2012年2月22日水曜日

佐竹氏遺構『東野城』を歩く

麗らかな日差しの、暖かい一日だった。

            

今日は久しぶりに身震いするほどの感動を味わった。
というのも常陸大宮市内の、とある戦国時代の城址を訪ねたのである。
またかと言われそうだが、戦国時代の城址・館址マニア、佐竹氏ファンとしては無上の喜びなのである。どうかご容赦願いたい。
場所は、常陸大宮市東野の字で言うと新谷(アラヤ)地区である。
我が自宅からも近く、JR玉川村駅から徒歩5分程の場所である。
Googleマップ ⇨ 東野城址の場所(緑の矢印部分)


            

この常陸大宮市東野地区に城址があるというと、地元住民であっても意外に思うかもしれない。
おそらくほとんどの人は初めて耳にするのではないかと思う。
城とは言っても、天守閣等の建築物は当然に無いし、石垣や水堀なども無い。
要は多くの人がイメージとして持つ姫路城やら江戸城などの近世の『城』の姿ではないのである。
単に山の頂上を削り平坦にし、山の斜面を削り郭というスペースを作り、中腹などには斜面の土を掘込んだだけの堀がある程度の戦国時代の城だ。
自然の地形を最大限に利用した山城である。
そしてその址である。450年程前の時代のものだ。
現在の姿は杉桧の林だったり雑木が繁る林であって、容易に人を近づけない。
ちょっと見ただけではそれと分かるシロモノではないのである。
私自身ここで生まれ育ったのであるが、親を含めて年寄りからも、城のこと等は一切聞いたことも無い。
それくらい忘れ去られた存在なのである。

            

高校時代の日本史の先生の影響を受け、当時からいろいろな遺蹟や遺構の場所を調べ歩くのが好きだった。
高校生だった昭和50年頃、地元東野にも城址というか戦国時代の館址などの遺構はきっとあるはずと思い、地形的にみて城・館を築く可能性がありそうな候補地の山中を何度も探索した。
その時にこの場所にも立っている。
だが、その時はここが城なり館の遺構であるとは十分な確信が持てないでいた。
またこのことを誰にも伝えることも無かった。当時としての限界だった。

残念ながらこの東野の城については市内遺跡地図はおろか、書物には一切載っていないのである。
在野の一歴史マニア、まして当時の高校生としてはこれ以上の探求はできないでいたのである。
当時の常識ではこの地区にはこのような歴史的な遺蹟はあるはずがなかったのである。
いつしかその存在さえも忘れ、37年の月日が流れた。

            

インターネットとはすごいものである。
全国各地の城址を訪ね調査し詳細に紹介しておられる方がいて、その情報を容易に得られる。
つい最近、この方のHPに『東野城』が掲載されたのを知った。
  余湖氏のHP 〜 東野城
昨年秋までは掲載されていなかったので、驚いたのは言うまでもない。
あくまで学術的な調査に基づく内容ではないので、このHPの情報も正しいとは限らないのだが、『ほら、やはり城・館はあっただろう』という思いであった。

あまたの城址を訪ね歩いてきた余湖氏も、『予想以上にすばらしい城郭であるのに驚いた。茨城でひさしぶりにいい城を見たという気分になった。戦国期の佐竹の拠点城郭というにふさわしい城郭といっていい代物である。これだけの城郭がこれまでずっと遺跡地図から漏れていたとは、なんとも信じがたい話である』と記している。

            

薮をかき分けて、かつて歩いた城址を37年ぶりに訪ねた。
あの時の記憶が鮮やかに甦った。

妙な史跡整備等はして欲しくないな、と思う。
このままがいい。保存状態は極めて良い遺跡である。
(きっとこの土中には、当時使われた陶器片・土器片などの遺物が埋まっているに違いない。こちらの調査にも興味がある)

かつて佐竹の一族郎党、荒々しい男どもが詰め、敵対する勢力との緊迫した日々を過ごしたこの場所。きっと怒号も歓声もが飛び交ったであろうこの場所。
ひとり一人が命を掛けて、置かれた時代の中で必死に生と対峙した場所。
ここには往時の人々の生きた証がある。

            

春の日差しが差し込む『東野城』は、450年以上は経ったであろう今、静寂の林の中にあった。
余湖氏のHPでAとされる部分
見事な土塁で囲まれた虎口(城への入り口)である
かつて何かしらの建物があったに違いない
同様にDの部分
林の中に掘り込んだ溝が続いている
当時としては大変な土木工事であったに違いない
Aの部分を東から見たもの
土塁の高さが見て取れる

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