内田義信さんをご存知だろうか。
小瀬の人で常陸大宮市のHPでも紹介されている(p.28)人なのだが、意外と知らない人が多い。ちょっと寂しい。
3月14日(旧暦)は内田義信さんの命日。訳あって自ら命を絶ったのだが、その死は人々にいたく感動を与え、深く心に刻まれた。彼のお墓とされる場所には立派な石碑が建てられている。傍らにはヤマザクラの大木があり、季節には美しい風景となる。
内田さんの正式な名前は『内田弾正左衛門義信』(うちだだんじょうざえもんよしのぶ)という。なんといかめしい前時代的な名前だろうか。それもそのはず、天文9年に亡くなっている大昔のお武家様だ。西暦でいうと1540年なのでいまから574年前である。内田弾正さんは自刃(つまり切腹)して果てたとされる。
内田さんの話とは、おおよそ次のようなものだ(『佐竹読本』高橋茂著 による)。
時は1540年(天文9年)。いまの大宮小学校の場所にあった部垂城とそこの城主だった佐竹義元。太田にいる佐竹宗家の当主義篤は義元の実兄である。いろいろあって義元は義篤からかねてよりにらまれていた。
ある事件をきっかけに、謀反の企てありとして兄・義篤は部垂城を急襲した。不意を突かれた義元、果敢に応戦したが、いかんせん闘う態勢が整っておらず極めて劣勢である。
義元は、同族筋の盟友である小場城と小瀬城に急ぎ使者を送り、援軍の派遣を要請した。
知らせを受けた小場城では『援軍を送ることは、佐竹宗家に対する謀反となる』として援軍要請を黙殺。一方の小瀬城は『援軍を送れば宗家に弓引くことになるが、さりとて見殺しにするは盟友の信義に背く』として城主は迷いに迷った。その時、上席家老・内田弾正左衛門義信は『部垂城に対する援軍の事、臣に一任願いたい。我に考えあり』と言上した。
一任を受けた内田弾正は、我が子の義直を含む13騎を率いて部垂城を目指し急いだ。八田境の部垂逆川まで来たときに、はるか彼方の部垂城の方を望めば炎は天を焦がし落城疑いなしと見えた。内田弾正は従者に向かって『部垂城はもはや落城せり。我らの任務は今ここに終われり。汝ら速やかに城に帰えられよ。予は義のために自害せん』と告げた。しかし帰る従者は一人もなく全員が田子内原の丘に登り、従容として自刃して果てた。その場所がいまの弾正塚であるという。
ちなみに義元は討たれて死亡。部垂城も落城した。
小瀬城主としては援軍を送ること=宗家に反逆することになってしまうところだったが、内田弾正の自刃という形によりお咎め無く決着を付けられた。盟友・義元への義も果たした。内田彈正は家臣としての大義に殉じた訳だ。
(→ 急襲された義元から使者が大宮町内から小瀬まで走り、小瀬城内の軍議を経て、内田弾正が支度を整え八田坂までくるまでには相当の時間が経過している。すでに戦の決着はついていたはずだ。内田弾正はそのあたりことは承知で、当初から自刃する覚悟で出陣したのであろう。小瀬一族存続のために)
現代のわれわれの感覚をもってしては、義を果たすための14人の自刃の意義は到底理解することはできない。内田弾正の自刃はまだわかるとしても、従者の13人の死の覚悟は理解できない。それくらい、戦国時代における宗家と一族諸家との主従関係は厳格で、当時としては当たり前の主君に対する臣下の義だったのだろう。仕えるということは主君のためにいつでも命を投げ出す覚悟であるということ。それくらい義というのは大切にされた重みのあるものだったのである。
『屍は田子内原の草苔に朽ちぬとも義は高々と万天に輝けり』と弾正塚由来記にあるそうだ。
ただし、この内田弾正の話、史実であるか断定できないとされていることだけは記しておく。
旧暦3月14日は新暦4月20日にあたり(旧暦→新暦変換プログラム)、まさに当地ではヤマザクラが葉桜に変わりつつある時分である。
弾正塚の石碑は地元の有志の手で昭和26年に建てられたもの。脇にはヤマザクラの大木。最近のことだが、塚の周辺の藪が大規模に伐採され大変キレイになった。
ヤマザクラのキレイナ時期にでも是非お立ち寄りを。場所はここ。
泉下の内田弾正ら14人もきっと喜ぶに違いない。
ちなみに義元の家臣たちは主君亡き後は、小場城の衆騎(よりき)として預けられ、部垂衆(へたれしゅう)と呼ばれた。佐竹氏の秋田国替えに伴い城主の小場義成とともに秋田に移ったのだが、彼ら部垂衆がまとまって住んだ場所が大館市の部垂町である。ここには義元を神として祀る神社もある。これが縁となって常陸大宮市と大館市は友好都市協定を結んだ(2015/11)。
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