『ああ、あそこに樹が生えているんだなあ』とその存在を認めてもらえる時はこの時だけの寂しい存在感だ。あとの大半の時間は他の緑に紛れてしまっている。
中には観賞用に植えられたり(足利フラワーパークのフジなど)、盆栽にされたりして近くで愛でられる恵まれたフジもあるが、大半はちょっと哀しい立ち位置にある。
それらは管理手入れがされなくなった山に多く自生しているから余計だ。
満開のフジの花 |
太い蔓になると地面近くは大人の腕程にもなるのだが、こんなものに絡み付かれるとモウソウダケもひとたまりも無い。
咲いた花だけは綺麗に見える。事実、この花に風流を感じた芭蕉は次の句を詠んでいる。
草臥れて 宿かる頃や 藤の花 (笈の小文)
が、実際的には蔓が絡まるこの異様な風景は里山の荒れ具合のメルクマールでしかない。荒れてどうしようもなくなった山林の証明みたいなものだ。鬱陶しいことこの上ない。
他の樹に絡み付いて生きるフジ。幹に絡み付かれると生長が阻害されついには枯れてしまう(絞め殺されてしまう)樹木。ここには共存共栄もへったくれも無い。
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