/12/01 試運転(youtube)
だが、いつも写真を熱心に撮っている人たちを見ながら思う。
この種の人たちは、カメラのファインダー越しばかりでしかSLを見ていないなあと。
せっかく目の前に、巨大な鉄の塊。力強くたくましく雄々しく、健気に列車を牽く蒸気機関車が存在するのである。
自分の目で直接見て、しっかりと網膜に焼き付けるのも大切なのではないか。
肌で感じ、心が揺さぶられて、『ああ、SLっていいもんだなあ』と体験できるのだろうと思う。
悲しいかな、デジタルな画像に(あるいは印画紙にという人もいるだろう)姿を残すことばかりが目的となっていて、実際に感動することを忘れているような気がする。電子機器の中に姿を残すことに気を取られて、生の姿を見ていない。
後になって振り返っても、周囲の山々の紅葉はどんなだったとか、SLはどのくらいの大きさだったのかとか、どんなふうに汽笛を感じたのかとか、黒い塊がどんな威圧感で走 り抜けたのかとか、走り去った後の燃えた石炭の残り香の余韻など、そこにいたことでしか経験できないような記憶を、何一つ辿れないのではないか。バーチャルな世界となんら変わりない。
とり終えるとすぐに次の目的地に走り出す人ばかりだ。
(子供の運動会で、ビデオカメラで子供の姿を撮影することばかりしていて、実際に走っている生の姿をまったく見ずじまい父親、と同じであろう。)
集まってきている人たちの中には、会社勤めをリタイアしたように見受ける御仁も多く目にする。
第二の人生、もっとゆっくりしたら良いのにと思う。
齷齪(あくせく)しながら生きてきた会社勤めの延長を、老後の趣味の世界でもまだ続けている。
同じような人たち同士で撮った写真を自慢しあい、それが大切なコミュニケーションなのだろうから、まあよい。他人様のことだから。
SLを眼(まなこ)で心で見ずにいて
哀しからずや 撮るだけの君
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