2012年8月28日火曜日

作物禁忌

迷信といえばそれまでだが、農業には作物禁忌といい、「○○を栽培してはいけない」との言い伝えが根強く残っている。

また、以前のブログ(2011/11/06ブログ)で書いたように、ここ常陸大宮市東野地区では柚子の栽培が禁忌とされており、このように地域を単位とする作物禁忌もある。

かく言う我が家では、生姜(しょうが。葉生姜も根生姜とも)と干瓢(かんぴょう・・つまりはユウガオの栽培)が禁忌とされている。

近所の同姓一族の中には、キュウリを禁忌としている家もある。
農家で夏にキュウリを作れないというのはたいそう不便であろうと思うってしまう。

         

作物禁忌の理由は、全く不明のものがほとんどだ。
その理由はおそらく次のようなことだろう。
(1).その作物は神様が食する作物であるとの理由。
人間が食するのは恐れ多いから作らない。

(2).その作物により神様が怪我をすると困るからという理由。
神様は高齢で足が弱く(・・・誰も見たことがないはずだが、こういう場合の神様って『高齢』だったり『足もとが覚束ない』などやや弱弱しいのである)、神社近くの畑に蔓性の作物(南瓜、瓜など)を作ると蔓に足をからませ転倒して怪我したり、棘のある木を植えると目を怪我したりするので作らない。
東野の柚子はこれに当たる。

(3).いつの時代か、祖先がその作物を食べて病気になったり、死んだりしたことがある。
あるいは、当時の知識では死因が分からない、とくに疫病や食中毒などのとき、誰か(地域や一族内の有力者、寺・神社の僧侶・神官、はたまた占い師やら陰陽道に通じた祈祷師など)が推測でもって○○を食べたせいではないかという話をしたことが、伝聞推定の域を超えて事実として固定化され、伝わっている。
そしてそれを今も守る。
我が家の生姜などはこのケースかもしれない。

         

これらの言い伝えは、その禁忌とされる単位が、地域だったり家単位であることから、氏神の信仰や血縁を同じくする人々の結びつきが関係していると思う。
まさに、かつての家制度の名残であるだろう。
昔は、人力主体の農作業を続けてゆくためには相互互助は必須であり、そのためのユニットとしての神社単位の氏子だったり、先祖を同じくする血族の結束力・絆は、格段に強固なものであったからである。

しかし、それらの作物も神饌(神に供える)すれば食べてよいだとか、分家したタイミングで栽培を始めるのであればよい、など禁忌の規定はかなりルーズでもある。
所詮その程度のものなのではあるのだが、誰もあえてその禁忌を犯そうとはしないのである。
心の底に『何か気持ち悪い』感が潜み、『別にわざわざ禁忌を犯してまで作らなくても』というものがあるのだろう。
緩やかではあるが確実に現代も人々の精神を拘束している。

某宗教の教義のように、その食物(たとえば豚)を一切摂取してはならない、成分としてはいっているものまでダメ、というほど厳格ではないのがなんともほほえましく日本的ではないか。

         

我が家の隣の畑で耕作しているNさん。
趣味で農作業をしておられるというものの、なかなか本格的であり、実に丁寧にいろいろな種類の野菜を作っておられる。
そのNさんから、我が家での禁忌作物である『生姜』をいただいた。
立派な出来でありみずみずしい。
さっそく夕餉の卓に並べた。
掘りあげたばかりの葉生姜

         

こういった採れた野菜の物々交換や、栽培の情報交換も、その場でしばしば行われる。
野菜を介しての会話が弾む。
大事な近所付き合いであり、楽しい時間だ。そして参考になる情報も多々得られる有意義なひとときだ。
大切に残してゆきたい地域コミュニケーションであることは言うまでもない。

1 件のコメント:

  1. 面白くてかつためになりました。
    我が家でもショウガが禁忌作物です。
    いわれは分かりません。

    返信削除