『じどのじんじゃ』と読む。
昔は地頭殿神社と言われていたのを徳川光圀が現名称に改称させたとのことだ。
全国でもたぶんここだけの名前の神社であろうと思う。YahooでもGoogleでもこの神社しか出てこない。
(岡山県御津郡の志呂神社境内にある天満宮の末社には『地殿神社』という額が『天満宮』という額とともに掛かっているようだが、神社そのものとして独立しているのはここだけだ。)
地殿神社 |
この程度の神社では鐙籠等の再設置はなかなか難しい。
後片づけといっても横にとりあえず置いておくだけでまだまだ生々しい姿だ。こんなところにも震災の傷跡は残る。
この鎮守も新年に向けての準備がなされている。
大鳥居のしめ縄も新しいようだ。
今尚この地域の人々の信仰の拠り所となってる大切な神社なのである。
ただ地元の人でもよほど関心がある人以外は、この神社の云われなり祭神なりを知らないのではないかと思う。
社殿左横の軒下に掲げられている額『地殿神社略記』にその説明があるものの、高所に掲示されていることに加え字が小さく、かつ文字が薄くなっていて判読不能の個所も多い。なにしろ70年以上前の昭和15年のもので風雨に晒されてきたものだから致し方あるまい。
地殿神社略記の額 |
参考のために、時間はかかったが難解な文字列を解読してみた。
自分自身のメモとして残すためであると同時に、この神社に関する情報を得たい方のため(・・いるとは思わないが念のため。どんなにネットで調べても出てこないし、国会図書館で調べても探せない情報であることは間違いない。断言できる。)、この『地殿神社略記』をここに紹介しておきたい。
(あくまでコンパクトデジカメで撮ったものをPC上で拡大し解読を試み、読める範囲で文字に落としたものである。判読不能は■とした。また浅学ゆえの誤読・誤解釈もあるものと思う。お赦し戴くとしてそれを前提として参考にしていただきたい)
地殿神社略記
御鎮座地 茨城県那珂郡玉川村大字東野字坂上三十八番地
御創立 年代 平城天皇の御宇大同四年巳丑四月(紀元一四六九年)大和國大三輪より遷し奉る
御社號 地殿神社 初め地頭殿と稱せしが霊元天皇の御宇寛文三年十二月水戸藩主徳川光圀卿の藩政により一郷一社の制度を建てられし際 地殿と改稱す
御社格 古来東野の鎮守なりしが、明治六年 月 日 列格す
御祭神 大己貴命(*1) 相殿 素戔嗚命(*2)
大己貴命は 素戔嗚命の御子にましまし神代の昔出雲朝廷を御治めになり英邁なる神威は宏く國土を平定し隆■山間田畝を開拓し大に民治に御力を盡させ給ひり
天照大神は高天原朝廷に御坐して豊葦腹瑞穂國は世々天孫の天下を統べ給ふことに御定になり
使者を出雲に御遣わ■國土奉還を御慫慂(*3)になられた茲に命は深く大義名分を御考慮に遊ばされ國土を天孫に御奉還に決し御子孫と共に臣下の節を以て永久に奉仕を御契ひ申上げて帰順の赤誠を表し範を世に垂れ偉大なる御功績を萬世に傳へ給ひり
更に命は御英邁の反面御慈悲に富ませ給ひ世に医薬の祖神と仰がれ病に苦しむ多くの民草をば憫み給ひ是れを癒し或は竒しき神事により限りなき生物に至るまで御救ひ遊ばされた 其の宏大なる御恩澤に浴し感泣せざる者なかりき 福徳神は命を崇むる塑像にして世上に知られ一般の教慕殊に厚し
相殿に坐します素戔嗚命は天照大神の御弟にましまして天性の御勇猛八俣大蛇を簸の川(*4)上に屠り給へ其の體尾より名劔天叢雲劔(後三種神器の一草薙の劔と称し奉る)を御發見遊ばされ此れを御姉天照大神に献上し奉りき命は出雲の清宮に坐しませる時
御 歌(*5)
八雲起つ 出雲八重垣 夫婦隠みに 八重垣造る 其の八重垣に
と三十一字を以て御感興を御表現遊ばされたのが是れ我国の和歌の初めとし古より傳きし最も有名■■出雲地方を御平定になられ又或時は海原遠く朝鮮に御進出遊ばれ益々御名聲を博し給しむ 御■■■■■■に専ら建国に御貢献あらせ給ひる英雄神にましませり
往古郷人等相謀り因の内外に燦然として光り輝く此(地?)■■■御神徳■■仰し奉り■■■■■定■御神殿を建営し産土神と稱して奉■■是れ即ち當社なり
御寶物
神鏡 壱面 年代不詳
扁額 壱面 文政七年九月 従一位関白太政大臣中山愛親卿御揮毫
鈴 壱個 元禄十一年九月 當社神主 横山伊太夫 奉納
御境内の整備
千古の充杉欅の大木等の中に永■■神鎮する境内には本殿拝殿の外多くの末社を配し鳥居石鐙籠或は繪馬堂などの建造物整備し又数百貫の重量を有す手水石は船形の自然の竒にして十部の凹みは水一斗内外を入るるに適す 文政二年四月村人が隣村山方より引取り奉納せるものなり
御境外 社有地面
元禄年中社領除地畑五畝二十八歩 旧水戸藩主の寄進する処なりしが明治維新に際に上地となる間三十八年 年 日九反四畝三歩の社有田を設け神社の経営概ね此の収入を以て充当す
御祭祀の慣例
創立以来春季御例祭には当社の西方凡そ二十丁を隔てしぬ額澤山の山頂に御腰掛けと稱する地方稀に見る巨大なる霊石に神幸し御神霊を休み奉り厳に祈念を行いて後初■に奉遷し三日間に亘る盛大な祭事を執行す この風習今尚傳へて存す
御神饌幣帛料供進
明治四十三年三月八日神饌幣帛料供進神社に指定せらる
神社の三大祭及び国家重要の事に際し臨時大祭わ行はせらるる場合に供進使御参向によりて是れを大前に奉る
御祭日
一月一日 元旦祭
二月十七日 祈年祭 供進使参向
四月十五日 春季例大祭 供進使参向
旧九月二十九日 秋季旧例祭
十一月二十三日 新嘗祭 供進使参向
其他月次祭毎月一日興亜奉公日旧例による麦を参上、天祭御旗上、二百十日嵐除、献燈等
昭和十五年庚辰十一月十日
紀元二千六百年記念奉額
地殿神社
*1 大己貴命(おほなむち) ・・・ 大国主命のこと
*2 素戔嗚命(すさのうのみこと)
*3 慫慂(しょうよう) ・・・・ 示唆すること
*4 簸の川(ひのかわ)・・・・ ヤマタノオロチが棲んでいたという川
*5 八雲起つ 出雲八重垣 夫婦隠みに八重垣造る 其の八重垣に
古事記にある日本最古の和歌と言われるもの
(大意) 雲が何重にも立ちのぼり、雲が湧き出るという名の出雲の国に、八重垣を巡らすように、雲が立ちのぼる。妻を籠らすために、俺は宮殿に何重もの垣を作ったけど、ちょうどその八重垣を巡らしたようになあ
近所にある家の孫にあたる者なんですが、こちらのブログのおかげで神社の事がわかり助かりました!まだまだ境内社についてはかなり謎ですがありがとうございます!!
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