2015年8月10日月曜日

烈公御涼所

水戸市八幡町にある水戸八幡宮は佐竹氏所縁の神社である。
太田城を本拠地としていた佐竹氏だが、常陸国を掌中に収めた佐竹家19代当主・義宣は領国経営のため居城を水戸城に移した(1591年)。その際に常陸太田・馬場八幡宮から水戸城内(場所は北見小路と言われるが、恐らく弘道館の北側付近だろう)に分祀したのが水戸八幡宮の始まりである。
その後この神社は時の為政者により鎮座場所が転々とするのだが、いまの所在地に落ち着いてからは300年程経つ。
時は下って水戸藩9代藩主・徳川斉昭(烈公)の世。斉昭は当時の幕末カリスマ殿様、スーパー殿様である。
斉昭は弘道館、偕楽園などを作っていて、文化的な遺産を数多く残している。
あまり知られていないものだが水戸八幡宮の北側にある『烈公御涼所(れっこうおすずみどころ)』(→場所はここ)も彼にまつわる遺蹟のひとつである。
八幡宮北側の杉林を抜けたところにひっそりとある。水戸台地の北崖である。
ここの眺めは素晴らしい。
さすがのカリスマも暑い夏は暑かったに違いなく、暑さ盛りの時期にしばしこの木陰に涼を楽しんだのだろう。

酷暑の某日の昼下がり、この『烈公御涼所』を久しぶりに訪ねた。

ここに大ケヤキがある。樹齢400年とか。この木陰はたしかに涼しい
御涼所からの眺め(北東方向)
日立製作所の新しいエレベータ研究塔(G1TOWER)の姿と、万代橋の斜張橋の姿が目立つ
酷暑極まる今年の夏でも、ここの大ケヤキの樹下は涼しい風が吹き抜ける。

40年ほど前になるが、かつて上水戸に存在した某予備校に一年間籍を置いていたことがある。
この御涼所はその頃に何度となく訪れた場所だ。陽のイメージのある偕楽園に対して、何となく陰のイメージがあった八幡宮だが、閑に佇む社殿とここの眺めが妙にお気に入りだった。
将来に対する漠とした不安に押しつぶされそうな中、一途に目標に向かっていたあの一年。自分と静かに向き合うには最適な場所だった。
・・・と書くとちょっと格好良いが、つまりは『苦しいときの神頼み』に来ていた、とも言える。
今となっては懐かしい記憶であるが、ほろ苦い思い出の場所でもある。

眼下に流れる那珂川と田園地帯、遥かな山々の姿は、佐竹氏が意気盛んで八幡社を勧請した頃=ケヤキがまだ小さな木だった400年前の頃と、斉昭が活躍した160年前の頃と、眺めはたぶんほとんど変っていない。(並べて記すのも甚だ不遜だが)小生の予備校生当時の頃の眺めとも・・。
あの頃と違うのは、日立製作所のエレベータ研究塔が以前は紅白縞の塔(90m)だけだったが、横に新しい研究塔=G1TOWER(213.5mで世界一の研究塔だ)が建ったこと、そして万代橋の姿が新しくなったことくらいだ。

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