2015年6月30日火曜日

ウグイスの鳴き声は・・

ウグイスの鳴き声の聞こえ方について、去年のブログ(→2014/6/11ブログ)で記したことがある。
その時はホーホケキョではなくて『旧護国寺』と確かに聞こえていた。
その後には『わ~土石流』と聞こえなくもないなと思ったりもした。

だが、今年はこれらの聞こえ方に加えて『わ~どっこいしょ』と聞こえて仕方がないウグイスがいる(次のYouTubeの最後のほう。8秒あたり)。
    その音声はこちら

最近は、何かにつけ体を動かす際に(声に出さないまでも)『どっこいしょ』とつぶやいてしまっているからか。
頭の悪さはすでに自覚しているのだが、耳までが、となるとさてさて困ったものだ。

ところで、あなたは上の動画の中で聞こえるウグイスの鳴き声、やはりホーホケキョですか?  わ~どっこいしょですか?

2015年6月29日月曜日

2015年 ニイニイゼミ初鳴き

林の中に設置してある洞型のミツバチの巣箱(待受け箱)が4つほどあるのだが、3日ほど前からこのうちの一つにミツバチ数匹が盛んに出入りしているので、今日も昼時にしばらく観察していた。
チラホラ出入りするだけだが、いくら見ていても飽きないから不思議。
今年は分蜂シーズンが終わり、出入りはもうないと諦めていたのに。
入居すれば万歳だが、これだけでも嬉しい ~♡
ほどなくして、頭上でニイニイゼミが鳴きだした。今年の初鳴きだ。
  Youtube → セミ初鳴き

今日の午前中の草刈りの際に、雑草に付いていたニイニイゼミの抜け殻を見つけていたので、そろそろかも・・と思っていた。
ピンボケだがニイニイゼミの抜け殻
梅雨明け宣言はまだだが、セミはそんなことなどお構いなしだ。
夏がまたぐっと近付いた。

2015年6月27日土曜日

日本廻國塔   摂刕大坂 行者智觀

我家の墓地には、古い墓石がたくさん並んでいる。
年号が確認できる最古のものは、1786年(天明6年)が刻まれた我家の初代にあたる夫婦の墓石である。ざっと230年ほど前のものだ。
本家の墓にはさらに古い江戸時代中期の1740年(元文4年)のものがあり、これが一族の墓石で確認できる最古のものだ。

江戸時代のこの頃になってやっと墓石を立てられる時代(制度的にも、経済的にも、文化的にも)になったのだろう。近隣の古い家の墓地でも同じであり、この時代からのものしか無い。
武家や寺の坊主、神官など特別な家柄の方々は別として、おそらく我が一族のように田舎の一百姓身分では死者を弔う際は、単に墓地の一角に穴に掘って埋めて、土を盛り、その上に木碑を建てる程度であったのであろう。
だから後世に名前が残るような墓石がないのが一般的のようだ。
         
先日、我が一族の墓地の周囲を掃除(・・・周りに捨てられた石材などの片付け)をしていた折、一角から、石塔が出てきた。縦90cm×横45cmほどの自然石に文字を彫ったものだ。
長らく土中にあったためか、保存状態は極めて良く、文字がはっきり読み取れる。
表面についていた土を洗い流すと文字がはっきりと確認できた
彫られた文字は次の通り(実際には上の写真のように縦書きである)。

    摂刕 大坂
     天明七 丁未歳 初冬
(梵字)  日 本 廻 國 塔
   十月廿五日供養 之
      行者 智觀

※刕は、州の崩し字
この石塔は『日本廻國塔』または『六十六部廻国供養塔』と呼ばれているもの。

江戸時代の中ごろに、法華経の経典を六十六部書き写し全国六十六か国の霊場に奉納してまわった僧たちがたくさんおり、この僧たちを『六十六部』と呼んだ。その僧たちが満願かなった際の供養に(=記念に・神仏に感謝して)自らが碑を建てる場合と、地方行脚途中の僧に施宿・供応した地域の人が立てた場合、つまり結縁(けちえん・・・世の人が仏法と縁を結ぶこと)に対する記念の場合がある。

今回発見した石塔はどうやら後者のもので、碑面からは摂州=摂津国(今の大阪府と兵庫県一部)の人である『智觀』という名の行者が、全国を回っている途中に東野に来た、その時に一族の誰かの家が泊めてもてなしをした、このことにより仏様と縁が結ばれたのを記念して一族の誰かが(・・もしくは全員の総意で)天明7年の10月にこの石塔を建てた、と読み取れる。

天明7年(1787年)とは我家の初代が没したころだ。
どんな年または時期だったのだろうか。
全国的に1770年代から冷害が続いていたところに、天明3年(1783年)に浅間山が大爆発し被害が拡大、異常気象もあって飢饉が深刻化した時期である。いわゆる天明の飢饉と呼ばれる生活が厳しかった時期である。この2年後の寛政2年((1789年)には、東野村の農民が郡奉行所に年貢の減免を願い出ている(大宮町史)。その内容を見るとこのあたりでも相当ひどかったらしい。
前年の天明6年(1786年)には久慈川が氾濫して、旧大宮町南部・旧金砂郷村南部の一帯は壊滅的な被害だった。そんなこんなでどうやら世相はかなり暗かったようだ。
だがそんな中でもこの年に西金砂神社の72年に一度の大例祭はちゃんと催行されている。
 
旧大宮町時代に町教育委員会が町内にある石仏や石碑を一斉調査をしている。
その結果をまとめた『おおみやの野仏とその祈り  大宮町石仏石塔調査』(平成7年刊)によれば、この種の廻国塔は旧大宮町内で7基確認されている。むろんその時点で確認したものだけではあるものの、割合的には少ない部類のものということはいえる。
全国の各地でも数多く確認されており、そんなに珍しいものではない。だが(・・・馬頭観音のように)至る所、何処にでもあるようなものでもないようだ。
         
自分たちの墓をやっと建てられるようになったばかり時期に、(他所から来た見ず知らずの)巡礼僧に対する施宿という結縁を記念して、かように立派な石碑を建てていたという事実に驚く。ご先祖様の信心が形となって今に伝えられたといえる。
前記の通り世相は暗く生きるのが精いっぱいだった中で、廻り来た一介の巡礼僧に仏の慈悲を見たのだろうか。藁にも縋る思いで僧をもてなして、明日に生きる望みをつないだのだろうか。
いずれにしても、世相と照らし合わせると見えてくるのは、心底から仏の慈悲にすがった御先祖様たちの痛々しいほどの思いである。そんな念が込められた石碑である。
文化財というほど貴重なモノではないが、我が一族の記念碑として墓地の一角に立て置くもりだ。

石塔が平成の代に日の目を見て、名が彫られた智觀さんもさぞびっくりしていることだろう。

2015年6月18日木曜日

6月中旬のブルーベリー

今年のプラムはまったくの不作だ。枝に一つの実もついていない。
昨年は枝が折れるほどたわわに実が付き、連日売店に並べたものだったが。
春先に花はたくさん咲いたものの、実はつかなかった。
樹にとって休養の1年なのだろう。来年に期待。。

一方、ブルーベリーは実をたくさん付け、成熟の最中だ。
早生の品種がちょうどよい色づきになった。
とはいえ樹勢もまだまだ小さいため採れる量はごくわずか。
早生種だが、正式名称は、札が取れて無くなってしまい不詳
樹の本数が多く、樹勢も強いものは、まだ緑の固い粒ばかりだ。
こちらは7月下旬から8月中旬が旬の品種
古くからあるが品種名は不詳
ブルーベリーは毎年のように豊作が続く。

2015年6月15日月曜日

県北家畜衛生所 来たる

今日(6/15)は『県北家畜衛生所』によるミツバチがフソ病に罹っていないかどうかの検査日であった。

毎年、ミツバチを飼育している旨の届けを、法律に則って農林事務所に提出している。
届を出すと、毎年一回、ミツバチの健康状態や巣箱の管理状況などを確認するために、ちょうど今頃の時期に担当の方が現場確認・検査においでになる。
今年は今日だった。

今回は県から2人と市から1名の担当者3名がお見えになった。
5か所の巣箱をぐるっと巡って、ミツバチの出入り状態、巣の様子を確認していただいた。
群数も5と少ないので10数分で終了。(→特にコメントは無かったが、問題なしだったと思う)
そのあと、担当の方としばしミツバチ談義。

ぜひ、来年はこの検査に2~3時間は掛かるような飼育規模になりたいものだ。

ミツバチたちは、今日も元気に出入りを繰り返している。(→その様子)

2015年6月12日金曜日

満開の栗の花はミツバチの楽園

いま栗の花が満開になっている。
品種によっては多少の開化のばらつきはあるだろうが、いたるところで花が咲いているのを目にする。あの独特の匂いを漂わせて、尻尾状の房が幾重にも垂れ下がっている。

(昔から不思議に思っていること。栗の花はあのように房状で細長く、多数の粒々のもので成り立っている。なのに最終的な実はイガの中に2個~3個しか入っていてない。この花の構造と栗のイガ・実の関係はどうなっているのか?)

花が満開の栗の樹は、ミツバチたちにとって楽園である。
木の下に立つと、木の全体から羽音が聞こえてくる。
どこを向いても花・花・花だし、花粉を集めるには好都合の構造。どうやら花の上を歩き回るだけで良いみたいだ。

忙しなく動き回るミツバチ(→YouTube映像)
たくさんの花粉を巣に持ち帰る。

今年捕獲したミツバチは5群だったが、1群は(何が気に入らなかったのか)翌日に逃避された。
さらに1群は、元気に巣作りをしていた勢いのあった群れだったが、先日からミツバチが激減し、滅亡間近だ。
どうやら女王蜂が何か不慮の事故にあったようで不在となり、群れとして存続できなくなったようだ。巣箱の内部を見るたびにミツバチの姿が減ってきていて、なんとも残念だ。巣も順調に20センチ近くまで伸びてきたのに。
というわけで、現在の元気な巣は、(昨年から続いている1群) + (今年捕獲した3群)の計4群。
これらは、順調に巣が大きくなってきている。今年捕獲の群れは巣の長さが20センチ近く(2段め半ば)だ。
そろそろ巣箱の積み増しをして4段構成にしないといけない時期。来週に作業するつもりだ。

茨城県の栗の収穫高はダントツの日本一。このあたりには栗の専門農家はないが、県南・県央にはちゃんとした生産農家も多い。
ただ、このあたりでは大抵の農家の屋敷周辺には栗の木が植えてある。
だから、ここで採れるニホンミツバチの百花蜜には、栗の花粉も大量に混ざっていることになる。

2015年6月10日水曜日

イノシシ注意

さる6月5日、市内の御前山地区である事件が起こった。ニュースのリンクはこちら

イノシシが民家の庭に侵入し、2人が襲われケガをしたというのである。
(息子さんは左大腿骨骨折、右側腹部及び両足首擦過で入院。母親は右手首粉砕骨折、右肋骨骨折、右手首甲挫創で入院)

事件現場は御前山中学校の東側100メートルほどのところで、民家が点在し畑も広がる平たん部分。けっして山奥の一軒家などではない。
この事件があって御前山地区の事件現場近くにはいたるところに『イノシシ注意』の看板が立てられた。
事件現場近くの場所にも
御前山中学校のそばの道にも
イノシシが人里に出没して作物を荒らすという話は、県北地域では珍しくない。
我が家でもしょっちゅうある話なのであまり驚かないが、昼間に人家の庭で人が襲われたという話には少々驚いた。

イノシシには、ミミズ狙いで地面をほじくられて凸凹にされたり、田んぼの畔を『ヨグヨグ』(当地方の方言で、モノの状態の良くない様を表す形容動詞)にされて畦としての機能を完全に破壊されたり、稲刈り直前の田んぼの中で転げまわり稲を倒されたりは良くある。
だが、人的な被害は今までは皆無なのでイノシシとの遭遇リスクということまではあまり考えなかった。
環境的には事件現場と全く同じの地域である。他人事ではなく、今後は心せねばならないようだ。用心はするとしても、いきなり対峙してしまったら、さてどうしよう。

2015年6月7日日曜日

6月7日 はホタル帰る、日

毎年、6月7日を迎えると『ホタル帰る』という本を思い出す。
先の大戦末期に沖縄戦で特攻隊として出撃していったある特攻兵士と、出撃基地近くの食堂・富家食堂の鳥浜トメとの、出撃日夜の実話を綴ったものである。
その話の日が6月7日の夜である。
小生の拙文で内容を紹介すると、この本が伝えようとする真のメッセージが正しく伝わらないのでこのリンク先を参照してほしい。(→ ホタル帰る )

死んだ人の魂や大切な人への思いがホタルという姿・形になり、残された人々のもとに帰りくることがある、ということ。ホタルの儚げな光に死者の魂や念のイメージを重ねるのだろう。
                  
この本を読むだけでも十分に心は揺さぶられ涙してしまうのだが、この現場となった鹿児島県知覧にある『知覧特攻平和会館』を訪れ、特攻兵士の遺品、遺書、遺影の膨大な展示内容を前にすると、より強く心は揺さぶられ、心ならずも動揺してしまう。
この場所を訪れた時の小泉首相も、遺品、遺書、遺影を前に涙している。
ここのテーマは特攻の美化でも戦争の肯定でもなく、ただ死んでいった人たちへの深い鎮魂と平和を希求する強いメッセージに他ならない。

小生もかつて、知覧飛行場跡地の知覧特攻平和会館と富屋食堂を訪れたことがある。
なんとも陳腐な言い方だが、幾多の出撃=死を前にした数々の人間の心の葛藤とドラマが繰り広げられた地であって、ここの歴史を知って訪れるとたいそう重たい場所だ。
この場所が飛行場の跡地であるということ。そして展示品の数々。出撃前の夜に最後に過ごしたという三角兵舎。道路脇に建つ多数の灯篭。最後に目にしたであろう山々。
これらを目の当たりにすると苦しくなるほど迫りくるものがあり、押しつぶされそうになる。誰しもが同じ思いを抱くに違いない。今なお英霊たちの魂が漂っている感じと思えなくもない。
靖国神社とはまた違う、英霊の鎮魂の地といってもよい。
よくある観光スポットではなく、鎮魂と平和祈念の地なのである。
この本『ホタル帰る』と同様に、映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』はこの知覧が舞台である。現地を訪ね歴史を知ると涙なくしては見られぬ映画である。(上記のリンクは予告編だが、これだけのさわりでも泣けるに違いない)
                  
6月23日は沖縄戦の組織的戦闘が終結した『慰霊の日』である。
ちょうど70年前の今頃(6月上旬)は沖縄では壮絶な最後の戦いが行われている真っ最中だった。特攻の兵士も沖縄の住民も、(連合国軍の兵士もだ、)本当はもっともっと生きたかったはずの幾多の人たちの、死があったのである。
いろんな思いを胸に、ホタルに向ひて合掌。
                   
ちなみに、今日6月7日は亡母の22回目の命日。
そういえばホタルが出てくる時期だったのだなと、毎年のことながら思い返す。
今宵もホタルは我が家裏の田んぼで光っている。

2015年6月6日土曜日

2015年 ホタル初見

今年も背戸の田んぼの側溝にホタルが飛び始まった。
ちゃんと季節を忘れずに、ケナゲに飛び始めるホタル。
去年2014年の初見日は6月4日だった。

まだほんの2匹しか確認できないが、暗闇の中に淡い仄かな点滅する光を見つけると、心が鎮まる。
これからしばらくの間、夕食後のひと時は観蛍タイム。仄かな明かりを見つけるため目を凝らして田んぼや水路周辺を見る。
ただ日没後は肌寒いので長居はできない。

ちなみに水戸地方気象台のホタル初見日の平年日は6月6日の今日。
ただし、今日の現時点(2015/6/6  20:00)ではまだ戸地方気象台HPのホタル初見日は空欄だ。
梅雨入りも近そうだ。暑い夏がまたやって来る。

2015年6月5日金曜日

8年目の金スマ田んぼ

毎年のことだが、金スマ・ひとり農業の田んぼは、この辺りでは一番遅い田植えである。付近の農家に遅れること一か月、6月上旬~中旬に行われていることが多い。

昨日、小瀬地区を車で通過した際に、少し足をのばして金スマ・ひとり農業の田んぼを見てきた。
田んぼは、代掻きがやっと終わったという状態だった。それも、雨が少なくて水に苦労したのだろうと思わせる仕上がり。ほとんど水が溜まっていない。
(→残念ながら、写真は無い)

ちょっと説明すると、本来なら一般的には代掻きをする段階では、苗を植える泥面の水平レベルを確認するためわずかに泥が水面に隠る程度の水が溜まっているのが普通である。そのほうが代掻き作業自体もやりやすい。
だが、この田んぼは水がほとんど溜まっておらず泥面が全面姿を現しているところをみると、水をあまり張らないまま(張れなかったのだろう)、機械で田んぼの泥をトロトロに攪乱(=これを代掻きという)して、均したようだ。
毎年手植えするようだから植える際にはこれで良いのだろうが、田んぼ面が水平でないとのちのち水の管理が十分にできなくなると思う。

とにもかくにも、代掻きはどうにか終わっているようなので、またいつものメンバーが来て田植えイベントが開かれる日も近いと思う。来週あたりか?
金スマ・ひとり農業の8回目の田植えである。

2015年6月1日月曜日

ヒメヤママユ

なんとも見事な黄緑蛍光色の毛並みである。
(この写真だとあまり感じられないが目映いほどの蛍光色である)
背景が黒いとより鮮やかさが際立つ。
きれいに切りそろえたような毛も特徴的だ。
大きさはおよそ7~8cm。毛虫の中では大きな部類だろう。
いきなり出会うと、色と大きさにドキッとする。
これだけ目立つ色や大きさだと、さぞ天敵に見つけられやすいだろうと、要らぬ心配もするが。

シイタケ原木の上にいたヒメヤママユの幼虫
天蚕の一種、ヒメヤママユ(姫山繭)最終の齢期の幼虫である。
次は蛹(さなぎ)になるという段階の麗しい姿だ。
若齢期にはごく普通の毛虫の色・姿だが、何度か脱皮を繰り返してこの姿にたどり着く。
蛾となった成虫というのは、大きな羽に目玉模様がある例のヤツ。粉っぽい羽の蛾だ。
個人的にはまったく好きではない。
繭は薄緑色でなんとも綺麗なのだが(→ 2015/1/29ブログ)。
                    
ヒメヤママユ・・・・・姫山麻由
なんとなくAKB48やらNMB48とかに在籍していそうな名前ではないか。
上の写真のお嬢さん(雌かどうかわからぬが)は、"デビュー"というか飛翔の時が間近だ。