2012年8月13日月曜日

お盆

今日(8/13)から、田舎ではお盆である。

『盂蘭盆会』と言うのが正式名称のようだが、このニュアンスだと仏教行事のような意味合いは確かに強い。
だが、民族学的にはどうやらそれだけでは説明の付かない部分も多いらしい。
きっと日本古来の神道における先祖供養の風習や神事に、そのあと伝来した仏教の教義が、はたまた徹底していた江戸時代の宗教政策などが、適度に混淆していまの形になったのであろう。
個人的には、農耕儀礼のひとつの形と素朴な祖霊祭祀の形が合わさったものではないかと言う気がする。
この行事にも正月同様に、根底には農の臭いがある。
地域によって、信仰する宗教によって、形はかなり違うようだが、あながち的外れでもないだろう。

しかも時代によって形もそれなりに変化している。
かく言う我が家でも、昔から伝わる通りの形を原則踏襲しつつも、飾り付けを含めて(盆提灯などはその典型だが)だいぶ簡略化し便利なモノに置き換わってきているのが実情だ。
こうやって文化は少しずつ変化を遂げつつも、引き継がれるようである。

         

まずもって大事なことは、形ではなく先祖を畏敬の念をもって供養することだろう。
今の自分がここにこうやってあるのも、先祖のお陰なのであるから。
系図や家譜などが確かな形で残っていて何代も前の先祖の名前が判明している家などはごく少数の名家だけだろう。
大多数の人は、5代前(おおよそ江戸時代末期あたり)以前の先祖の名前はたぶん知らないのではないかと思う。

だが、名前も顔も知らぬ先祖ではあろうが、確かにそこに誰かがいて、脈々と命が繋がれてきたからこそこの世に自分が存在するのだ。
縁(えにし)である。

         

年に一回くらい、祖霊が主役のこの行事で、墓参りのとき・あるいは祭壇に並ぶ位牌に手を合わせるとき・離ればなれの親戚・兄弟が集うとき、共通の先祖に思いを馳せることぐらいしようではないか。
このときぐらい、先祖を想う静謐な時間があってもよいではないか。

そのことだけでも(普段は先祖のことなど微塵も思い出さない身であってたとしても)きっとご先祖様はお喜び下さり、普段の行状をお赦しくださるに違いない。
なにしろ霊となった方は、われわれの墓参りの回数がどうの、仏壇の供え物がどうのなど、そのような細かなことでお怒りになること等けっしてない。霊的存在であるお立場となっては、ココロは広いはずだ、きっと。
そして罪深い子孫をお許し下さるはずだ、きっと。
でもそれに甘えてはいけない。
そんな怠惰・邪悪・不遜・横着なココロだけは見透かすしているはずだから。
Bon Festival
prayers are offered to one's ancestors

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