2014年8月23日土曜日

 広島の自然災害

いったい何がどうしてしまったのだろう、日本は。
広島市でとんでもない大雨により大災害が起こった。8月一か月に降る量の雨が一晩で降ったとか。
連日報道されている災害現場の映像は目を覆いたくなる。
我々の住む日本も、地球全体も、なんだか変になっている。
最近は、雨が降ると「記録的」とか「観測史上初」とか「過去経験したことの無い」などと必ず言う。過去にも滅多に起こらなかった異常な気象現象がここ数年に立て続けに起こっているということだ。
それに竜巻の発生も珍しくなくなった。日本で竜巻など考えられなかったのだが、今や当たり前の様に各地で発生して、猛威を振るっている。
先日東京三鷹市に局地的に降った膨大な雹も記憶に新しい。あの積もった雹の映像には小生も驚いた。何かが今までと違う、おかしくなっている、と感じるのは小生だけではないだろう。
       
これらはみな地球温暖化の影響と言われている。
かつて北海道では稲作はごく限られた地域でしかできなかったが、いまではほぼ全体が可能地域で、いまやブランド米を産出する立派な米どころになった。本州では最高気温が40℃を超える日が当たり前になる日も近いのかもしれない。やがては日本全体が亜熱帯化してしまうのか。日本は表情豊かな四季を失ってしまうのだろうか。
この環境変化によって、もっとも被害を受けるのは農業だ。農業が被害を受けると言うことは、食料危機に直に繋がるということ。
全世界的にこのような異常な気候が続くと、世界中で食料危機が起こる。
作物の不作が続き需給が逼迫する中で、自国の飢える民を差し置いてまで日本へ食料を輸出してくれる有難い国などないだろうに。

いまや食料は立派な戦略物質なのである。人口が極めて多い中国・インドあたりの大国が食料確保に一斉に動いた時、日本はすぐに飢えに直面する。
我国の食料自給率40%(カロリーベース)という統計の数字の正確さを問題視している向きもあるが、誰がどう見ても我が国の食料事情は国内農業生産だけでは国民の腹を満たすのはできないと言うことは明らかだろう。
         
これだけ異常気象やそれに伴う農作物不作のニュースが多くなっているのに、日本人はあまりに暢気すぎはしまいか。生きて行く上で一番大切な食べ物にあまりに関心が低い。空想的平和主義、能天気・根拠無き楽観主義とでも言うべきか。
いざとなったら何とかなる(する)・・・のであろうか。けっしてそんなものでは無い。真の飢えは人心を荒れさせ殺人まで起こすものだ。
いったん耕作を放棄して荒れた土地は、作物をすぐ栽培できるものではけっしてない。農地の現状回復とは時間と手間が掛かるもの。
まして作物は、種を播いてから収穫できるまで一定の期間が必要だし、必ずちゃんと穫れるという保証もない。米だって秋にしか穫れないのだ。だが毎日腹は空く。
             
田舎で食べ物はほぼ自給できる生活をしている故に、都市部生活者の有事の際の生活困難さを案じてしまう。
何も起こらない時は便利・快適な都市部生活だろうが、大災害など想定外の事象が発生したとき起こる日常機能マヒのリスクはあまりに大きい。特に食糧と住居。 
 かかるリスク管理の観点から、何かしら田舎とのリレーションを構築しておくことは、意味あることではないかと思う。生命を維持できる可能性が高まることになる。
災害発生直後の「とりあえずの避難所生活」の後には、必ず「生きて行かないといけない日々」が必ずやってくる。そんな時に、ちょっとでも頼れる先・当てにできる先を持っておくのである。少しは安心を担保できるだろう。保険みたいなものだ。

幸いに何も災害が発生しないとしても、時々田舎に行って、空気を吸うこと、土に触れること、汗を流すこと、できれば交流をもつことは、リタイア後の有り余る自由時間を生きて行く上でも、たいそう意味あるものだと思う。いろんな方向に人生の可能性が広がる。「人生の楽園」の生活などは勝手に向こうからやって来るものではない。

常陸大宮市でも東野地区あたりは、大きな自然災害とはほぼ無縁と言って良い。大きな川(久慈川・那珂川)からも離れており、大水害の危険性はゼロだ。急峻な山も無く、住居が土石流に流されるような場所もない。先の東日本大震災でも液状化した場所はない。
他所から来た人が定住するにはいろいろな意味でのハードルは高いかもしれないが、生活する場所としては、環境面では最高の地域と自負している。
 この里山の地は、これからの可能性を秘めている場所だ。心底そう思っている。

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