他の果実類(スモモや柿)が不作であった中で、ずいぶんと楽しませてもらった。
これからはサツマイモ・サトイモなどの根菜が旬の時期である。
特にサツマイモは、我が茨城県が作付け面積・収穫量ともに全国2位で、ダントツ1位の鹿児島県に続く立派なサツマイモ県である。
埼玉県はずっと下位なのであるが、『川越』のサツマイモはつとに有名である。
訳あって埼玉県川越市については、少々詳しい。
川越市は埼玉県南西部に位置する人口34万の都市で、池袋から北西に急行電車で30分ほどである。
複数の鉄道が都心へ接続しアクセスも良く、ベットタウンとして開発が進んできた。
古くから開けた土地で交通の要所でもあり、埼玉県の中心が県庁がおかれた浦和市や大宮市(=両市とも現さいたま市)にとって代わられるまで、ずっと県内では大きく賑わった中心的都市であった。
特に江戸時代には、川越城は江戸幕府の北の守りとして重要視されたため格式が高く、幕閣の老中クラスが多く城主となった(酒井忠勝・松平信綱・柳沢吉保など)。
そのため文化的にも経済的にも大きく発展し、一大地方都市となったのである。
かつて栄華を誇った頃の史跡・旧跡が旧市街地の随所に残っている。
小江戸とも呼ばれる所以である。
天海ゆかりの喜多院には江戸城から移築された『家光誕生の間』が現存している。
家康の遺骸を日光東照宮に運ぶ際に立ち寄って法要を営んだ『仙波東照宮』も見事な建築物だ。
そして、川越城下の中心地が『札の辻』という四つ角である。
周辺には多くの土蔵が建ち並び、時の鐘とともに観光スポットとなっている。
川越のイメージ写真の多くはこのあたりの風景だ。
なお、札の辻はお江戸日本橋からちょうど13里の距離である。
柳沢吉保が城主であった時分(1694年〜1704年)、近在の新田開発を積極的に進め農作物増産を図った。
とくに川越城の南3里ほどにある台地の開発では、後に三富新田(さんとめしんでん・現在の三芳町上富地区、所沢市の中富・下富地区)と呼ばれる地域を大規模開発し、現在でも短冊形に区割りされた整然とした農地が広がっている。
次の航空写真で見るとよくわかるはずだ。
GoogleMap==>所沢市中富
この短冊、たとえば上富では1戸の間口が40間(約72.7m)、奥行き375間(約681.8m)、面積5町歩(15,000坪=約49,500平方m)となっている。
とんでもない広さの農地が一戸に割り当てられたのである。
ここに農家を入営させ、農作物の増産を図ろうとした訳である。
ただ、この三富地区は川がなく水が得難い乾燥した土地で、作物を作るには大変な苦労があった。
長らくアワ・ヒエの類いしか穫れなかったが、1750年代に救荒作物として『サツマイモ』がもたらされ、盛んに作られるようになった。
文化年間(1804〜1814)になると、『川越いも』として江戸では大変な評判を呼ぶに至ったのである。
前置きが長くなったが、このサツマイモの話である。
川越はこのときよりサツマイモが特産品となったのである。
このころ江戸では『九里四里(くりより)うまい十三里』(9+4=13 栗より美味い・・)と、江戸と川越との距離をもじって、サツマイモの味の良さがうたわれた。
今で言うキャッチコピーだ。
こうしてサツマイモは別名『十三里』と称されることとなったのである。
このゴロ合わせ、安藤広重の描いた浮世絵『びくに橋雪中』にも登場している。
江戸の街中にはかなり広まったらしい『十三里』の呼び名である。
(ちなみに、びくに橋とは、現在の銀座一丁目あたりの京橋川に掛かっていた橋である)
江戸時代人のシャレだ。
江戸の街中にはかなり広まったらしい『十三里』の呼び名である。
(ちなみに、びくに橋とは、現在の銀座一丁目あたりの京橋川に掛かっていた橋である)
江戸時代人のシャレだ。
右端の看板に『○やき 十三里』とある。 ついでながら左の『山くじら』とはイノシシの肉である。 |
そして、10月13日はなんと『サツマイモの日』なのだそうである。
13日は十三里に掛けていることは言うまでもない。
十三里=サツマイモも確かに美味いが、栗も美味い。
この言い回し、栗に対して失礼だろうが、と思う。
13日は十三里に掛けていることは言うまでもない。
十三里=サツマイモも確かに美味いが、栗も美味い。
この言い回し、栗に対して失礼だろうが、と思う。
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