本来の縁日の趣旨は、同寺HPによれば『(常福寺第二世の了誉)上人の偉大なるお力を少しでも恵与下さるようにとの、向学の学徒・家族の祈願』とあるが、実際のところは先祖供養の色彩が濃いようだ。本堂手前の蓮華院には先祖供養のお札を買い求める人が列をなす。
ここで求めるお札には『南無二十六夜尊 為○○家先祖代々浄火供養之塔』とあり、○○に姓を墨書してもらう。このお札を二十六夜尊堂に納める。大半のひとがこの目的で来ているのだろうと思う。
二十六夜尊堂にお札を供えて手を合わせる |
今年は、たまたま浄火供養の儀式の時間帯に境内に入った。
初めて目にする『浄火供養』の儀式。声明の内容はさっぱり分からぬが、しばし立ち止まって眺めた。参拝の目的は先祖供養であっても向学の祈念であっても、ここに集う善男善女はこの儀式を真剣な面持ちで見つめている。
壇上の僧侶に一心に手を合わせて祈る素朴な人々の信心の姿がここにあった。
一通り参拝のあとの帰り道、いろんなことを考えながら参道を歩いた。そして家に戻ってからのこの一週間も。
縁日を通じての仏様のご縁って・・・、信心ってのは・・・。
縁日自体が非日常の場であって、テンションが上がるのは不思議ではないが、どうもそれだけではないような何かがもたらされる気がしている。
『信仰』とはちょっと違うのだが、集まる人たちに心の襞を一枚増やしてくれるなにか不思議なものなのかもしれぬと。結縁によって皆の心の中に何かが残るのではないかと。
ここに来る・来たことで残る暖かい記憶とでもいうものか。
それがいつか何かの拍子で呼び起こされて、ちょっとだけ切なくなったり幸せになったりする。
そう言えば周囲にも、婆さんに連れられて小さいときに来たなあ・・など回顧するちょっと年上の人は多い(昭和30年代のことであろう)。
必ずある煮イカの屋台 子供の時の舌と鼻孔の記憶は簡単には消えないものだ |
この男の子たちもいつの日か父親になって、 この興奮を我が子に懐かしく話す時がくるのだろう |
あと十数年もすると彼女たちもすっかり大人の女性になり それぞれ人生の選択をして違う人生を歩み出す。 仲よしと一緒に屋台巡りしたことも 楽しい記憶の1ページとなることだろう |
自然と人を化すのが仏のご威光かもしれぬ。縁日が多くの人を惹き付けて止まないというのも、まさにそれで、衆生に対する間接的な救いなのだろう。
単なる縁日に出かけても、あれこれ考えしみじみとした気分になる。
残念ながらこのような感慨は、同様に人出は多いものの、かの新そば祭りにはない。
齢を重ねたせいもあるが、こんなことを思うことこそが仏のお導きかも知れぬ。現世利益ばかりではない。
農業は自然相手で神仏への感謝の連続。
なにものが おわしますかはしらねども かたじけなさに なみだこぼるる の心境だ。ありがたや。。
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