2015年10月5日月曜日

一発検索の罪

高校時の同級生がたまに遊びに訪ねてくる。
年齢は同じなので、お互いに出現する症状は違うものの、見た目にも年相応に老化が始まっている。

彼との会話では、互いに人の名前やモノの名前が出てこないことはしょっちゅうである。
『ほら、あの、あれだよ、あれ。・・ん~と、なんつったっけ?(何て言ったっけ?)』とかの繰り返しとなる。なかなか出てこない固有名詞にイライラしながらも、なんとか答えを出そうとアレコレ努力しつつ会話が進む。多々、答えを諦めることもあるが、これが良いコミュニケーションの『潤滑油』になっている。コミュニケーションの『遊び』(=物事のゆとりの意味)の部分である。 たわい無い話だからこれで良いのである.

ただ、最近はスマホやタブレット端末を使う人が増えたことで、そんな場面も変わりつつあるのではないかと思う。このような場面で、ちょこっとキーワード検索すると何かしら答えが出てくる。画像で似たものまで検索・表示してくれるので、そのあたりから答えに近づける。一見効率的で合理的に見える。だが、さてどうだろう。
愛用のMacBook Air
PCは便利だが、頼りすぎると人間の基本的能力が衰退してしまいそうだ
スマホで一発検索してしまったら『あっ、それそれ』で終わる。更なる次元へ話が高まるのか、次の話題になるのか。会話が効率的過ぎるのも、はたしてどうなんだかと思う。
便利機能でコミュニケーションの質が変ってきているのではないかな。便利は便利だが、へんな風に慣らされてしまってきているのではないかしらねぇ・・。

幸い、同級生の彼との会話ではそこまでして答えを求めようとする熱意が互いにほとんど無くテキトーである。そのたため、スマホやタブレットを使う局面はまずない。
(彼はスマホユーザーであり、かつタブレット端末も所有している。どうやらタブレットは職場の関係で有無を言わさず持たされたようだ。だが、これら機器の機能を使いこなせているかどうかは解らぬ。小生と違って賢く器用な彼のことだから、持ち腐れなどはありえない。)

ついでいうと、私的な感情なのだが、小生は会話の最中に相手に目の前でスマホをいじられることが嫌でたまらない。きっと古い人間なのだろう。このようなたわい無い会話の場面では、調べれば分かるのかもしれぬが、あれだよあれ・・に付き合ってほしいと思うのである。
そういう『潤滑油』あるいは『遊び』のない会話は、スマホをいじられる不快感もあって何となく味気ない。答えが得られたスッキリ感よりも逆に軽いイライラ感の方が強い。
(ただし、この場面でもスマホの画像アルバム機能だけは、ある程度は肯定する)

けっして大事な何かを決める会議ではないのだからそれで良いのではないか。あくまで場合によるが、会話に効率とか正確性とかだけを求め過ぎると、時として大切なものを置いてきぼりしてしまうと思うのだが。どうだろうか、皆さんは。

あまりアクセクしない、してもしょうがないユルイ生活。またそれで十分なのが田舎の農的生活だと思う。

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