乾燥気味の日が続いていたので、程よいお湿りではある。
太平洋側に位置する茨城では、シーズン中に雪が降り積もることはほんの数回であるうえ、翌日には融けて消えてしまう。
雪は、当地のようなめったに降らない地方の人にとってはちょっと心待ちにしている季節の使者といった一面があるのだが、雪に埋もれる地域の人々にとってはもっと切実で、憂鬱なものであり、喩えれば『白い悪魔』であるのだろうから、あまり手放しでは喜べない。
いつも降り積む雪を眺めるとき、雪深い場所に不本意ながら移住していったある人々のことを思い出す。
他でもない。佐竹一門のことだ。移住先とは出羽国(=秋田県)である。慶長7年(1602年)のことになる。
なにしろ創建以来20代・470年も当地でしっかりと根を張り繁栄した一族である。
青天の霹靂であっただろうが、国替えは徳川からの絶対命令。とにかく引っ越さねばならない。
短期間のうちに一族郎党が慌ただしく出羽国へと移住していった。
以下少々マニアックな内容で、佐竹マニアの戯言である。
興味ない方は読み飛ばされるが良い。
この頃の佐竹氏は重臣佐竹三家(東家・北家・南家)、家臣団93家が主たるもので、家主、嫡子、主なる家臣とその家族が移動した。その他、学者、神官、僧侶、有能なる職人なども相当数移住したようだ。
移住した人数の明確な記録は無いようだが、数千人から1万人程度にはなったのではないかという推定もされている。
最初は東北の未開な寒村という先入観(・・・・当時としては仕方あるまい)から移住者を厳しく制限したようだ。
一族内でも親子間・兄弟間で残留組と移住組と対応が分かれた、敢えて分けた家も多かったようだ。
⇨ (以下全くの私見である)
余談だが、この時に領民のすべてが移住したわけでは当然ない。当地に土着していた大半の民は残留した。佐竹関係者でも残留組は多い。
県北部の各地にある佐竹氏の出城(高部城や小瀬城、東野城など)・館の周辺に住んでいた一族郎党の中には、普段は(平時には)百姓をしているが非常時となると槍・刀を持って城・館に詰め、臨戦態勢に入るという、『半士半農』の輩は数多かったはずだ。つまり前線守備防衛隊の一員である。このあたりでは城下(太田)ほどには兵農分離は恐らく進んではいなかったはずだからこのような形態の人間が多かったと思う。彼らは間違いなくそのまま残留した。
彼らは農業と言う生活の糧があり生活基盤が整っていたことと、当初の移住人数制限があったこと、秋田について行くまでの忠義を尽くすほどではなかった(上級家臣とは違って基本百姓であり自給自足できていたので主君に養ってもらっているという意識は薄かった)のかも知れない。
そういったことがあってか、この周囲には『わが先祖は佐竹家の家臣』と伝承している家がある。だが、それを裏付ける何かしらの資料が現存して確認できるような家系はごくごく僅かではあるまいか。都合の良いように言い伝えをしてきているにすぎないように思う。というものの、それらを嘘と否定するだけの用意も当方にはないのではあるが。
そして驚くことに、彼らの中には墓石の側面に『わが先祖は秋田移封の折りに当地に云々・・・』などとあたかも史実の如く彫り込んでしまっている家さえある。
百歩譲って仮に前述の郎党たちの子孫だとしても、郎党が佐竹家家臣と呼んで良いものかどうか。広い意味ではたしかに家臣だが・・。
あるいはまた別の見方をすれば、人的交流が今ほど広い範囲で行われていない時代。極めて狭い地域内の婚姻が主だったから恐らくどこかで佐竹傍系の誰かの血とは僅かには繋がってはいることだろう。とすればあながち嘘でもないともいえるが、なんとなくすっきりとしない。
事実だけ言うと、このあたりの墓地にある古い墓石で西暦1700年より古いものはまずない。現地でも確認しているし、『おおみやの野仏とその祈り』(大宮町教育委員会刊)においても確認できる。この江戸前期より前までは武家など余程の一部の家柄しか墓石を建てる事がなかった(文化的にも、経済的にも、あるいは社会の制度的に)からなのではないかと思う。墓が無いからそのような人が居なかったという証明にはならぬが、東野のこのあたりには、少なくとも名門に連なる一族がそこここにいた可能性は極めて低いと思う。伝承はあくまで伝承の域を出ない。
爺さんなどから佐竹一族の末裔とか家臣の誰それの流れを汲んでいるとか聞かされて自分も信じ込むのは良い。子に伝えるのも良い。
ただ確証もないのに家柄を誇示するような行為(墓石に断定して刻むなど)は、史実を歪曲してしまいかねない。そうして恥じないという姿勢、心根はなんだかちょっと悲しい。
いざ秋田に来てみれば広大な肥沃な土地であり、未開墾の平地も多く、更に移民を受け入れる余地は十分に残されていた。
そこで移住制限を大幅緩和したため、第二次移住者も相当数に上ったようだ。
ということもあってか、どれほどの人数が最終的に移住したのかは把握できないらしい。
そしてこれらの人々、雪や寒さに対する免疫はまったく無く、しのぐノウハウはゼロだったに違いない。
なにしろ雪と言ったら降っても翌日には消えるほどの僅かな雪しか知らないのだから。
移住後の初めて迎えた冬の、想像を超えた雪。寒さも半端でなかっただろうし、その辛さは如何ばかりだったか・・。なんと悲惨であったことだろうか。
新地での新しい生活に希望を託し、意欲に燃えて移住はしたものの、そのあまりの辛さに耐えかねて、病気になったり、あるいは常陸国に戻ったりした人も実は多いらしい。
いまでも彼の地の冬期は過酷である(・・と断定して言えるだけの実際の生活体験は無いのだが、ごく短期間の秋田滞在の経験はある。そう実感した)。
何年も前だが、秋田県内の佐竹氏関連の遺跡と図書館を訪ねるべく、各地を数回ずつ訪れたことがある。秋田の現地でしか閲覧できない図書館蔵の佐竹資料があったためである。
秋田市をはじめ、佐竹氏の有力家臣達が配置された大館、湯沢、角館、大曲、横手などなど。
それぞれの城下を歩いて見て回り、城跡にも立った。
眼下の街並こそ変わったものの、吹き抜ける風と遠く見える山並みは400年前の当時と変わりはない。
この山並みを、移住組はどんな思いで眺めたのであろうか。当地に眠る移住一世の彼らの声が聞こえたような気がした。
秋田・大館・角館・湯沢には厳冬期、雪の季節にも訪ねている。
佐竹氏が体験した思いを、兼ねてより我が身で経験してみたいと思っていたからだ。
そのときのことだ。乗っていた秋田新幹線が、秋田駅まであと少しという田んぼの真ん中で強風のためとして停車。それから1時間ほど経過して安全確認ができたので運行再開、という事態に遭遇した。(よくあることらしい)
その間、新幹線の車窓から見えるのは横殴りの吹雪のみだ。ガラスを叩き付ける雪の音が半端でない。
最初から面食らった。
訪ねた秋田の各地は、とにかく何処もが白一色だった。
移動に使った現地のタクシーも、地吹雪で数メートル先もが見えなくなり危ないため道路脇に車を寄せてしばし停車という経験もした。すぐ前の車のテールランプも見えないのだった。
地元の吹雪に慣れた運転手でも危ないと判断したようだ。その時にいろいろ話をしたのだが、どうやらこれが冬の日常らしい。
やはりこのような実体験しないと理解できない『雪のすごさ』である。
これらの街の中でも、県北に位置する大館には真冬を含め3度ほど足を運んだ。
小生ちょっとお気に入りの場所である。
常陸大宮市小場にある小場城を長く本拠地とした佐竹家臣の小場氏とその一族が移り住んだ地である。常陸大宮市とは縁が深い。
大館城下には、時の小場城主・小場義忠の寄騎として部垂衆も数多く移住した。
部垂衆とは、移住の62年前(1540年)に佐竹宗家に滅ぼされた部垂城主・部垂義元の遺臣たち。主が滅ぼされた後も寄騎として佐竹本家ならびに小場家に仕えた。
部垂と呼ばれた旧大宮町市街地部、城跡近在に居住していたためこう呼ばれている。(部垂義元は佐竹宗家に近い佐竹一族の有力者である。部垂に居住していたため名字とした)
大館市内には、この部垂衆が移り住んだと言う『部垂町』という地名もあり、そこには部垂義元を祭神とする『部垂神社』が鎮座する。
始祖である新羅三郎義光以来一千年に及ばんとする佐竹氏の歳月の中で、神様として祀られている人物はこの義元ともう1人だけだ。極めてレアなケースなのである。
(もう1人は始祖・義光の三男義清。甲斐武田氏の祖に繋がる人物である。山梨に彼を祀った義清神社がある)
それだけ義元は家臣や領民から名君として、絶大な信頼と敬愛を受けていたということだろう。
だからこそ、移住後もそこにかつて自分たちが住んでいた町の名を付け、かつての殿の神社を建立したのである。
常陸の国から遠く離れた地に来ても、自らの出自の地を記憶に留めたかったに違いない。
名門佐竹の家臣としての矜持だろうか。
今も地名は残されており、義元が神として崇敬されているという歴然とした事実。
移住した彼らの思いは400年以上経った今も引き継がれているとは言えまいか。
大館城址と部垂町・部垂神社は市の中心部にありその距離は400mほど。
だが、これらがある場所からJR大館駅は2キロほど離れている(というか、後に国鉄の大館駅が市街地の北の外れに作られたのだろう。最寄りの第三セクター線の東大館駅からでも1キロある)。
あの日、結構な降雪の中、大館駅からタクシーで城址に向かった。
運転手には、ずいぶんと物好きな、ちょっと変わった怪しい人物と映ったに違いない(マニアとはそんなものだが)。
雪に埋もれた大館城址と部垂神社は、訪れる人も無くひっそりとしていた。
さてさて、いまごろの大館の町の積雪や如何に・・・。
常陸国・東野の玉川村駅に降り積む雪も、彼の地に降り積む雪とまた同じ雪である。だがなんとも可愛らしいレベルの雪である。
水郡線・玉川村駅の雪景色はこんな感じ |
次の日には融けて元の風景に戻る |
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