かつてこのブログでその塚が手入れもされず草だらけとなっていることを記した。
2011/06/28 ブログ
だが、最近(・・去年の夏頃だろうか)になって綺麗に周囲の雑草が刈り取られ、石碑が立っている塚全体が見えるようになった。
塚は綺麗に雑草が取り払われている 見え難いが中央に石碑が建っている |
この塚には石碑を挟んでヤマザクラの大木があって、時あたかも満開となっている。
大木のヤマザクラが満開だ |
だが、悲しいかな、この殉死は史実であるか定かではないとされている。つまり伝内田弾正左衛門の墓としての扱いだ。
だが、その伝えられてきた彼の精神は、ただただ主家の安泰を願う崇高で純粋な心であり、大層尊いものだ。
塚の説明板はボロボロのままのだが、周囲がキレイにされたことだけでもこの尊い精神を大切に思う気持ちの表れと捉えたい。
史実なら内田弾正左衛門さんが切腹して果てたのは、部垂城が落城し城主の宇留野義元が自刃した旧暦3月14日、新暦の4月20日のはず。
既に桜は散って葉桜の時期であったろう。
命絶えゆく彼の目には生命力に溢れた新緑の青葉が映っていたに違いない。
殉死が史実かどうかはともかく、内田弾正左衛門さんが静かに眠りについていると信じるに相応しい満開の山桜だ。
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