年号が確認できる最古のものは、1786年(天明6年)が刻まれた我家の初代にあたる夫婦の墓石である。ざっと230年ほど前のものだ。
本家の墓にはさらに古い江戸時代中期の1740年(元文4年)のものがあり、これが一族の墓石で確認できる最古のものだ。
江戸時代のこの頃になってやっと墓石を立てられる時代(制度的にも、経済的にも、文化的にも)になったのだろう。近隣の古い家の墓地でも同じであり、この時代からのものしか無い。
武家や寺の坊主、神官など特別な家柄の方々は別として、おそらく我が一族のように田舎の一百姓身分では死者を弔う際は、単に墓地の一角に穴に掘って埋めて、土を盛り、その上に木碑を建てる程度であったのであろう。
だから後世に名前が残るような墓石がないのが一般的のようだ。
長らく土中にあったためか、保存状態は極めて良く、文字がはっきり読み取れる。
表面についていた土を洗い流すと文字がはっきりと確認できた |
摂刕 大坂
天明七 丁未歳 初冬
(梵字) 日 本 廻 國 塔
十月廿五日供養 之
行者 智觀
※刕は、州の崩し字
この石塔は『日本廻國塔』または『六十六部廻国供養塔』と呼ばれているもの。
江戸時代の中ごろに、法華経の経典を六十六部書き写し全国六十六か国の霊場に奉納してまわった僧たちがたくさんおり、この僧たちを『六十六部』と呼んだ。その僧たちが満願かなった際の供養に(=記念に・神仏に感謝して)自らが碑を建てる場合と、地方行脚途中の僧に施宿・供応した地域の人が立てた場合、つまり結縁(けちえん・・・世の人が仏法と縁を結ぶこと)に対する記念の場合がある。
今回発見した石塔はどうやら後者のもので、碑面からは摂州=摂津国(今の大阪府と兵庫県一部)の人である『智觀』という名の行者が、全国を回っている途中に東野に来た、その時に一族の誰かの家が泊めてもてなしをした、このことにより仏様と縁が結ばれたのを記念して一族の誰かが(・・もしくは全員の総意で)天明7年の10月にこの石塔を建てた、と読み取れる。
天明7年(1787年)とは我家の初代が没したころだ。
どんな年または時期だったのだろうか。
全国的に1770年代から冷害が続いていたところに、天明3年(1783年)に浅間山が大爆発し被害が拡大、異常気象もあって飢饉が深刻化した時期である。いわゆる天明の飢饉と呼ばれる生活が厳しかった時期である。この2年後の寛政2年((1789年)には、東野村の農民が郡奉行所に年貢の減免を願い出ている(大宮町史)。その内容を見るとこのあたりでも相当ひどかったらしい。
前年の天明6年(1786年)には久慈川が氾濫して、旧大宮町南部・旧金砂郷村南部の一帯は壊滅的な被害だった。そんなこんなでどうやら世相はかなり暗かったようだ。
だがそんな中でもこの年に西金砂神社の72年に一度の大例祭はちゃんと催行されている。
その結果をまとめた『おおみやの野仏とその祈り 大宮町石仏石塔調査』(平成7年刊)によれば、この種の廻国塔は旧大宮町内で7基確認されている。むろんその時点で確認したものだけではあるものの、割合的には少ない部類のものということはいえる。
全国の各地でも数多く確認されており、そんなに珍しいものではない。だが(・・・馬頭観音のように)至る所、何処にでもあるようなものでもないようだ。
前記の通り世相は暗く生きるのが精いっぱいだった中で、廻り来た一介の巡礼僧に仏の慈悲を見たのだろうか。藁にも縋る思いで僧をもてなして、明日に生きる望みをつないだのだろうか。
いずれにしても、世相と照らし合わせると見えてくるのは、心底から仏の慈悲にすがった御先祖様たちの痛々しいほどの思いである。そんな念が込められた石碑である。
文化財というほど貴重なモノではないが、我が一族の記念碑として墓地の一角に立て置くもりだ。
石塔が平成の代に日の目を見て、名が彫られた智觀さんもさぞびっくりしていることだろう。
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