西金工臨の西金駅の話である。
石井良一氏の著になる『水郡線の歴史』(1960年 水郡タイムズ社)という本がある。古い本なのでなかなか手元にはないだろうと思う。茨城県立図書館に所蔵されており閲覧が可能である。
この本は水郡線の開通までのいきさつが詳しい。
(ただ、わが玉川村駅についての記述は全くないのが残念だ。石井氏は大子の在の方であるので大子関連の部分はやや詳細に述べられている。仕方ない)
明治40年(1911年)に根本正代議士たちが鉄道建設に関する建議を帝国議会へ提出するまでのいきさつから、帝国議会での論戦内容、決定されてからの地元の動きなど、資料を元にして実に細かくまとめられている貴重な本だ。
この本の中に、西金駅開設時の地元のドタバタについて記されている部分がある。やや長くなるが引用してみる。
※文中に出てくる『大郡線』とは、今の水郡線の前の呼称である。既に明治34年には水戸~太田まで開通していた私鉄・水戸鉄道があるが、のちにこの経営権を持った安田財閥が昭和2年に国鉄に売却。その際に、本線とあわせて水郡線と改名した。(正確には、部分開通しているため呼び名はややこしく変遷している)
ちなみにこの騒動話は、Wikipedia『西金駅』にも紹介されている話だ。
(P.78) 山方宿--上小川開通
この大宮--山方宿間に大郡線最初の鉄道が開通すると、鉄道省では山方宿--上小川間の第二期工事にとりかかった。この区間の実地測量は大正10年の夏のころ、鉄道省の横島技師を主任として行われ、ちょうどこの工事に着手する1年半ばかり前のことであった。横島技師は西金の島田屋旅館に宿泊して、山方宿から久慈川伝いに測量を始め、西金宿から上小川入口の新畑と仲沢とに二つの駅を設けて袋田、大子方面に及ぼそうというのが最初の計画であった。
ところがこの予定の計画はどこからどうして洩れたものか、早くも盛金の人たちの耳に入った。『盛金を素通りされては、汽車に乗るのに誠に不便である。一つこの際は地元民の熱意を示して、盛金の平山に駅を作ってもらうよう運動を起こそう』とよりより相談はとり交され、代表者が島田屋旅館に横島技師を訪ねて平山駅開設の運動を行った。再三の陳情に横島技師としてもついにその熱意に動かされ、ここに予定の駅は変更されて新たに下小川の平山と上小川の仲藤とに二つの駅を作るよう測量を始めた。
この測量の変更が西金の人たちに知られたのは秋10月のことで、全くの寝耳に水の出来事だった。そこで西金の人たちは『新畑駅を廃されたのでは、われわれ西金区民にとって不便である。二つの駅の間に西金駅を増設してもらう運動を起こそう』と村長小室隆氏をはじめ神長道之介、小野瀬英、小室順太郎、高村千代吉、神長道太郎の各氏、それに上小川の川井二郎氏らも仲間に加わって、政党政派を超越し幾度となく上京して鉄道省に西金駅設置の陳情を行ったが、すでに鉄道省では横島技師の測量に従って平山と仲藤とに二つの駅を作ることに内定し、この短い区間にもう一つの駅を作ることはとうていできない相談だと軽く一蹴したので、陳情団の一行は仕方なく致し方なくその場を引き上げる始末であった。
しかし西金の地元民はこれにひるまず、あくまで初志を貫徹する決心で郷里へ戻ると、引き続き横島技師を訪ねて根強く陳情を続けたので、ついに横島技師は手を焼いてしまい、『それならいっそのこと西金通過は見合わせる』と新しく盛金の国神神社の脇から大野内を通り、久慈川沿いに三峰の山腹の絶壁を通ることに路線を変更して、測量のやり直しまで始めた。そうなっては西金駅の設置はもう永久に断念のほかはない。この陳情がかえって思わぬ逆効果を生んだことを知った西金区民は、すっかり驚いてしまい、再び横島技師を訪ねて『路線の変更だけはなんとしても取りやめにして欲しい』と嘆願したので、西金通過だけはそのままになった。
するとそれから間もなく地元の代表者は太田建設所長を訪ねて『もし西金に駅を作ってくれないなら、用地の買収には応ぜられない』と用地買収反対の強硬な態度に出たので、太田所長はカンカンに怒って『それならもう測量はこれで打ち切りだ』と測量を中止させてさっさと引き上げてしまった。
この経緯を聞いて大子町の鉄道派は驚いた。この西金一カ所の問題で、長い苦心を重ねてここまでこぎ着けてきた大郡線の測量を中止されては大変だと、益子町長、石井栄次郎、外池太一郎氏らが西金に足を運んで地元の代表者と膝を交えて交渉したが、西金の人たちもそこは真剣で、たとえ西金一カ所なりとも死活の問題だとして頑張り、交渉はなかなからちがあかない。その間に太田所長はいったん引き上げはしたが、冷静に考えると自分の一存で測量を中止する訳にもゆかないので、再び戻って測量を継続するという一幕まで演じた。すると大正12年9月、折からの関東大震災に見舞われて、この測量は一時中止のやむなきに至った。
時の内閣は原内閣で鉄道大臣は大木遠吉氏だったが、大正13年、政変によって憲政会の若槻内閣が生まれた。地元では憲政会の小野瀬英、小室順太郎氏らが好機到来とばかりに憲政会の大津代議士を動かし、この運動には政友派の神長道之介氏らも同調して、大津代議士を通して時の鉄道大臣仙石貢氏にわたりをつけたが、その結果はなかなか思わしいものではなかった。
とかくするうちに山方宿--上小川間の工事は着々と進められ、この工事の完成を見たのは大正14年の8月、そしてその月の15日に下小川、上小川両駅の鉄道開通式が上小川駅前で盛大に行われた。
(p.81)西金駅の開通
かくして山方宿--上小川間の大郡線は開通したが、この開通をみる二ヶ月半ほど前に、大津代議士から西金の有志あてに、西金駅設置の運動資金として一万円ほどの金が都合できまいかと電報で問い合わせが来た。当時の金で一万円といえばなかなかの大金だが、この金さえ工面すれば西金駅の増設ができるものなら、これは万難を排してでも都合をすべきだと西金の有志たちは鳩首協議して、ただちに大津代議士に『カネ ツゴウデキル』と返電した。するとしばらくの間は何の音沙汰もながったが、その翌月になると大津代議士から『西金駅の増設には確実な見通しがついた』と電報で知らせてきた。
こうした吉報は、もちろん大津代議士の運動の結果にもよることだが、もともとこの運動に対しては地元民が熱意を示し、鉄道省としても古来この西金駅が水戸街道の一要衝をなし、大子に次ぐ第二の宿場として栄え、農産物、ことにこんにゃくの産地としても以前から知られた宿場であるので、ここに駅を増設すれば地方の振興にも役立ち鉄道省としても経営面から損をするようなことはあるまい、とも考えて増設を認めることに方針替えをしたものと思われる。
ところがさて西金駅増設という段になると、西金駅設置の場所をどこにするかについて問題になった。なにしろ当時西金宿の通りは道が狭いのである。ここに駅を作るなら、新しく県道をつくり替える必要がある。それには地続きの土地を買収する必要が生じてきたので、地元民は土地の所有者と交渉して県道の東側の畑24歩と田7畝15歩を買収して新道をつくり、従来の県道は駅の敷地に当てて西金駅を作ることになった。工事は8月7日、小野瀬英氏を工事委員長に、小室順太郎、神長道太郎の漁師を相談役とし、22名の役員を決めて、区民が毎日出勤、突貫作業で工事にとりかかった。その間には上小川駅が開通し、この作業を続けている間に、汽車が黒い煙りを吐きながら眼の前を通り過ぎると言うありさま。それでもこの工事はその年の10月2日に完成して、翌大正15年3月21日に西金駅が開通し、西金区民の長い運動はここに実を結んで、この駅の開通の日には駅前で盛大な開通の式典が催された。
いま駅の傍らに大きな桜の樹がある。これはその当時県道の傍らに植えてあったものだが、この工事が行われた際に、時の建設局長池田嘉六氏が『記念すべき桜だ。伐らずに保存しておくのがよい』という勧告もあって、そのままのこしておいたものがこの桜の樹で、今日地元民はこの桜の樹を池田桜と呼んで往時を懐かしんでいるという。また開通式の当日には、この池田桜の下で俳句の大会まで開かれたという名残の深い桜である。この西金駅を汽車で通る場合、この桜の樹を眺めて西金駅増設の裏面史を偲んでみるのも感興の深いものがあろう。
いかがであろうか。
当時どこの駅でもある程度誘致合戦はあっただろうがとりわけ、西金駅は当時の地元民の強い運動があって開設で実現した駅、なのである。一度や二度拒否されてもへこたれない何ともすざましい粘りではないか。先人達は実に偉かったと思う。その運動が強すぎて逆に駅ができない可能性もあったのではあるが。
いまはヒッソリとした西金駅周辺だが、大正時代末期には駅開設に向けて人々が心を一つにし、それはそれは熱いエネルギーを見事に昇華させた地なのである。
そんなHot-Spot・西金=WestGoldである。
文章中に出てくる盛金or下小川の『平山』、上小川入口の『新畑』・『仲沢』、上小川の『仲藤』という地名がどの辺りなのか残念ながら分からない。字名なのだろう(地元に詳しくないと分からない)。
二転三転した駅設置の場所である。もしかしたらこの地名の場所に駅ができていたのである。
水郡線・幻の駅・・ちょっとだけロマンがある。
※ 次回は、水郡線は『勝田--(常陸)大宮』のルートを通っていたかもしれなかった話を紹介したい。
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