佐竹氏関連のパネル展が開催されているので覗いてきた。
先日の講演会に続き、常陸佐竹氏の理解を深めるには実に良い催しだ。
一昨年35回にわたって茨城新聞に掲載された『奥七郡からの出発 常陸佐竹氏の軌跡』という連載記事を中心に、関連資料を展示した写真パネル展だ。
内容的にはかなり充実したものだろうと思う。なかなか訪ねることができない関連遺跡の写真がふんだんに掲示され、説明も良くなされている(と思う。さすが新聞社だ)。
パネル展
■日時 2月5日~28日 10:00~16:00 月曜日休館
■場所 ふれあいギャラリー
(常陸大宮市北町15 高速バス停となり)
入場は無料
掲示されている写真をじっくりと見つつ説明文を読むと、いまでは何ということもない当地の風景となっている寺社や山、道、川、館跡のそれぞれに、佐竹470年の軌跡が色濃く染み込んでいるのだということを改めて実感する。470年もの間、源氏の名門一族が常陸国北部で存続してきた歴史的事実はわれらの誇りである。
余談だが、徳川家康は佐竹という他の武門を圧倒する家格と勢力を誇った有力大名が関東北部に留まることを極度に恐れた。つまり佐竹氏は由緒正しい名門故に国替えをさせられた一面もある。徳川家康は己の出自に後ろめたさ・引け目があったのである。
うらやましいほどの家格に加えて実力(武力)も人気(領民の信頼)も基盤(豊かな領地・財政基盤)もある、そんな勢力が江戸近辺に居られてはなんとも都合が悪い。どうにか理由を付けて取り除きたかったのだろう。江戸近辺から強大な勢力を持った佐竹を遠ざけることで、(江戸の鬼門に位置した常陸から)寝首を掻かれる懸念を排除したわけだ。
徳川は清和源氏・新田の支流(つまりは源氏の血を引く)という伝えになっているが、これとてどこまで正しいかは分からぬ。とにかく征夷大将軍を称するためには作ってでも家柄と格式が必要だったのだろう。彼らは氏素性のはっきりしない、狡猾で知略と武力に長けた単なる三河の田舎侍だったかもしれない。あるいは源氏本流からしたら傍系の傍系の傍系のそのまた傍系かもしれない。とすれば成り上がりの秀吉と似たり寄ったりではないか。・・・というのが小生の考える説である。
(だからダメ、悪い、というのではない。徳川は天下泰平の世を作り、後の日本の基礎を作ったのだから功績は極めて大である)
ついでに言うと、徳川水戸藩は佐竹氏と違って常陸国全域を支配下に置けたわけではない。
あたかも現在の茨城県の範囲=水戸藩領のイメージがあるが誤りである。実はもっと狭くて限られた地域でしかなかった。
水戸周辺、那珂川以北の福島との県境までの地域、潮来市・行方市周辺、茨城空港あたり。
これだけしか領地ではなかった。土浦や常総など県南県西地域の大部分は他藩なのである。
歴史館所蔵の水戸藩領の地図(→これ。茨城県が横倒しになった地図で北が右、南は左の地図。茨城県民であればすぐにイメージ変換できるはずだ)があるので見て欲しい。色が付いた部分は驚くほど少ないであろう。
県南・県西地域のひとたちには、自分たちは徳川水戸藩の領地ではないとの自負があるはずで、いまも意識の奥底に潜んでいるのではないだろうか。そこを無視して水戸=徳川=茨城の中心、との単純な図式だけで物事を推し進めてもダメだろうと思う。この点については先だっての講演会で講師の常陸佐竹研究会会長の冨山氏も指摘していた。
水戸藩というのは御三家の一つではあるが、実はこれだけしか領地はなくてそれはそれは貧乏だった。それに比して佐竹氏の領国経営、財政は素晴らしかったわけだ。
つまり、常陸国の名実とも統一者は佐竹氏であり、今も慕われる存在なのである。
閑話休題。
佐竹マニアではなくとも、地元の輝かしい歴史と、佐竹氏のすごさを認識する良い機会であろうとおもう。ぜひ足を運ばれたし。
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